枝の主日 - エルサレム入城に隠された意味

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はじめに

枝の主日は、イエスが十字架にかかる五日前にエルサレムに入城したことを記念する日です。この日、群衆は棕櫚の枝を振り、彼を王として歓呼しました。この出来事は驚くべきもので、ほとんど謎めいてさえいます。三年間、イエスは目立たぬように振る舞い、弟子たちが自分をメシアと呼ぶことさえ禁じていたのです。それが突然、この公の示威行動を自ら計画するのです。なぜこの変化が起きたのでしょうか。彼の王国の意味は何であり、それは今日のあなたに何を語りかけているのでしょうか。

メッセージの構成

1. イエスの生涯における謎めいた出来事

  • 三年間、イエスは目立たぬ姿勢を貫きました。貧しさ、控えめさ、自分の奇跡について語られることの拒否です。
  • 彼は弟子たちが自分をメシアと宣言することさえ禁じる一方で、ペトロの告白「あなたはメシアです」は受け入れました。
  • 獄中のバプテスマのヨハネは疑いを抱き、弟子たちを遣わして尋ねさせます。「来たるべき方はあなたですか」(マタイ11章)。
  • そしてこの枝の主日、すべてが一変します。イエスは自ら子ろばに乗ってエルサレムへの王としての入城を計画し、群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを許すのです。

2. マタイによる福音書21章を丹念に読み解く

  • イエスは二人の弟子を遣わし、オリーブ山のベトファゲで雌ろばとその子ろばを連れて来させます。
  • 群衆は自分の衣を道に敷き、枝を切って歓呼し、詩篇118篇を引用して彼を称えます。
  • 神殿に入ったイエスは商人たちを追い出し、自分のもとに来る盲人や足の不自由な人々を癒やします。
  • 子どもたちが「ホサナ」と叫ぶのを聞いて憤慨する指導者たちに対し、イエスは詩篇8篇を引用して答えます。「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは賛美を打ち立てられた」。

3. なぜイエスは態度を変えたのか

  • 本文自体がこう述べています。「これは、預言者によって語られたことが成就するためであった」。紀元前480年頃、ゼカリヤはこの子ろばに乗った謙遜な王の到来を告げていました。
  • 今や聖金曜日まで五日を残すのみです。メシアについての誤解は、もはやこれ以上続けることができません。
  • イスラエルの人々は、ダビデのようにローマ人を追い払う軍事的な指導者を待ち望んでいました。イエスはそのようなメシアではありません。
  • 来るべき一週間が、彼がどのような王であるかを示すことになります。茨の冠をかぶり、その玉座は十字架である王です。

4. 彼が開始する王国の真の性質

  • 「神の国は、目に見える形では来ない」(ルカ17章)。「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18章)。
  • この王国は「聖霊による義と喜びと平和」です(ローマ14章17節)。
  • それは十字架の上ですでに始まっています。「あなたの御国に入るときには、わたしを思い出してください」と言う強盗に、イエスはこう答えます。「今日、あなたはわたしと共に楽園にいる」。
  • 彼は屠られた小羊であり、悪を担い、それを取り去ることによって悪に打ち勝つ方です。

5. 今日のあなたへの四つの教訓

  • 預言の成就は、あなたの信仰にとって確かな支えとなります。ブレーズ・パスカルが語ったように、「イエス・キリストの最大の証拠は、預言である」。
  • この歴史の段階において、神の国は霊的なものです。政治的あるいは社会的な権力の手段によってそれを推し進めようとしてはなりません。
  • 神の教育法を尊重してください。理解するには時間がかかります。自分自身に対しても、兄弟姉妹に対しても忍耐深くありましょう。
  • 根のない信仰に気をつけてください。日曜日に「ホサナ」と叫んだ群衆が、金曜日には「死刑にせよ」と叫びます。自分が信仰にとどまっているかどうか、自らを吟味しなさい。

覚えておきたいポイント

  • イエスの凱旋入城は、彼の目立たぬ姿勢と矛盾するものではありません。それは十字架の五日前における、その姿勢の開示なのです。
  • ゼカリヤ書9章9節を文字通り成就します。預言の正確さがこの出来事を裏付け、この出来事が預言を裏付けます。
  • イエスの王国は政治的なものではありません。その玉座は十字架であり、その冠は茨であり、その勝利は自らの命を捧げることによって成し遂げられます。
  • 彼は世の罪を取り除く神の小羊です。罪を担うことによって、それを取り去るのです。これは神の計画の隠された知恵であり、人の心には浮かばなかったものです。
  • あなたの信仰は根を張らなければなりません。日曜日の感動だけでは十分ではありません。「わたしたちは真実でなくとも、彼は常に真実であられる。しかし、わたしたちが彼を否むなら、彼もわたしたちを否まれる」(テモテへの第二の手紙2章12-13節)。

個人的な適用

  1. あなたは「メシア」についてどのようなイメージを作り上げていますか。あなたは自分のやり方で問題を解決してくれるイエスを待っていますか、それとも十字架から支配する方を受け入れていますか。
  2. あなたはどこで、神の国をその方法ではない手段、すなわち圧力、名声、世俗的な影響力によって推し進めようとする誘惑を受けていますか。
  3. あなた自身、あるいはあなたの周りの人々における神の教育法に対して、忍耐が足りない領域はありませんか。
  4. あなたの信仰には根がありますか。それは風が吹いたときにも耐えられるものですか、それともその場の熱意に左右されるものですか。
  5. 今週、あなたはどのようにして「世の罪を取り除く神の小羊」を、あなたのキリスト者としての人生の中心として改めて見つめますか。

引用された聖句

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よくある質問

なぜイエスは枝の主日にそれを明らかにするまで、三年間メシアであることを隠していたのですか。

当時のメシア観は、ローマ人を追い払う軍事的指導者というものでした。イエスはそのようなメシアではありません。この誤解が群衆を誤った方向に導く危険がある限り、彼は沈黙を守ることを選びました。聖金曜日まで五日となったこの時、来るべき一週間がそれ自体によって、彼がどのような王であるかを示すことになります。茨の冠をかぶり、その玉座は十字架である王です。彼の死がその支配の真の性質を明らかにするからこそ、今や彼は自らメシアと宣言されることを許すことができるのです。

「ホサナ」という叫びは何を意味し、なぜ群衆はその日それを使ったのですか。

「ホサナ」(ヘブライ語でホシアナ)は詩篇118篇に由来し、文字通りには「どうか救ってください、救ってください」を意味します。しかしイエスの時代には、この表現は王への歓呼の言葉、いわば「王万歳、王に勝利を与えたまえ」に相当するものとなっていました。「ダビデの子にホサナ」と叫ぶことで、群衆は預言者たちが告げた王的メシアとして、公にイエスを認めているのです。

イエスを歓呼した群衆が数日後には彼の死を求めるという、その気まぐれさから何を学ぶべきですか。

それは、感情的な支持がいかに脆いものであるかを私たちに思い起こさせます。イエスは種を蒔く人のたとえの中でこれを示しました。石地に落ちた種は良い地に落ちた種よりも早く芽を出しますが、風にさらされて枯れてしまいます。根のない信仰は続きません。使徒パウロが勧めるように、私たちは正直に自分自身を吟味することが良いのです。「自分自身を吟味して、自分が信仰にとどまっているかどうかを確かめなさい」(コリントの信徒への第二の手紙13章5節)。

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