キリストの勝利が人類の恥をぬぐう

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はじめに

あなたの人生において最も難しい戦いの一つは、恥の扱い方です。私たちの社会は、恥など決してふさわしいものではなく、払いのけるべき重荷だと思い込ませようとします。しかしあなたは、それでもなお恥を背負っています。程度も理由も様々です。時にはあなたに責任のない傷のために、また多くの場合、あなたが本当に責任を負っていることのためにです。マルコ14章26-52節で、イエスはあなたをゲツセマネの園へと連れて行き、あなたの恥をどうされるかを示されます。すなわち、あなたがそれを置いて行けるように、御自身がそれを引き受けられるのです。

メッセージの構成

1. 三つの失敗の預言(26-31節)

  • 語り出す前に、イエスは弟子たちと共に「ハレル」(詩篇113篇~118篇)を歌われます。この詩篇はエジプトからの救出を語り、メシアが拒まれることを告げています(詩篇118篇22節)。イエスは文字通り、ご自分にまもなく訪れる拒絶について歌っておられるのです。
  • 27節で、イエスはゼカリヤ13章7節を引用されます。「わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散らされる。」イエスはご自分を打たれる羊飼いとして示し、ご自分の苦しみが制御を失ったものではないことを強調されます。それは何世紀も前に定められた、神の意図的な計画の一部なのです。
  • 28節で、イエスは回復の約束を付け加えられます。「しかし、わたしはよみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」ゼカリヤの預言は破滅で終わるのではなく、刷新で終わるのです。
  • ペテロは抗議します(29節)。「たとえみながつまずいても、私はつまずきません。」そして弟子たち全員が同じことを言います。シナイ山でのイスラエルのように、彼らは忠誠を誓い、そしてわずか数時間のうちに倒れてしまいます。羊飼いは、羊たちが自分自身を知る以上に、羊たちのことを知っておられるのです。

2. ゲツセマネ:王の戦い(32-42節)

  • 「ゲツセマネ」とは、文字通り「オリーブの油搾り場」を意味します。この名は実にふさわしいものです。ここでこそ、イエスは押しつぶされるために来られたのです。この園でこそ、イエスの勝利が決せられます。なぜなら、ここでこそイエスは御父のみこころに自ら進んで従われるからです。そしてこの対比を見逃さないでください。アダムは園で堕落し(創世記3章)、イエスは園で勝利を収められます。これはエデンの逆転の始まりなのです。
  • イエスは祈られます。「アバ、父よ、あなたにはすべてのことができます。この杯をわたしから取り除けてください。」イエスは神を「アバ」――文字通り「パパ」――と呼ばれます。そして「すべてのことができる」と言われます。あなたの罪は神を行き詰まりに追い込んだのではありません。十字架の計画は義務ではなく、可能な限り最良の計画だったのです。
  • 旧約聖書において「杯」とは、罪に対する神の裁きを表すイメージです(エレミヤ25章15節)。この杯は本来あなたのためのものです。しかしそれがあなたの唇に届く前に、イエスがそれを取り、あなたの代わりに飲み干されます。
  • 弟子たちは三度眠り込んでしまいます。イエスは驚かれません。夜も遅く、彼らは疲れ果て、悲しみのあまり眠っていたのです(ルカ22章)。しかしイエスは、彼らにご自分の声を覚えていてほしいと願われます。「目を覚まし、気をつけていなさい。誘惑に陥らないように祈りなさい。」そしてイエスは告発者たちに立ち向かわれます。イエスの服従は、恐れがないことを意味しません。それは、その恐れに直面してもなお貫かれる、決然とした従順なのです。

3. 逮捕:口づけによる裏切り(43-50節)

  • ユダは武装した群衆と共にやって来て、あらかじめ決めていた合図――口づけ――を行います。愛情の仕草が裏切りの合図となるのです。詩篇41篇10節が響き渡ります。「わたしと親しくし、わたしの信頼していた者、わたしのパンを食べていた者さえ、わたしに向かってかかとを上げました。」
  • ある弟子(他の福音書によればペテロ)が剣を抜き、大祭司のしもべの耳を切り落とします。すると、イエスはこの出来事の卑劣さを浮き彫りにする質問をされます。「剣や棒を持って、まるで強盗にでも向かうようにわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で教えながらあなたがたと一緒にいたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。」彼らにはもっと容易な機会が幾度もあったのに、彼らは夜、人目を忍んでやって来たのです。
  • 「しかし、これは聖書が成就するためです。」イエスは一つの聖句だけを語っておられるのではありません。イザヤ書53章、詩篇22篇、ゼカリヤ書12~13章、創世記3章という預言的な全体像を指し示しておられるのです。すべてがここに収束します。
  • 50節で、預言が彼らの目の前で成就します。「みなイエスを見捨てて逃げてしまった。」羊飼いは打たれ、羊は散らされます。

4. 裸で逃げた若者:私たちの恥のイメージ(51-52節)

  • マルコは、一見些細に見えるが実に深い意味を持つ細部を書き加えています。一枚の亜麻布をまとっただけの一人の若者が、イエスについて行っていました。彼が捕らえられると、亜麻布を脱ぎ捨て、裸のまま逃げ去ります。
  • マルコだけがこの細部を記しています。この若者はマルコ自身ではないかと考える人もいます。それはあり得ることですが、重要なのはそこではありません。重要なのはそのイメージです。園で、裸のまま。
  • 罪を犯した後、アダムとエバは自分たちが裸であることに気づき、恥を覚えました(創世記3章)。学校や職場で自分が裸でいることに気づく典型的な悪夢も、同じことを語っています。それは、さらけ出される恥なのです。ここで、イエスの裁判の直前に描かれる最後のイメージは、大いなる失敗の後で神の前に立つ人類全体の姿――裸で、恥にまみれ、さらけ出された姿――なのです。
  • この若者は、あなたです。私たちすべてなのです。そして、まさにこのイメージこそ、キリストが十字架の上で担われるものとなります。絵画とは違い、イエスは腰布を着けてはいませんでした。イエスもまた、裸だったのです。あの若者は逃げ出し、身を隠し、着替え直すことができました。しかしイエスにはそれができませんでした。イエスは裸のまま、十字架に釘づけにされ、すべての人の前に高く上げられ、さらけ出されたままでした。イエスはあなたの肉体的な恥だけを取り除かれたのではありません。あなたの罪の恥を、ご自身の身に負われたのです。

要点

  • イエスの苦しみは制御を失ったものではありません。それは何世紀も前に定められた計画の成就です。打たれる羊飼い、散らされる群れ、約束された復活――すべてが告げられていたことです。
  • ゲツセマネで、イエスは御父にとって「すべてのことができる」ことを知っておられます。別の計画もあり得たはずです。しかしこの計画が選ばれたのは、それが唯一可能だったからではなく、それが最良だったからです。
  • イエスが飲まれる杯とは、あなたの罪に対する神の怒りの杯です。それがあなたの唇に届く前に、イエスがそれを取られます。
  • イエスの服従は、恐れがないことを意味しません。それは恐れに直面してもなお貫かれる決然とした従順であり、あなたの内側のすべてが逃げ出したいと願う時にもなお神に信頼することです。
  • 裸の若者は、私たちすべてです。キリストはその恥を私たちの代わりに引き受けられました。あなたの恥――過去のものも、現在のものも、これから来るものも――もはやあなたのものではありません。イエスがそれを担われたのです。

個人への適用

  1. あなたが今日もなお背負っている、恥に感じる具体的な瞬間は何でしょうか。それを神の前で名指し、神と共に置いて行く用意はできていますか。
  2. あなたは逃げること、隠れること、自分を弁護すること、否認することによって恥を処理しようとしていませんか。それとも、イエスがそうされたように、恥に向かってまっすぐ歩み、十字架の足もとにそれを置いていますか。
  3. あなたがまた躓く時、キリストがすでに明日のあなたの恥を担ってくださっていると本当に信じていますか。それとも、そのたびにゼロからやり直そうとしていますか。
  4. 神の完全な計画への信頼は、今直面している戦いを耐え抜く助けとなり得るでしょうか。どこで「神のみこころは完全です」という言葉を聞く必要がありますか。
  5. 恥があまりにも重すぎるように感じて、直面することを拒んでいる罪があなたの人生にありますか。もし今日、キリストがすでにその恥をも担ってくださったと受け入れたなら、何が変わるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

イエスは、ご自分が死ななければならないことを最初から知っていたのに、なぜ「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたのですか。

それは、イエスの神性と人性が切り離せないものだからです。ゲツセマネで、あなたが目にするのは、これから訪れる苦しみに明らかに恐れおののく一人の人間の姿です。その苦しみは、肉体的・感情的な次元をはるかに超えたものです。イエスは決して演技をしているのではありません。それでもすぐに、イエスはこう付け加えられます。「わたしの願うことではなく、あなたの御こころのままに行ってください。」御父への信頼は、恐れよりもさらに大きいのです。

イエスが飲まなければならなかった「杯」とは何を意味しますか。

旧約聖書において「杯」は、人類の罪に対する神の裁きを表す頻出のイメージです。エレミヤ25章15節ははっきりとこう述べています。「わたしの手からこの怒りの杯を受け取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にこれを飲ませよ。」この杯は本来、私たちのためのものです。イエスはそれが私たちの唇に届く前にそれを取り、私たちの代わりに飲み干されました。

自分の恥があまりにも大きすぎて、置いて行くことができないと感じる時、どうすればよいですか。

裸のまま逃げ去ったあの若者と、十字架でその姿を代わりに引き受けられたイエスを思い出してください。あなたの恥は、もはやあなたが背負うべきものではありません。自分の罪をはっきりと見つめ、その罪の恥を深く感じ取り、そしてその恥をキリストのもとに置いていきなさい。それはもはやあなたのものではありません。キリストの肩は、あなたの肩よりもはるかに広いのです。あなたが担いきれないものを、キリストは担うことがおできになります。

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