聖書 — 口語訳 (1955)
ヘブル人への手紙 4
概要
ヘブル人への手紙4章は、前の章の警告を続けます。神の安息に入るという約束は、今も開かれています。荒野の民は信仰がなかったために入れませんでした。著者は、きょうという日があり、心をかたくなにせずに神の声を聞くことができると語ります。そして神の言葉を、生きていて、力があり、つるぎよりも鋭く、心を見抜くものと述べます。章は、堅く立つよう招き、イエスが私たちの弱さに同情してくださるのだから、確信をもって恵みの御座に近づくようにと勧めます。
この章の3つの区分
1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
2というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
4すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
5またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
6そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
7神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
8もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
9こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
10なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
11したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
12というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
13そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
14さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
15この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
16だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
鍵となる聖句
神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
著者は詩篇95篇を引用します。きょうという日が続く限り、神の声を聞くことは可能です。警告は、心をかたくなにしてはならないということです。
こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
安息日の休みが神の民に残されています。その安息に入る者は、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを休みます。キリスト教の伝統では、この安息を、現在のことと将来の成就のことの間で、少しずつ違うように理解しています。
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
神の言葉は、生きていて、力があり、二つの刃のつるぎよりも鋭いと述べられます。それは、心の思いやはかりごとにまで届き、神からは隠すことができません。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
イエスは、私たちの経験から遠い大祭司ではありません。すべての点で私たちと同じように試みに会われましたが、罪はおかされませんでした。そして私たちの弱さに同情することができます。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
この箇所を結ぶ招きです。大胆に恵みの御座に近づき、あわれみを受け、助けを得ましょう。祈りは、自分にふさわしいと感じる人だけのものではありません。
説教が語っていること
ヘブル人への手紙4章についてよくある質問
ヘブル人への手紙4章の、神の安息に入るとはどういう意味ですか
著者は、イスラエルに約束された安息と、創造の第七日の安息を取り上げ、それを神の民全体に広げています。この安息に入るとは、神を信頼し、自分のわざに頼ることをやめ、神の声に従うことです。すでに今経験している部分と、これから来る部分については、クリスチャンの間で議論があります。
ヘブル4章12節の、つるぎよりも鋭い神の言葉とはどういう意味ですか
この節は、神の言葉を、生きていて、力があり、心の思いやはかりごとにまで届くものとして述べています。二つの刃のつるぎのたとえは、隠されたものを見分け、あらわにする力を強調しています。文脈では、心をかたくなにすることへの警告に続いています。
ヘブル4章16節の、恵みの御座に近づくとはどういう意味ですか
それは、確信をもって神に祈りに来ることです。大祭司であるイエスが、私たちと同じように試みに会われ、弱さに同情してくださるからです。この御座は恵みの御座と呼ばれ、そこへはさばかれるためではなく、あわれみと助けを受けるために来ます。この確信は、私たちの功績ではなく、キリストのなさったことに基づいています。
なぜ著者はヘブル4章で、きょうと語るのですか
著者は詩篇95篇を引用し、きょうと言われる間、つまり神がなお語っておられる間は、安息の約束が差し出されていると述べます。待たずに神の声に応えること、荒野で民を失敗させたかたくなさを避けることが、緊急に求められています。
ヘブル人への手紙 4を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。