はじめに
「リバイバルの火を取り戻すこと、それが今の時代の急務です。」トゥールーズ西アッサンブレ・ド・デュー教会(Assemblée de Dieu de Toulouse Ouest)にジャン=マルク牧師から招かれたドミニク・ボコ(Dominique Boko)師は、その日曜日のメッセージを長い間探していたと語ります。木曜日の夜、若者たちとの祈りの時間に、主がこの思いに目を開いてくださったのだそうです。
取り上げられる箇所は、黙示録3章14節から22節にあるラオデキヤの教会への手紙です。説教者はこれを一つの事例研究として扱います。豊かで、活動的で、自信に満ちた教会。その教会にイエスは、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」と言われるのです。
師が投げかける問いはシンプルです。生ぬるくなった教会、あるいはクリスチャンは、どうすれば火を取り戻せるのか。師は六つの行動を挙げ、次のようにまとめています。「火は、主からの独立を選ぶときに失われます。火を取り戻すのは、自分の生ぬるさを認め、悔い改め、主に戸を開くときです。」
メッセージの流れ
1. ラオデキヤ、火を失った豊かな教会
- ラオデキヤは小アジアの豊かな町で、富、銀行業、織物産業、医療で知られていました。この繁栄が、住民のあいだにある種の自己充足を育てた可能性があります。
- 教会が自分自身をどう思っているかと、教会の持ち主であるキリストがそこに何を見ておられるかとのあいだには、際立った対比があります。
- 問題は、活動やプログラムや資源がなかったことではありません。兄弟姉妹は動いていましたが、教会は霊的な熱を失っていたのです。
- 「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」主が望んでおられるのは、私たちがどちらかを選ぶことです。
- 悲劇的なのは、この生ぬるさが教会を不安にさせてすらいなかったことです。教会は、気づかないうちに最初の輝きを失っていました。
- 説教者は「座ったままの後退者」について語ります。教会を離れた人たちと、熱心さを失ったまま教会の中に座り続けている人たちがいるのです。「後者が最も危険です。自分は生きていると思いながら、実際には死んでいるのですから。」
2. キリストの診断にさらされる
- 「リバイバルは、教会がキリストの診断を受け入れるときに始まります。」自分の目で自分を見るのではなく、「キリストのスキャナーにかけられる」ことが大切です。
- 診断を下す前に、イエスは「アーメンたる者、忠実な、真実なあかし人」として自らを示されます。「アーメン」は、確かさ、確実さ、真実、信頼性を表します。そのため、この診断は本物です。忠実な証人であるイエスは、外見や、人々が私たちに与える評判には頼られません。
- 人をだますことはできても、キリストをだますことはできません。本当の問いは、人が私をどう思うかではなく、キリストが私を見るとき何を見ておられるかです。「皆さんには私がよく見えるでしょう。身なりもきちんとしていて、ここでネクタイをしているのは私だけです。でもキリストは、私の心の中で起きていることをご覧になっています。」
- 生ぬるさとは、始めたころの熱意なしに神に仕えることです。情熱なしに祈り、変えられることなくみことばを聞き、熱意なしに証しをし、神の関心事のために身を献げることなく神を愛することです。
- 神を愛することには意味があります。時代の流行をまねせず、周りの世界のようには生きず、神のために身を献げ、そのためなら苦しむ覚悟をするということです。
- 「病気なのに病気だと知らなければ、どうして癒やされるでしょうか。」教会は自分を健康だと言っていましたが、実際はまったくそうではありませんでした。
3. 火を消したものを見つける
- 火には、消えていく性質があります。手入れをしなければ炎は小さくなり、残るのは燃えさし、そして灰だけです。多くのクリスチャンは、最初に受けた火を保たなかったため、まだ火があると思っていても、実際には「隣人に風邪をひかせる」灰しか残っていません。
- 第一の原因は、自己充足です。「わたしは富んでおり、豊かになった、なんの不自由もない」(17節)。けれども、クリスチャンの生活とは「ほかの方の命を、ほかの方を通して生きること」、すなわち聖霊によるキリストの命です。だからイエスは、ご自分が去って助け主が来られるほうが私たちのためになる、と言われたのです(ヨハネによる福音書16:7)。
- 第二の原因は、富についての誤った認識です。ラオデキヤは物質的な富を持っていましたが、霊的には貧しかったのです。神の基準は、世の基準とは違います。
- 説教者は、教皇インノケンティウス4世とトマス・アクィナスにまつわるとされる逸話を紹介します。教皇は言いました。「私たちはもはや、ペテロのように『金銀は私にはない』とは言えない。」トマス・アクィナスは答えました。「そして、あなたはもはや『立ち上がって歩きなさい』とも言えません」(使徒行伝3:6参照)。
- 「人々を救うのは物質的な富ではありません。霊的な富です。」この世における私たちの存在が力を持つのは、下からの力ではなく、上からの力に支えられているときだけです。
- 救うのは、私たちの筋肉でも人間の哲学でもありません。心に迫る両刃の剣のように力あるみことばであり、それも聖霊の力を伴っていることが条件です(ヘブル人への手紙4:12)。
- 第三の原因は、霊的な盲目です。教会は、自分自身の状態に目が見えていませんでした。毎日キリストに頼らなくても生きていけると思い始めたとき、火は消えます。「キリストは教会の監督者であり、ご自分のために働くよう私たちを遣わされた方です。」
4. 主の処方箋を受け取る
- 18節で、イエスは火で精錬された金、白い衣、目薬を、ご自分から買うように勧めておられます。三つの問題に、三つの解決です。
- 貧しさに対しては、火で精錬された金。
- 裸に対しては、白い衣。説教者にとってこれは証しを意味し、主を知らない人々のただ中での「輝く証し、燃える証し」のことです。
- 盲目に対しては、目薬。霊の目が開かれ、自分自身の現実が見えるようになるためです。そうして初めて、リバイバルと平安と主との交わりを取り戻すことができます。
5. 熱心さと悔い改めで火を灯し直す
- 主は処方箋を与えられますが、だれにも無理に飲ませはなさいません。手を差し伸べて言われます。「だから、熱心になって悔い改めなさい」(19節)。
- 「熱心さは、生ぬるさの正反対です。」主のために燃え、生き生きとし、力強くあるべきです。私たちの信仰の生き方が、ほかの人にも主に仕えたいと思わせるほどに。
- 「悲しい顔のクリスチャンは、残念なクリスチャンです。自分が何者か、自分が何を持っているか、だれが共にいてくださるかを知らないのです。」私たちと共におられる方は、私たちに敵対する者よりも力強い方です。
- 私たちの喜びは、持っているものに左右されません。家賃を払えないときでさえ、そうです。喜びは、世の終わりまで毎日共にいると約束されたキリストとのつながりにかかっています(マタイによる福音書28:20)。
- 私たちは天の御国の大使であり、地上では旅人であり寄留者です。私たちの繁栄は、フランスにもコートジボワールにも左右されません。戦争、危機、猛暑のなかでも、祝福は上から来ます。そこではキリストが神の右に座し、私たちのためにとりなしておられます(ローマ人への手紙8:34)。
- 「祈るときは、熱心に祈りなさい。聖書を読むときは、熱心に読みなさい。証しをするときは、熱心に証しをしなさい。」80億の人々のなかで、あなたはかけがえのない存在です。この世の市民のようになろうとしないでください。
- 悔い改めるとは、立ち返ること、自分の生ぬるさを認めてそれを捨てることです。「すべてわたしの愛する者を、わたしはしかったり、懲らしたりする。」主があなたにこのように語られるなら、それはあなたを愛しておられるからです。主が今、ご自分の子どもたちをさばかれるのは、立て直すためであって、失うためではありません。
- 試練のとき、主はあなたと共に炉の中に入られます。ネブカデネザルが見た第四の人のようにです(ダニエル書3:24-25)。「主は炉をエアコンに変えてくださいます。」
6. キリストのために戸を開き直す
- 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」(20節)。この逆説は衝撃的です。教会の持ち主であるキリストが、ご自分の名を冠した教会の戸の前、外に立っておられるのです。
- この節は伝道によく用いられますが、文脈の上では教会に向けて語られています。
- 「わたしは立って」:キリストはそこにおられ、あなたが開こうと決めるまで、忍耐強く待っておられます。
- 「たたいている」:キリストのほうから、関係を回復しようと動いてくださっています。
- 「だれでも、わたしの声を聞いて」:ほとんど切実とも言える待ち望みです。家に帰って、だれも門を開けてくれないと、私たちはクラクションを強く鳴らします。「ここは私の家だ!」と。ところがイエスは、たたいて待っておられます。回復は、耳を傾けることから始まります。
- 「戸をあけるなら」:あわれみに加えて、キリストは紳士的です。無理に入ることもおできになるのに、そうなさいません。「奇跡が起きるためには、神の主導と人間の主導が出会わなければなりません。」
- 「彼と食を共にする」:失望していたエマオの弟子たち(ルカによる福音書24章)のようにです。彼らはイエスがパンを裂かれたときにそのお方だと気づき、その晩のうちにエルサレムへ引き返しました。キリストと食を共にすることは、生ぬるさを熱心さに変え、活力を取り戻させてくれます。
7. 勝利の人生を取り戻す
- 「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につくことを許そう」(21節)。勝利の人生を生きるために、火を取り戻す必要があります。
- この勝利の目的は、主の栄光にあずかることです。説教者は、終わりのラッパが鳴り響き、信じた者たちが主に会うために引き上げられることを思い起こさせます(テサロニケ人への第一の手紙4:16-17)。もはや泣くことも、悲しむことも、叫ぶこともありません。以前のものが過ぎ去ったからです(黙示録21:4)。
- キリストが回復しようとされる火は、御国に向かう人生を生み出します。輝く証しの香りが、ほかの人々にイエスは変わっておられないことを知らせるためです。
- 急務なのは、一人ひとりが神の声を聞き、キリストが自分の戸口におられることを知ることです。主はたたくことに疲れてはおられません。あなたは主にとって高い代価を払った存在であり、主の目に価値あるものです。主はあなたのために十字架に行かれました。あなたが開けるまで、主はたたき続けられます。「けれども、よい時が過ぎ去らないよう気をつけてください。何事にも時があるのですから。」
- 「主の訪れを受けた人は、以前と同じではいられません。新しい情熱、新しい献身、新しい権威、新しく証しをする力を受けます。」
心に留めたいポイント
- 教会は、活動的でありながら生ぬるいことがあります。最大の危険は、自分が病気だと知らないことです。
- リバイバルは、外見の向こうを見ておられるキリストの診断を受け入れるときに始まります。
- 火は、自己充足、富についての誤った考え、霊的な盲目によって消えます。つまり、主からの独立を選ぶときです。
- 熱心さは、生ぬるさの正反対です。主の懲らしめは、主の愛の証しです。
- キリストは、ご自分の教会の戸をたたいておられます。無理に入ることはなさらず、私たちが声を聞いて戸を開くのを待っておられます。
個人への適用
- もし今日キリストがあなたの人生を診断されたら、あなたの祈り、みことばを読むこと、そして証しについて、何と言われるでしょうか。
- 自分ひとりで何とかなると思って、どの分野で主からの独立を選んでしまっていますか。
- あなたは自分の豊かさを、世の基準と神の基準のどちらで測っていますか。
- あなたの信仰の生き方は、周りの人々に主に仕えたいと思わせていますか。
- 今週、キリストが共に食事をしてくださるよう戸を開くことを、何が妨げていますか。
引用された聖句
- 黙示録3:14-22
- ヘブル人への手紙4:12
- ヨハネによる福音書16:7
- 使徒行伝3:6
- マタイによる福音書28:20
- ローマ人への手紙8:34
- ダニエル書3:24-25
- ルカによる福音書24:13-35
- テサロニケ人への第一の手紙4:16-17
- 黙示録21:4
よくある質問
黙示録3章で「生ぬるい」とはどういう意味ですか。
ドミニク・ボコ師によれば、生ぬるさとは活動がないことではありません。ラオデキヤの教会は動いていましたが、熱心さを失っていました。情熱なしに祈り、変えられることなくみことばを聞き、熱意なしに証しをすることはあり得ます。何より深刻なのは、この教会が自分の状態の深刻さを測れていなかったことです。
クリスチャンの霊的な火を消すものは何ですか。
説教者は、この箇所から三つの原因を挙げます。自己充足(「なんの不自由もない」)、富についての誤った認識(世の目には豊かでも、神の目には貧しい)、そして霊的な盲目です。火は、主からの独立を選び、毎日キリストに頼らなくても生きていけると思うときに失われます。
「わたしは戸の外に立って、たたいている」は、信じていない人に向けた言葉ですか。
この節は伝道によく用いられますが、ドミニク・ボコ師は、文脈の上ではイエスが教会に語っておられることを指摘します。教会の持ち主が、外に立っておられるのです。主は戸口に立ち、たたき、私たちが声を聞くのを待っておられ、無理に入ることはなさいません。私たちが開けるのを待っておられます。