はじめに
「ときには、あなたが必要としている奇跡は、あと一歩のところにあります。」Steven Furtickは、この言葉で説教を始めます。そしてすぐにこう続けます。「あなたは言います。私はもう終わりだ、と。でも神は言われます。終わりではない、あなたに必要なのは修正だけだ、と。」
このメッセージの英語のタイトルは、Cookedという一語です。くだけた英語では、この言葉に正反対の二つの意味があります。誰かに「You cooked today」と言えば、褒め言葉になります。「今日は最高だったね、全力を出したね」という意味です。ところが「You're cooked」となると、まったく別の意味になります。「もうおしまいだ、終わった」ということです。直訳すれば「焼き上がってしまった」ですが、日本語の「もう終わった」「万事休す」に近い表現です。「同じ言葉で、意味が二つ」と牧師はまとめます。分かりやすい例も挙げます。一時間後に試験があるのに、まったく勉強していない。そんなとき人は「自分は終わった」と思います。そして牧師は冗談を言います。そのときに祈っても、勉強の代わりにはなりません。
それから話は、もっと重い状況へと進みます。本当に手遅れだと思ってしまうような状況です。「この依存から解放されるには、もう手遅れです。父もそうでしたし、祖父もそうでした。しかも、最初に助けてくれた人たちを私は遠ざけてしまいました。」あるいは、「私は63歳です。もう遅すぎます。限界を越えてしまいました。」あるいは、「彼らが悪いのか、私が悪いのか、そんなことはどうでもいい。私は今、どうすれば信仰によって前に進めるのでしょうか。」
本文に入る前に、Steven Furtickは、再び講壇に戻れた喜びと、その日に集まった教会の多様さへの感謝を語ります。いちばん深い谷を歩いている人もいれば、山の頂にいる人もいます。彼のように白髪が混じってきた人もいれば、賛美の間じゅう踊っていた百人ほどの学生たちもいました。牧師は、そのすべての人に向けてヨハネの福音書21章を読みます。自分は終わったと思い込んでいた一人の男と、すでに火をおこしておられた主の物語です。
メッセージの流れ
1. 方向を見失っても、共にいる:ペテロは漁に戻る
- 本文は名前の一覧から始まります。「シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、そのほかにふたりの弟子が、一緒にいた」(ヨハネ21章2節)。牧師はトマスのあだ名を少し面白がったあと、このグループを描き出します。方向を見失い、心が引き裂かれ、転換期の真っただ中にいる。それでも、共にいたのです。
- ペテロは宣言します。「わたしは漁に行く」(ヨハネ21章3節)。Steven Furtickによれば、イエスがペテロと呼ばれた人は、ここで再びシモンに戻っています。昔の仕事、自分にできることへと戻っていくのです。
- 逆説は強烈です。復活はすでに起こり、墓は空っぽです。それなのに、ペテロにはまだ答えがありません。将来は霧の中で、イエスを否定したことで評判も台なしにしました。しかも、一晩じゅう網を打っても何も取れないのですから、漁師としての腕まで鈍ってしまったかのようです。
- 彼が戻ったのは、イエスが最初に彼を見つけられた、同じガリラヤ湖です。ルカ5章で、イエスはシモンの舟から群衆に教え、それから彼にこう言われました。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(ルカ5章4節)。
- その夜、彼らは何も取れません。朝になると、イエスが岸辺に立っておられます。彼らはイエスだと気づきません。イエスは呼びかけられます。「子たちよ」(ヨハネ21章5節)。
2. 方向を見失っていても、召されている
- Steven Furtickの第一のポイントは、会衆に繰り返させる一文に尽きます。「私は方向を見失っている。でも、私は召されている。複雑だけれど、私は召されている。」
- 彼は初めの愛と「あなたの救いの喜び」について語り、ダビデの祈りと重ねます。「あなたの救の喜びをわたしに返し」(詩篇51章12節)。
- ツアーに出る若いミュージシャンたちに話した内容を紹介します。子どものころにした祈りを思い出しなさい。神が自分を用いて、人々を礼拝へ導いてくださるようにと願った、あの祈りです。やがて疲れが来て、摩擦が来て、バスの中では足のにおいがします。その日には、なぜ自分が出発したのかを思い出す必要があるのです。
- 彼の確信はこうです。忍耐は召命の上に立ち、召命は恵みの上に立っている。「私が終わったと感じているのに、どうして続けられるのか。それは、私が召されているからです。」
- 神がペテロを召されたとき、シモンをも召されました。神は彼のすべてをご存じでした。その勢いも弱さも。イエスが彼を岩と呼ばれたとき、これから起こることをすでに知っておられたのです。「ペテロは自分の否定にショックを受けました。しかしキリストは違いました。」
3. 海が違うのではない、側が違う
- イエスは弟子たちに言われます。「舟の右の方に網をおろしなさい。そうすればとれるだろう」(ヨハネ21章6節)。網はいっぱいで、もう引き上げることができません。11節は、大きな魚が百五十三匹だったと記しています。
- 5節と6節のあいだで、結果はまるで変わります。それなのに、その違いはごく小さな点にあります。「ときには、あなたが必要としている奇跡は、ひとつの調整のところにあります。」
- 牧師は、イエスが言われなかったことに目を向けます。イエスは「あなたたちは海を間違えている、ここに魚はいない」とは言われませんでした。「反対側に打ちなさい」と言われたのです。空の網から満ちた網へ。湖を変えることなく、です。
- 「私たちの問題は、修正なしに大漁を望んでいることです。」あなたは終わってはいません。けれども修正は必要になります。やり方を変えること、態度を整えること、あるいは単に「もっとうまく言えたはずだ」と認めること。
- 彼の言い方はこうです。「私の網を空にしたのは、海ではなく、私が漁をしていた側だった。」
4. 主に料理を任せる
- Steven Furtickは、この第三のポイントこそ説教の中心だと言います。弟子たちは舟でやって来ます。ペテロの後ろにつく形で。牧師はそのペテロを、ユーモアを込めて、どこへ向かっているのか分からないリーダーのように描きます。
- 岸辺では驚きが待っていました。「そこには炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またパンもあった」(ヨハネ21章9節)。「彼らが一晩じゅう取ろうとしていたものを、イエスはすでに料理しておられた。」
- ここで、タイトルの言葉遊びが本当の意味を持ちます。弟子たちは自分が「Cooked(終わった)」と思っていましたが、実際に「cook(料理)」をしていたのはイエスでした。「あなたは釣りに夢中です。私は料理人に夢中です。私がここにいるのは、私が腕のいい漁師だからではなく、あの方が腕のいい料理人だからです。私のメッセージを一言で言えば、Let him cook、主に料理を任せなさい、です。」あなたの人生でも、家族でも、あなたの状況でも。
- 彼は打ち明けます。「私は網の中の魚に夢中になりすぎて、火の上の魚が見えていなかった。」網の重さは、神がすでに備えておられるものを見えなくしてしまうことがあります。
- それから彼は、感謝の連祷を続けます。私たちにできなかったとき、主は料理をしてくださった。請求書が積み上がっていたとき。医者が打つ手はないと言ったとき。私が一人だったとき。友人たちが私を見捨てたとき。彼はまた、イザヤ54章17節の約束を自由に取り上げて自分の家族に当てはめ、こう宣言します。「私の家族に向けて造られる武器は、どれも成功しない。」
5. 「いま取ったさかなを、少し持ってきなさい」
- イエスは言われます。「いま取ったさかなを、少し持ってきなさい」(ヨハネ21章10節)。イエスにはそれが必要ではありません。魚はすでに火の上にあるのですから。けれどもイエスは善い方で、惜しみなく与える方です。彼らの働きを認め、彼らに栄誉を与えてくださるのです。
- 牧師は、これを子どもの絵を前にした親にたとえます。必要ではないのに、誇らしげに冷蔵庫に貼るのです。
- 主はあなたを友と呼び、釣りを教え、魚のいる場所を示してくださいました。あの人に出会えるように、あの機会をつかめるように、あの転換期を乗り越えられるように助けてくださいました。「私がここにいるのは、私が取ったもののおかげではない。」主は、私たちが持ってくるものを必要としておられません。ただ、私たちのすべてを望んでおられるのです。
- この箇所の目的は、彼によれば、あなたをストレスと恥から解き放ち、将来への期待をイエスの手に委ねさせることです。
- そして招きが来ます。「きて、朝飯を食べなさい。」そして「弟子たちはだれも、あなたはどなたですか、と進んでたずねる者はなかった。主であることがわかっていたからである」(ヨハネ21章12節)。
6. 二つの炭火:失敗と未来
- Steven Furtickは、イエスが裁かれた夜、ヨハネ18章に戻ります。中庭で、門番の女がペテロに尋ねます。「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼は答えます。「いや、そうではない」(ヨハネ18章17節)。
- 寒い夜で、僕たちは暖を取るために火をおこしています。ペテロも彼らに交じって立っています(ヨハネ18章18節)。
- 牧師は、炭火を意味するギリシャ語anthrakiaが、ヨハネの福音書の中で二度しか出てこないことを指摘します。ヨハネ18章18節と、ヨハネ21章9節です。
- 最初の火は、ペテロの失敗を表しています。二つ目の火には魚がのっていて、彼の未来を表しています。神は、あなたがその火を見る目を変えたいと願っておられます。あなたが通ってきたこと、あなたがしてしまって取り消せないことを見る目を。
- イエスがペテロに語られたメッセージを、牧師は何度も繰り返します。「わたしはまだあなたとの関わりを終えていない。あなたは、失敗した漁師以上の存在だ。」
覚えておきたいこと
- 自分は終わったと感じることがあっても、それでも終わりではありません。神が語られるのは終わりではなく、修正です。
- あなたの忍耐は、あなたの成果の上ではなく、あなたの召命の上に立っています。そして召命は恵みの上に立っています。
- イエスがペテロを召されたとき、すでにシモンのことをご存じでした。あなたの失敗は、あなたを驚かせるかもしれませんが、キリストを驚かせはしません。
- 問題は、いつも海にあるとは限りません。ときには、漁をしている側にあります。小さな調整が、すべてを変えることがあります。
- 弟子たちが着く前から、魚はすでに火の上にありました。イエスは、あなたに必要なものをすでに備えておられます。
- あなたの失敗の火は、あなたの物語の最後の火ではありません。イエスはあなたの未来の火をおこしてくださいます。
自分への適用
- 「自分は終わった」と思っている領域を見つけましょう。それを神の前で、言い訳せず、ありのままに口にしてください。
- 自分の召命を思い出しましょう。神と歩み始めたころにしていた祈りを思い返し、救いの喜びを返してくださるように願ってください。
- 環境を変えることよりも、修正を求めましょう。どんな態度、どんな言葉、どんな習慣を、神はあなたに調整するよう招いておられるでしょうか。
- 少し時間を取って、自分だけの一覧を作ってみましょう。あなたに何もできなかったとき、主はいつ料理をしてくださったでしょうか。その一つひとつの記憶に感謝してください。
- 「きて、食べなさい」という招きを受け入れましょう。過去の恥を置き、将来への期待を主に委ねてください。
引用された聖句
よくある質問
この説教のタイトル「Cooked」はどういう意味ですか。
くだけた英語では、「You cooked」は「最高だった、やり遂げたね」という褒め言葉ですが、「You're cooked」は「もうおしまいだ、終わった」という意味です。Steven Furtickはこの二つの意味を重ねています。あなたは自分が終わったと思っているかもしれませんが、ヨハネの福音書21章で料理をしてくださっているのはイエスです。
ヨハネの福音書21章で、ペテロはなぜ漁に戻るのですか。
イエスを否定したあと、ペテロは自分がどこに立っているのか分からなくなっています。復活は起きましたが、彼自身の人生にはまだ答えが見つかっていません。そこで彼は、自分にできることに戻ります。かつてイエスに最初に召されたガリラヤ湖です。
ヨハネ18章の火と21章の火には、どんな関係がありますか。
炭火を意味するギリシャ語は、ヨハネの福音書の中で二度しか出てきません。最初の火は、ペテロがイエスを否定した中庭の火です。二つ目は、イエスがペテロのために食事を用意された岸辺の火です。Steven Furtickによれば、最初の火はペテロの失敗を、二つ目の火は彼の未来を表しています。