列王記下8章:神の慈愛と峻厳

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はじめに

「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ人への手紙11:22)。グラスゴーのThe Tron Churchで列王記の連続講解を導いているPhil Copelandは、パウロのこの言葉を、列王記下8章1〜15節のメッセージの題にしています。列王記の著者がこの箇所で私たちに気づいてほしいのは、まさにこのことだと彼は語ります。

この箇所は二つの場面からなっています。まず、主に忠実だったシュネムの女が、七年の亡命生活を経て、家と畑を取り戻します。次に、ダマスコで預言者エリシャがスリヤの王の家来をじっと見つめ、涙を流します。同じヘブル語の一つの言葉が二つの出来事を結びつけています。「生き返らせる」「なおる」「回復する」という言葉です。

最初の場面では、神の慈愛が見えます。神は、いのちを与える主権者なる神です。次の場面では、神の峻厳が見えます。神は、死をもたらす主権者なる神でもあります。そしてその間に、あなた自身にかかわる問いがあります。あなたに向けられた神の慈愛を、あなたはどうしてきたでしょうか。

メッセージの流れ

1. 二つの出来事を結ぶ一つの言葉、神の忍耐を使い果たした王国

  • 1〜6節と7〜15節は、一つのヘブル語でつながっています。この言葉は「生き返らせる」とも「なおる」とも訳されます。1節と、生き返った子どもについて語る5節(三回)に出てきて、さらにスリヤの王の病のいやしについて語る8、9、10、14節にも出てきます。
  • しかし二つ目の場面は、実際にはいやしの話ではありません。主ご自身がこれから起こそうとしておられる後継者の手によって、破滅と死がやって来るという話です。
  • 説教者は背景を思い起こさせます。王国は分裂していました。南では二つの部族がユダを形づくり、北では十の部族がイスラエルを形づくっていました。イスラエルは主を退け、その恵みを軽んじ、偶像を拝み続けていました。
  • そのような不忠実が続いていたにもかかわらず、主は、位についている王に対してさえ、忍耐深く、善い方でした。「しかし、皆さん、時間はなくなりつつあります」。

2. 忠実な女性に注がれた主の慈愛(1〜3節)

  • この女性は列王記下4章に登場したシュネムの裕福な女性です。忠実な残りの者の一人であり、信仰によって歩み、不信仰なイスラエルに同調することを拒みました。持っているものをすべて主のために用い、エリシャをもてなし、夫を説得して彼のために部屋まで造らせました。
  • 主は、彼女と年老いた夫に一人の息子を与えておられました。ある朝、その子はひどい頭痛を訴え、数時間後に母親の腕の中で息を引き取りました。彼女は主とそのみ言葉に、つまりエリシャに向かいました。すると子どもは生き返りました。
  • 8章でも、主は彼女を守り続けます。主はエリシャに七年のききんを知らせました。おそらくイスラエルの不忠実に対して送られた契約ののろいであり、悔い改めを促すためのものでした。女性は家族とともにペリシテ人の地へ出て行きます。
  • 「主はご自分の民をかくまうために、しばしば最も意外な手段を用いられます」。かつての敵の地で、彼女は七年間生きるための糧を得ました。
  • 帰ってくると、新たな問題が待っていました。家と畑が取り上げられていたのです。おそらく王によってでしょう。ところが、約束の地の相続地は、契約の約束にあずかる一人ひとりの分を表していました。頼れるのは王に訴えることだけで、当時のイスラエルでは何の保証もありませんでした。

3. 偶然ではない偶然(4〜6節)

  • 彼女が着いたちょうどその時、王はエリシャのかつての従者ゲハジと話していました。「どうか、エリシャがしたすべての大きなことを、わたしに話してください」。
  • Phil Copelandはグラスゴーなまりで、ゲハジになりきって語ります。毒のある野菜を知らずに入れてしまった「numpty」(グラスゴーの俗語で愚か者の意)のいる煮物が、一つかみの粉で食べられるようになった話(列王記下4:38-41)。そして死んだ子ども、体の上に置かれても何も起こらなかったつえ、閉じた扉の向こうでのエリシャの祈り、沈黙、そしてくしゃみ。子どもは生き返ったのです(列王記下4:29-37)。
  • まさにその時、女性が、かつて死んだ息子を連れて入ってきます。「わが主、王よ、これがその女です。これはエリシャが生き返らせたその子です」。心を動かされた王は、彼女のものをすべて返させ、彼女が去ってからの畑の収入もすべて返させました。
  • 「これは単なる驚くべき偶然、たまたまの結果だったのでしょうか。もちろん違います」。主は不思議な方法で働かれます。あなたに見えない時でも、主は働いておられ、すべてのことを、主を愛する者の益となるようにしてくださいます(ローマ人への手紙8:28)。
  • この目立たない箇所は、あなたの心を喜びで満たすはずです。主は、忠実なしもべたちに善い方です。「わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」(詩篇23:6)。「私たちはあのシュネムの女ではありません。しかし、私たちにはあのシュネムの女の神がおられます」。
  • 説教者は、この町に来て新しい生活を少しの不安とともに始める学生たちにも語りかけます。イエスは言われるでしょう。思い煩うな、天の父はあなたがたに必要なものを知っておられる、まず神の国を求めなさい、と(マタイによる福音書6:31-33)。この女性のように生きてください。主のみ言葉に従い、主の約束の上に人生を築き、それを教会という家族の中で行ってください。

4. 魅了されても、回心してはいない

  • Phil Copelandは、この出来事は時間の順序どおりの位置にないと考えています。ゲハジは神の恵みを軽んじたためにらい病に打たれており(列王記下5:27)、王の前に立てるはずがないからです。そこで著者はここに回想の場面を差し込んだのです。
  • なぜでしょうか。4節について私たちに考えさせるためです。主は、この女性に対してだけ善い方だったのではありません。不忠実な敵、つまり悪い王で、わざと目を閉ざしていた王に対しても善い方でした。この王には、み言葉が働くのを聞き、見る機会が何度もありました(5〜7章)。
  • 王は感銘を受けました。シュネムの女に正しく報いるほどに、そしておそらく少し楽しんでもいました。しかし、その心は変わらないままです。「彼は主に興味はあるが、主に身をささげてはいない。エリシャの働きには惹かれるが、エリシャの主には従っていない。魅了されてはいるが、信仰は持っていない」。
  • 数世紀後のヘロデに似ています。ヘロデは牢にいるバプテスマのヨハネの話を喜んで聞きながら、決して悔い改めませんでした(マルコによる福音書6:20)。「真理に魅了されることと、真理に回心することの間には、非常に大きな隔たりがあります」。
  • 説教者は、イングランドで知っていたある男性を悲しみとともに思い出します。魅力的で、礼拝に忠実で、聖書を開いて椅子の端に座り、礼拝のあとにはよく「こんな話は聞いたことがない」と言っていました。彼が知る限り、その人は今もイエス・キリストから遠いままです。よく整えられた説教は好きでも、決して降参しなかったのです。
  • 「み言葉に魅了されるのは良いことです。しかし、友よ、そこで止まらないでください」。主の慈愛があなたを悔い改めに導くままにしてください。今日、待たずに。その慈愛が終わる時が来るからです。

5. 主の峻厳、裁きのために起こされたハザエル(7〜15節)

  • エリシャはダマスコへ行きます。イスラエルに多くの害を与えたスリヤの中心です。おそらく主に遣わされたのでしょう。7章でサマリヤをほとんど滅ぼしかけた強大な王ベネハダデは、病の床に横たわっています。それは死の床になるかもしれません。
  • 王は家来のハザエルに、ラクダ四十頭分の大量の贈り物を持たせて遣わします(「四十頭のラクダなのか、四十頭分の荷なのかは分かりませんが、とにかく大量のラクダです」)。尋ねさせたのは、「わたしはこの病気がなおるであろうか」という問いでした。
  • エリシャの答えは謎めいています。「行って彼に『あなたは必ずなおります』と言いなさい。しかし主はわたしに、彼が必ず死ぬことを示されました」。そして彼はハザエルをきまりが悪くなるほど見つめ続け、涙を流します。
  • 「あなたがイスラエルの人々にしようとする悪を、わたしは知っているからです」。堅固な町々には火が放たれ、若者たちは剣で殺され、幼子たちは打ち砕かれ、身ごもった女たちは引き裂かれます。当時、征服する軍隊はそのようなことをしたのです。
  • ハザエルは抗議します。「しもべは犬にすぎません」。エリシャは答えます。「主はあなたがスリヤの王となることをわたしに示されました」。これが説明です。放っておけばベネハダデは回復したでしょう。しかし彼はハザエルの手によって死にます。主は、反逆するご自分の民への新しい裁きの道具として、ハザエルを起こされるのです。
  • 翌日、ハザエルは布団を取って水に浸し、ベネハダデの顔にかぶせて死なせ、その代わりに王となります。
  • これはエリシャの働きの転換点です。列王記上19:15-18で、主はエリヤに、ハザエルをスリヤの王に、イエフをイスラエルの王に、エリシャを自分に代わる預言者に油を注ぐよう命じ、ハザエルの剣を逃れる者はイエフに殺されると告げておられました。エリヤが油を注いだのはエリシャだけでした。列王記下の初めから、見てきたのは「恵み、恵み、恵み、忍耐、忍耐、忍耐」だけでした。しかし今、イスラエルは恵みの日を使い果たしました。ハザエルは位につき、イエフは9章で登場し、裁きが来たのです。

6. 預言者の涙、神のみ心

  • エリシャは、裁きが必要であり当然であることを知っています。それでも彼は打ち砕かれています。この泣いている預言者に、あなたは主のみ心を見ることができます。
  • 主は正しい方です。背教した民を裁かなければならず、偶像礼拝を見過ごすことはできません。しかし主は怒るのに遅く、あわれみに富む方であり、裁きの中には神の悲しみがあります。
  • 「わたしは悪人の死を喜ばない、むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはなぜ死んでよかろうか」(エゼキエル書33:11)。そしてイエスは、裁きを宣告されたエルサレムを見て、その町のために泣かれました(ルカによる福音書19:41)。「罪人に対する主の峻厳は、いつも涙でぬれています」。
  • Phil Copelandは、十九世紀のスコットランドの牧師Andrew Bonarの言葉を引用します。「終わりの日に、主イエスはエルサレムのために泣かれたように、滅びる者たちのために泣かれると思います」。聖徒たちは言うでしょう。「イエスが『のろわれた者どもよ、わたしを離れて』と言いながら泣いておられたのを見ましたか」(マタイによる福音書25:41)。そしてソドムとゴモラについては、降った火と硫黄の雨は「神の涙にもぬれていました」。
  • 神の裁きは、必要であると同時に悲しみを伴うものです。神には裁くことに不健全な喜びはまったくありません。しかし罪は重大ですから、裁きは下らなければならないのです。

7. いのちを選びなさい

  • 列王記下8章はあなたに語ります。神の慈愛と峻厳をよく見なさい。神はいのちを与え、また死をももたらされます。
  • イスラエルの王の道に従ってはいけません。この女性のように生きてください。信仰の従順をもって主の前にへりくだって歩み、み言葉を真剣に受け止め、いのちを与える方としてただ主だけを仰ぐのです。
  • もしあなたが主を知っているなら、勇気を出してください。主は、それに値しない人々に対しても、すばらしく善い方です。恵みといつくしみは、どれほど困難な状況の中でもあなたに伴います。
  • イエスにあって、神が恵みによってあなたに与えてくださった永遠の相続を、あなたから取り去るものは何もありません。またキリストにあって、あなたが受けるに値する裁きに直面することは決してありません。その裁きはすべてキリストの上に注がれたからです。「ですから、主にしっかりとつながっていてください」。

心に留めたいポイント

  • 主は、いのちを与える主権者なる神です。忠実なしもべたちを忘れず、意外な方法を用いてでも必要を満たしてくださいます。
  • 偶然のように見えることは、神のみわざです。神は、すべてのことを、神を愛する者の益となるようにしてくださいます。
  • み言葉に魅了されても、回心していないことがあります。神の慈愛は、今日、悔い改めに導かなければなりません。
  • 神の忍耐には終わりがあります。イスラエルは恵みの日を使い果たし、裁きがハザエルを通して来ました。
  • 神の裁きは必要ですが、神はそれを喜んでおられません。エリシャの涙も、エルサレムのために流されたイエスの涙も、神のみ心を示しています。

個人への適用

  1. 最近、ただの偶然のように見えたことの中に、主の御手をどこで見ましたか。
  2. あなたは「真理に魅了されている」でしょうか、それとも「真理に回心している」でしょうか。主イエスに降参することを、何が妨げていますか。
  3. あなたに必要なものを知っておられる天の父に、今日、具体的にどんな心配をゆだねることができますか。
  4. シュネムの女のように、教会という家族の中で、神の約束の上に人生を築くには、どうすればよいでしょうか。
  5. 神の裁きを思う時、あなたの心は、滅びていく人々のために泣くエリシャの心に似ていますか。

引用した聖書箇所

よくある質問

列王記下8章の「神の慈愛と峻厳」とは、どういう意味ですか。

Phil Copelandは、ローマ人への手紙11:22のパウロの言葉を取り上げています。「神の慈愛と峻厳とを見よ」。列王記下8章では、1〜6節が神の慈愛を示しています。神はいのちを与える主権者なる神であり、シュネムの女を守られました。7〜15節は神の峻厳を示しています。神は死をもたらす主権者なる神でもあり、イスラエルへの裁きの道具としてハザエルを起こされます。

エリシャはなぜハザエルの前で泣いたのですか。

エリシャは、ハザエルがイスラエルの人々にどんな悪をするかを知っています。裁きは必要であり当然のものですが、預言者はそのことで打ち砕かれています。Phil Copelandは、この涙に神のみ心が表れていると語ります。神は悪人の死を喜ばず(エゼキエル書33:11)、イエスはエルサレムのために泣かれました(ルカによる福音書19:41)。主の峻厳は、いつも涙でぬれています。

シュネムの女と王の出会いは偶然ですか。

いいえ。ゲハジが王に子どもの復活の話をしていたちょうどその時、女性は家と畑を取り戻すために入ってきました。Phil Copelandは、そこに主のみわざを見ています。主は王の心を動かすためにすべてを整えられたのです。王は彼女のものをすべて返し、彼女が去ってからの畑の収入もすべて返しました。

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