「あなたはどこにいるのか」(創世記3章)

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はじめに:エデン以来あなたを追いかけてくる問い

「あなたはどこにいるのか」。これは、堕落の後、神様が人間にかけられた最初の言葉です(創世記3:9)。この問いは地理的な場所を尋ねているのではありません。逃げ出してしまった一つの心を探し求めているのです。新年度最初のこの日曜日、荻牧師は創世記3章を開き、新しい年の入り口に立つ私たちに、この声に自分自身を見つけ出させてくださいと招いてくださいました。

シオン・キリスト教会でこの一年を導く聖句はヨハネ15:5です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」。キリストにつながり続けるためには、まず神様から自分を隠すことをやめなければなりません。創世記3章は、なぜそれがこれほど難しいのか、そしてなぜ神様が、それでもなお、初めの日から帰る道を備えてくださっているのかを教えてくれます。

メッセージの構成

1. 罪とは、神様の視線から逃げることである

禁じられた実を食べたあと、アダムとエバは園を歩かれる神様の声を聞き、身を隠します(創世記3:8-11)。罪とは、まず第一に違反行為のリストではありません。それは、神様の目をまっすぐに見つめられず、自由な心で神様に語りかけられなくなる、そのような無力さのことなのです。

荻牧師は、三十年以上前、茅ヶ崎での実習の年に出会い、心に残った一つの出会いを語りました。教会に来ていたある男性は、刑務所を出たばかりでした。ある日、若い牧師は不用意な質問を投げかけました。「あなたから見て、教会と刑務所の違いは何だと思いますか」。その男性は動じることなく答えました。教会では、人々は自分が罪人であることを認めている。しかし刑務所では、多くの人が自分をむしろ被害者だと感じており、他の者たちはもっと悪いことをしているのに自分だけが運悪く捕まったのだと思い込んでいる、と。

この対比は際立っています。罪は人を自分自身に対して盲目にします。それは比較すること、軽く見ること、他者を責めることへと人を駆り立てます。ちょうどアダムがエバを責め、エバが蛇を責めたように(創世記3:12-13)。福音はその逆の道をたどります。人を打ちのめすことなく、しかし明晰にさせるのです。なぜなら、その道の先に赦しの光が置かれているからです。

詩篇32篇で、ダビデはまさにこの経験を歌っています。姦淫の罪を殺人によって覆い隠したあと、彼は内側の沈黙の重さを知ります。「私の骨は疲れ果てた」(詩篇32:3)。そして告白があり、赦しが訪れます。「そのそむきの罪を赦された者は、なんと幸いなことか」(1節)。罪が告白されない限り、人は神様の顔を避け、うつむいたまま歩き続けます。赦されたとき、初めて顔を上げることができるのです。

2. 神様のかたちに造られた者:罪も消し去れない尊厳

創世記3章の前に、創世記1章があります。神様は人を、男と女を「ご自分のかたちに」創造されました(創世記1:26-31)。六日目の終わりに、神様はご自分が造られたすべてのものを見て、「それは非常に良かった」と言われました(31節)。人間の存在そのものには、何かを生み出したかどうかとは関係のない価値があります。私たちが尊いのは、神様が私たちを望んでくださったからです。

罪はこのかたちを消し去ることはできませんでしたが、それを損なってしまいました。暴力、蔑み、人を押しつぶすような序列は、そこから生まれてくるのです。荻牧師は、古代ローマのある哲学者が、こう平然と書き記したことを思い起こさせます。「家畜とは口をきかない奴隷であり、奴隷とは口をきく家畜である」と。人間の尊厳が踏みにじられるのを見るのに、20世紀の数々の惨事やアメリカにおける人種奴隷制を待つ必要はなかったのです。人間が神様のかたちに創造されたという聖書の啓示なしには、あらゆる文明はやがて弱肉強食の掟に逆戻りしてしまいます。

しかし良い知らせは、このかたちが回復され得るということです。コリント人への手紙第二3:16-18。「主に向くとき、その覆いは取り除かれます……私たちはみな、主の御霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。あなたがイエス様の十字架を通して神様のもとに帰るとき、御霊が働き始めます。消えかけていたものに、再び色を取り戻してくださるのです。

これは最後の息を引き取るその瞬間まで真実です。荻牧師は、教会の年配の方々を特に励まします。「栄光から栄光へ」という歩みは、四十歳や六十歳で止まるものではありません。アブラハムやモーセが人生の終わりまで神様とともに歩んだように、輝きに満ちた「銀の時代」、そして「金の時代」を目指すことができるのです。それは頑張って達成する何かではありません。御霊が実らせてくださるものなのです。

3. なぜ園の真ん中にあの木があったのか。神様があなたを信頼しておられたから

ある問いが繰り返し出てきます。とりわけ若い人たちの間で。もし神様がアダムとエバが堕落することを知っておられたなら、なぜ善悪を知る木をわざわざ園の真ん中に植えられたのでしょうか。それは罠のような、残酷なことではないでしょうか。

荻牧師は、別の読み方を提案します。神様は全能です。人間が想像するよりも百倍、千倍、いや一万倍も激しく悪を行う力をお持ちです。しかし神様はそれをなさいません。それは、できないからではなく、初めから、そしてこれからも永遠に、自由に悪に対して「否」と言い続けておられるからです。神様の聖さは弱点ではありません。それは長い時間の中で貫かれ続けている、愛の選択なのです。

神様はご自分のかたちに人を創造されたとき、被造物にも同じ動きを期待しておられました。「あなたは背くこともできる。しかし、あなたがわたしを愛し、わたしを知っているからこそ、あなたは『いいえ』と言うだろう」と。あの木は、その信頼のための空間でした。それは罠ではなく、愛が本物の選択となり得る場所だったのです。

一つの単純な例を挙げましょう。誰かの車に乗るとき、あなたはその人に自分の命を委ねています。高速道路を時速百キロで走ることを受け入れているのです。この信頼が可能なのは、そこに関係があるからです。神様は、アダムに対して計り知れないほどの信頼を寄せておられました。堕落の悲劇とは、この信頼が裏切られたことなのです。

4. 十字架は、初めの日からすでに告げられていた

創世記3章は、断罪で終わってはいません。しばしば見過ごされる二つの細部の中に、すでに福音のすべてが含まれています。

一つ目は創世記3:15、教会が「原福音」と呼ぶ箇所です。「わたしは、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」。蛇の子孫とは、サタンとその働きのことです。女の子孫とは、女から生まれ、アダムとエバの子孫でありながら、新しいアダムとしてこの世に来られたイエス様のことです。サタンは十字架でキリストのかかとにかみつくでしょう。それは痛みを伴う傷ですが、そこから立ち上がることができる傷です。一方キリストは、三日目の復活によって、蛇の頭を打ち砕かれます。頭への一撃こそ、致命的な一撃なのです。

二つ目の細部は創世記3:21です。堕落のあと、アダムとエバはいちじくの葉で自分の身を覆おうとしました。しかしそれはもろい解決策で、数時間で破れてしまいます。そこで神様ご自身が、心を揺さぶるようなことをなさいます。「神である主は、アダムとその妻に皮の衣を作って、彼らに着せられた」。人間に動物の皮を着せるためには、一頭の動物が犠牲にならなければなりません。これが聖書における最初の死です。そしてこの死は、人間の恥を覆うために起こったのです。

旧約聖書のすべての犠牲制度、赦しのために捧げられた「傷のない」羊たちはみな、ここにその源を持っています。それらは、「世の罪を取り除く」(ヨハネ1:29)神の子羊、イエス様を指し示しているのです。「神様は十字架による救いをいつから備えておられたのか」と問われるなら、答えは明白です。人間が神様から背を向けたその瞬間から、神様はすでに、その愛のうちに帰る道を開いておられたのです。

覚えておきたいポイント

  • 罪とは、本質的に、神様の視線から逃げ、その臨在にもう耐えられなくなることです。
  • あなたは神様のかたちに創造されました。この尊厳は神様から来るものであって、あなたの成果からではなく、年齢にも左右されません。
  • 神様はアダムを罠にかけるためにあの木を植えられたのではありません。神様はアダムを信頼しておられました。今日、あなたのことも同じように信頼してくださっています。
  • 創世記3:15と3:21は、すでに十字架を告げ知らせています。救いはプランBではなく、神様の御心の最初の動きなのです。
  • 御霊によって、神様は最後の息を引き取るその瞬間まで、あなたを「栄光から栄光へ」と変えてくださいます。

あなた自身への適用

  1. 今、あなたの人生の中に、アダムのように神様から身を隠している具体的な場所はありませんか。神様の目をまっすぐに見つめることを妨げているものは何ですか。
  2. 一週間の中で罪が忍び込んでくるとき、あなたの最初の反応は何ですか。軽く見ること、状況のせいにすること、それとも赦されるために十字架に立ち返ることですか。
  3. あなたの価値は、年齢にも、役に立つかどうかにも、人からどう見られるかにも左右されないということを知っていますか。この真理は、今週のあなたの生き方をどのように変えるでしょうか。
  4. 神様はあなたに自由な意志を与えることで、あなたを信頼してくださいました。あなたの人生のどの部分で、今日、神様はあなたに悪へのはっきりとした「いいえ」で応えるように求めておられますか。
  5. 今週、少し時間を取って創世記3:15と3:21を読み返してみましょう。初めの日から備えられていたこの十字架のために、イエス様に感謝を捧げましょう。

引用された聖句

FAQ

もし神様がこれから起こることを知っておられたのなら、なぜアダムとエバが罪を犯すことを許されたのですか。

強制された愛は、愛ではないからです。神様は人を、本当の意味での自由な選択の力とともに、ご自分のかたちに創造されました。園の真ん中にあった木は罠ではなく、その愛が自由な選択となり得る空間だったのです。神様は人間を信頼しておられました。それは今日、あなたが信仰によって応えることを、神様が信頼してくださっているのと同じです。

創世記3:15は、本当にイエス様のことを語っているのですか。

そうです。キリスト教の伝統は、この節を「原福音」、すなわち福音の最初の告知と呼んでいます。蛇の子孫はサタンとその働きを指し、女から生まれた子孫、すなわちアダムとエバの子孫は、イエス様において完全に実現します。イエス様は、その死と復活によって、蛇の頭を打ち砕かれるのです。

罪を犯してしまったとき、神様の臨在から逃げるのをどうやってやめればよいですか。

アダムとは逆のことをしましょう。アダムは身を隠しました。しかし詩篇32篇のダビデは告白しました。自分の罪を、飾ることなく、そのまま神様に告白しましょう。十字架を見つめてください。それは創世記3章からすでに、あなたのために備えられていたものです。赦しは勝ち取るものではなく、イエス・キリストにおいてすでに差し出されているものです。あなたにできることは、それを受け取り、立ち上がることだけです。

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