イエス・キリストとは、本当は誰なのでしょうか。十二弟子の中で最後まで生き残った使徒ヨハネは、生涯の終わりを、ただこの一つの問いに答えることに費やしました。彼の福音書は、世界の始まりよりもさらにさかのぼる、めまいを覚えるような序文をもって幕を開けます。この牧会的メッセージは、ヨハネ1:1〜13をたどりながら、あなたが受け入れるよう招かれているこのイエスが、いったい誰であるのかを示していきます。
はじめに
四つの福音書は同じ生涯を語っていますが、それぞれ独自の視点を持っています。マタイはユダヤ人のために、マルコはローマ人のために、ルカはギリシア人のために書きました。ヨハネは、信じる者も信じない者も含めて、すべての人のために書いたのです。そして彼は、出来事を伝えるだけでは満足しません。なぜそれらの出来事が起きたのか、そしてそれを引き起こされた方が誰であるのかを説明するのです。
ヨハネは、十二弟子の中で唯一、殉教しなかった人物です。ユダを除く彼の十一人の仲間たちは皆、その信仰のゆえに処刑されました。ヨハネは煮え立った油の中に投げ込まれましたが、奇跡的に生きたまま抜け出しました。彼は迫害を生き抜き、教会が成長していく姿を見届け、年老いていきました。そして生涯の終わりに、揺るぐことのない確信をもって、イエス・キリストとは誰であるかをこうまとめたのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によっていのちを得るためです」(ヨハネ20:31)。
ヨハネが語る「いのち」とは、生物学的な意味でのいのちではありません。それは、あなたと神との関係の質のことです。神の愛を受け取り、神がどのような方であるかを喜び、周りのすべてが揺らいでいても平安のうちに立ち続けることのできるいのちです。これこそ、ヨハネの序文が告げ知らせようとしていることなのです。
メッセージの構成
1. 初めに、ことばがあった(ヨハネ1:1〜2)
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1〜2)。
ヨハネは、あえて創世記の言葉を用いています。「初めに……」。それは、存在するすべてのものより前へと、あなたを連れ戻します。星々よりも前、銀河よりも前、時間よりも前です。そこには神がおられました。そして、ことば、ギリシア語でロゴスがありました。このことばは、概念でも、人格を持たない力でもありません。2節はこう明確にしています。「この方は、初めに神とともにおられた。」ロゴスは一つの人格です。そしてその人格こそ、イエス・キリストなのです。
イエスは、ベツレヘムで存在し始めたのではありません。何一つ造られる前から、イエスはすでに、永遠にそこにおられました。イエスは神とともにおられ、そして神であられたのです。
2. すべてのものは、この方によって造られた(ヨハネ1:3)
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずに造られたものは一つもない」(ヨハネ1:3)。
御父が構想され、御子が創造されました。神が「光あれ」と言われたとき、その光を、御父が望まれたとおりに存在させたのは、ことばご自身でした。パウロも同じことを確認しています。「御子は、目に見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも……すべてのものは、御子によって、また御子のために造られたからです」(コロサイ1:15〜17)。
少し立ち止まって、このことの大きさを実感してみてください。地球は、歩いて横断しようとすれば、途方もなく大きく感じられます。しかし太陽と比べれば、地球は一粒の砂にすぎません。私たちの銀河と比べれば、太陽もまた一粒の砂になってしまいます。そして私たちの銀河もまた、宇宙全体の中では一つの点にすぎないのです。これらすべてを構想し、すべてを一つにまとめて成り立たせておられる方こそ、ガリラヤの道を歩かれたあのイエスと、同じ方なのです。
3. この方にはいのちがあり、そのいのちは人の光であった(ヨハネ1:4〜5)
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4〜5)。
イエスはいのちを所有しておられるのではありません。いのちはイエスの内にあり、イエスから湧き出ているのです。そしてこのいのちは、すべての人を照らします。福音書の中でイエスを見つめるとき、あなたは神がどのような方であるかを見るのです。神の善良さ、あわれみ、愛、力、義にかなった怒り、忍耐です。目に見えない御父が、御子の内に見える方となられるのです。
4. あかしをするために遣わされたひとりの証人(ヨハネ1:6〜9)
バプテスマのヨハネは、光そのものではありませんでした。彼は、その光についてあかしするために来たのです。彼の使命は、道を備え、これから来られる方を指し示し、彼を通してすべての人が信じるようになることでした。今日もなお、信じる者たちの使命は変わりません。それは、自分自身を指し示すのではなく、イエスを指し示すことです。
5. この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった(ヨハネ1:10〜11)
「この方は世におられた。世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」(ヨハネ1:10〜11)。
この逆説には胸を打たれます。創造者が、ご自分の創造の中へと入って来られたのに、その創造物は創造者を認めません。さらに悪いことに、何世紀にもわたってメシアを迎える備えをしてきたはずのご自分の民が、その方を拒んでしまったのです。なぜでしょうか。それは、人間の心が、自分を造られた方に従うよりも、何が善で何が悪かを自分自身で決めることを好むからです。
ここでエデンの物語が思い起こされます。神は、残酷さから善悪の知識の木を置かれたのではありません。神がそれを置かれたのは、本当の選択がなければ、本当の愛も存在しないからです。もしある夫が「他に選択肢がなかったから、あなたと結婚したのだ」とあなたに言ったとしたら、その夫は本当にあなたを愛しているとは言えません。愛には自由が必要なのです。神は人に自由な意志をお与えになりました(それは神を拒むことさえできるほどのものです)。それは、神がロボットのような従順ではなく、愛の関係を望んでおられたからです。
6. 受け入れたすべての人々に(ヨハネ1:12〜13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわちこの方の名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。それらの人々は、血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、人の意欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:12〜13)。
ここに約束があります。イエスを受け入れる人々は、神の子どもとなります。それは、彼らがそれにふさわしいからでも、十分な努力をしたからでも、正しい家庭に生まれたからでもありません。ただ神が、彼らを上から生まれさせてくださったからなのです。これはエペソ2:8〜9の言葉です。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、あなたがた自身から出たことではなく、神の賜物です。」
恵みとは、あなたが得たものでも、ふさわしいとされたものでもない良いものを受け取ることです。神はすべてを始められます。宇宙を創造し、あなたを創造し、あなたを照らし、あなたにイエスと出会わせてくださいます。あなたの側の役割は、ただ受け取ることだけです。そして、あなたが受け取るとき、御霊があなたのうちに住まわれ、この現実をあなたに味わわせてくださいます。あなたは、完全な父親に愛される子どものように、ありのままの姿で神に愛されているのです。
まとめ
- イエスは永遠の方です。イエスはベツレヘムで始まったのではありません。初めの前から、イエスは神とともにおられ、神であられました。
- イエスは創造者です。存在するもので、イエスによらずに存在するものは何もありません。宇宙全体は、イエスの内にその起源と一貫性を見出しているのです。
- イエスは神の御顔です。福音書の中で御子を見つめるとき、目に見えない御父が見える方となられます。
- イエスを受け入れることは、あなたを神の子どもとします。この新しい身分は、あなたの努力からも、家族からも、実績からも来るものではありません。それは恵みから来るのです。
- 善い行いは信仰の後についてくるものであり、信仰に先立つものではありません。神があなたをどれほど愛しておられるかを理解するとき、神のために生きたいという願いが自然に生まれてくるのです。
個人への適用
- あなたがイエスについて考えるとき、あなたは本当は誰のことを考えていますか。道徳の教師でしょうか。友人でしょうか。それとも、すべてのものがそれによって造られた永遠のことばでしょうか。
- あなたはすでに、ヨハネがこの言葉に込めた意味において、イエスを受け入れていますか。ただイエスに感嘆するだけでなく、あなたの人生をイエスに委ねているでしょうか。
- もしあなたが神の子どもであるなら、日々その現実の中を生きていますか、それとも、いまだに孤児のように感じ続けていますか。
- あなたは神の前での自分の価値を、何に基づかせていますか。自分が行ったことにですか、それとも神が行ってくださったことにですか。
- バプテスマのヨハネがしたように、今週あなたは誰に対してイエスを指し示すことができますか。
引用聖句
- ヨハネ1:1〜13・ヨハネの福音書の序文
- ヨハネ20:31・ヨハネの福音書が書かれた目的
- 創世記1:1・「初めに、神が天と地を創造した」
- コロサイ1:15〜17・神のかたちであり創造者であるキリスト
- エペソ2:8〜9・恵みにより、信仰によって救われる
よくある質問
なぜヨハネはイエスを「ことば」(ロゴス)と呼んでいるのですか。
それは、ことばが思いを表現するものだからです。御父には思いがあり、人格があり、意志があります。そしてイエスは、それを完全に表現しておられます。イエスを見つめることは、神が正確にどのような方であるかを見ることなのです。ロゴスという言葉は、ヨハネのギリシア人読者にも語りかけるものでした。それは、宇宙を構成する理性的な原理を思い起こさせる言葉だったのです。ヨハネはこう語っています。この原理とは一つの人格であり、その人格こそイエスなのだ、と。
具体的に、どのようにすればイエスを「受け入れる」ことができるのですか。
受け入れるとは、単に知的に同意することではありません。それは、イエスがあなたを救うために来られた神の子であると認め、イエスに信頼を置き、あなたの人生をイエスに委ねることです。それは心の行為であり、その後、あなたの存在全体の中に表れていくものなのです。
救いが恵みによるものであるなら、なぜ聖い人生を生きる必要があるのですか。
それは、神があなたのために何をしてくださったかを理解するとき、それに応えたいという思いが自然に湧いてくるからです。善い行いは救いの原因ではなく、その実です。あなたはもはや恐れや義務感からではなく、愛から従うようになるのです。
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