子どものように神の国に入る
福音書の中には、よく耳にする箇所、子どもの祝福式の礼拝で好んで使われる箇所でありながら、聞き慣れてしまって、それ以上心に響かなくなってしまう箇所があります。マルコ10:13~16はまさにそのひとつです。ある日曜日、沼津の教会に招かれた吉田正牧師は、この箇所を子どもについての箇所としてではなく、あなたについての箇所として開きました。あなたがどのように神の国に入るのか、あるいは入らないのか、という箇所として。
彼が説教に付けた題は、はっとさせられるほど率直なものでした。「神の国に入ることができる者たち」。つまり、そこにはひとつの門があり、イエスご自身が誰がそこを通るのかを語っておられる、ということです。マルコ10章の箇所は、その門を通るために何を手放さなければならないか、そして何があれば十分にそこを通れるのかを、同時に示してくれます。
1. 知っているつもりで、実は心を揺さぶる箇所
その日曜日に読まれたのは、次の箇所でした(マルコ10:13~16)。「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちをみもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って弟子たちに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできません。』そして、子どもたちを抱き、手を彼らの上に置いて祝福された。」
牧師は、柔らかい翻訳ではぼやけてしまいがちなある細部に注目させます。イエスは「憤られた」のです。イエスは単に弟子たちを穏やかに正されたわけではありません。この場面は、イエスがすでに十字架とよみがえりについて公然と語り始めていた時でした。イエスはエルサレムに向かって上って行かれます。人としては、イエスは疲れておられました。弟子たちはおそらくこう思っていたでしょう。「今は無理だ。先生は疲れておられる。死に向かって進んでおられるのだ。子どもたちにかまっている時間はない。」
そして、そこでイエスが立ち上がられるのです。これは些細な牧会的な出来事ではありません。それは神の国に関わる問題なのです。イエスのもとに来ようとする子どもを退けることは、神ご自身が遣わそうとしている誰かの道をふさぐことなのです。そしてイエスが「まことに」と言われるとき、それは何か重大なことを語ろうとしている合図です。「子どものようにでなければ、誰も神の国に入ることはできない。」
2. イエスが子どもの中に見ておられるもの(そして私たちが忘れがちなもの)
吉田牧師は数十年にわたって子どもの奉仕に携わってきました。彼の妻は結婚前に沖縄のCEF(子ども福音伝道団)で子ども伝道の訓練を受けました。彼自身も、若い夫婦として北海道の小樽に召され、それ以来ずっと日曜学校で教え続けてきました。彼はとても正直にこう語ります。子どもたちは、かわいらしい飾りではありません。彼らは動き回り、叫び、けんかをし、蹴りを入れてくる、生きた存在なのです。
彼は、日曜学校のある女の子について語ります。見た目はとても愛らしいのに、誰彼構わず蹴りを入れる子どもでした。ゲームの間じっとしていられず、どんなルールにも従わない男の子もいました。毎週、牧師は礼拝が始まる前にすでにくたくたになっていました。自分がいつまで続けられるだろうかと自問したこともあったといいます。
そんな状況の中で、神はイエスのこのことばを彼に思い起こさせました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」これは掲示板の標語ではありませんでした。それはひとつの命令でした。どれほど手を焼かせる子どもであっても、神はその子を礼拝の場に遣わしておられたのです。彼らは自分から来ていました。彼らは何かを求めていたのです。たとえ疲れからであっても彼らを退けることは、弟子たちがしようとしたのと同じことを繰り返すことになるのです。
3. 転機:ある子が泣き出したとき
ある日、日曜学校で、あの手を焼かせていた女の子がメッセージを聞きました。彼女は泣き出しました。「ごめんなさい」と言いました。彼女はイエスを信じました。こんなに小さな子どもが、本当に悔い改めることができるのだろうか。牧師は、心のどこかにそんな疑いを抱いていたことを認めています。しかし彼は理解しました。そう、彼女にはできるのです。聖霊は彼女の内で働いておられました。それは大人の内で働かれるのとまったく同じように、いや、もしかするとより少ない障害の中で働かれたのです。
そこから吉田牧師の見方は変わりました。子どもが叫んでも、走り回っても、言うことを聞かなくても、蹴りを入れてきても、それがどうであれ、神はその子を遣わしておられます。聖霊はその子に届くことができます。そして、その子に寄り添う大人とは、牧師であり、担当者であり、そしてあなた自身でもあります。あなたの家庭で、教会で、あなたの住む町で。あなたの役割は「門を閉ざさない」ことなのです。
4. 「子どものように受け入れる」とは本当は何を意味するのか
マルコ10章のすぐ後に続く箇所を読むと、その対比が際立って見えてきます。それは金持ちの青年の話です(マルコ10:17~22)。彼もまたイエスのもとに来ます。しかし、彼は自分を投げ出すようにはしません。彼は用意された問いを携えてやって来ます。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか。」彼は道徳的な履歴書を携えてやって来ます。「私は若い頃から、すべての戒めを守ってきました。」
一方、子どもは履歴書を持って来ません。子どもは連れて来られるか、他にどこへ行けばよいのか分からないからやって来ます。子どもは三つの簡単なことばを口にすることができます。「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」。そして、自分が過ちを犯したと分かった子どもの口から出るこの三つのことばは、金持ちの青年の道徳的な演説よりも、はるかに価値があるのです。
神の国は受け取るものであり、勝ち取るものでも、交渉するものでも、宗教的な功績によって手に入れるものでもありません。それは、小さな子どもがプレゼントを受け取るように受け取るものです。計算なしに、両手を開いて、驚きと感謝をもって。
5. 三つのことばによって変えられたある男の子
牧師はさらに、日曜学校で手に負えなかったある男の子の話をしてくれます。ある日、この男の子は「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」ということばを言えるようになりました。この三つのことばが、彼の日常を変えました。彼をからかっていた子どもたちも、もう彼に対して手出しができなくなりました。大人たちは何が起きたのかと不思議に思いました。この男の子は信仰に導かれました。そして彼を通して、彼の周りにいたある大人もまた、イエスのもとに導かれました。
牧師はこのことを自分自身への問いかけとし、あなたにもこう投げかけます。「私は、クリスチャンとして、牧師として、シンプルに『ありがとう』『ごめんなさい』と言えているだろうか。私の人生には、子どもの持つあの三つのことばのシンプルさがあるだろうか。」
6. イエスは子どもを腕に抱かれた
この場面は教えだけでは終わりません。聖書は、イエスが「子どもたちを抱き、手を彼らの上に置いて祝福された」と記しています。十字架に向かって歩んでおられた、疲れておられたはずのイエスが、それでも時間を取って、一人ひとりの子どもを抱きしめられたのです。これこそ、牧師があなたに残したいイメージです。イエスは、ご自分のもとに来る者を決して追い返されませんでした。そして、長年信仰生活を送ってきた疲れた大人が、両手を空にしてイエスのもとに戻り、ただ「ごめんなさい、ありがとう」と言うときも、イエスは決してその人を追い返されません。
要点まとめ
- 神の国は、イエスのもとに子どものように来る者、すなわち、両手を空にして、道徳的な履歴書を持たずに来る者のものです。
- 弟子たちは子どもたちを閉め出そうとしました。イエスは憤られました。神がキリストのもとへと遣わしている誰かの道をふさぐことは、重大な問題です。
- 子どもは実際に悔い改め、信じることができます。聖霊は大人の内で働くのと変わらず、子どもの内でも働かれます。
- 「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」。この三つのことばだけで、生きた信仰を言い表すのに十分なことがあります。
- 金持ちの青年(マルコ10:17~22)は履歴書を携えてイエスのもとに来ました。彼は悲しみながら去って行きました。子どもは何も持たずに来ました。子どもは祝福されて帰って行きました。
あなた自身への問いかけ
- 今日のあなたは、子どものようにイエスのもとに来ていますか。それとも、自分の良い行いのリストを携えた金持ちの青年のようにでしょうか。
- 神に、あるいは兄弟に、親に、子どもに、単純に「ごめんなさい」と言うことを妨げているものは何ですか。
- 今日、神はあなたの周りに、家族や教会の中に、どんな子どもたちを置いておられますか。あなたは彼らにキリストへの扉を開いていますか、それとも疲れからそれを閉ざしていますか。
- これから始まる一週間で、誰かにイエスの祝福を味わわせるような、どんな行いや、ことばができるでしょうか。
- いつも何かを勝ち取ろうとするのではなく、神が与えようとしておられるものを、そのまま受け取る時間を取っていますか。
引用聖句
よくある質問
子どもは本当に悔い改め、イエスを信じることができるのですか。
はい、できます。吉田牧師は自身の奉仕の経験からこれを証ししています。日曜学校のある女の子が泣き、「ごめんなさい」と言い、そして信じました。聖霊は大人の心の中で働くのと同じように、あるいはそれ以上に少ない障害の中で、子どもの心の中でも働かれます。イエスご自身も、子どものように受け入れる者のために神の国があると言われました。
「子どものように神の国を受け入れる」とはどういう意味ですか。
それは、幼稚であること、未熟であることではありません。それは、道徳的な履歴書を持たず、交渉もせずに、両手を空にしてイエスのもとに来ることです。それは、救いが報酬ではなく、贈り物であることを受け入れることです。子どもは「ありがとう」「ごめんなさい」と言うことができます。「これは自分にふさわしいものだ」とは言わないのです。
なぜイエスは弟子たちに対して憤られたのですか。
イエスのもとに来ようとする誰か(とりわけ小さな子ども)の道をふさぐことは、些細なことではないからです。それは神の国への入り口を閉ざすことです。弟子たちは、疲れたイエスを守っているつもりでした。しかし実際には、彼らはイエスの使命を裏切ろうとしていたのです。
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