イエス・キリストにとどまる:ヨハネ15章が本当に教えていること
「わたしにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたにとどまる。」イエス様のこの言葉は、ヨハネ15章で繰り返し語られるため、わたしたちはいつしかそれを本当には受け止めなくなってしまいます。けれども、この言葉こそ、クリスチャンの人生の中心にあります。ヨハネ15:1〜16:4についてのこの説教は、わたしたちを抽象論から抜け出させてくれます。イエス様の姿を見ることも、その声を物理的に聞くこともできないとき、具体的に、キリストにとどまるとはどういうことなのでしょうか。
その答えは、この章全体を貫いています。それは、イエス様の愛を受け取ること、御言葉によって清められること、感謝によって戒めを守ること、そして実を結ぶこと。しかもその実には、はっきりとした名前があります。愛です。
1. ぶどうの木と枝、忘れられがちな当たり前のこと
イエス様は、弟子たちがよく知っている農業のたとえを用いられます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハネ15:1)イエス様、それがぶどうの木です。わたしたち、それが枝です。父は、より多くの実を結ばせるために枝を刈り込まれます。
木から切り離された枝は、何も生み出すことができません。それは農夫にとって当たり前のことです。しかしイエス様は、それをわたしたちに向けて言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」(ヨハネ15:5)「大したことはできない」ではありません。何もできないのです。自分で選んだわけではない人を愛すること、自分を傷つけた人を赦すこと、下心なしに仕えること、自分の力では不可能です。自分なりの基準で親切なふるまいをすることはできても、神が望んでおられる実を結ぶことはできないのです。
2. 清める御言葉
イエス様は弟子たちにこう言われます。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、すでにきよい。」(ヨハネ15:3)説教者は重要な点を指摘します。ギリシア語では、「清める」と「刈り込む」は同じ語根から来ているのです。ぶどうの木を刈り込む農夫の動作は、御言葉がわたしたちを清める動作と同じなのです。
ところが、日々の生活の中で、わたしたちは絶えずこの世の価値観を浴び続けています。何を見るか、何を聞くか、何を読むか。少しずつ、わたしたちの目は曇っていきます。「まあ、そこまで大したことではない」とつぶやくようになります。御言葉は、その曇った目を洗いに来てくれます。ものごとを整え、あるべき場所に戻してくれます。それなしには、実を結ぶことは不可能です。自分なりの基準で愛そうとして、神が望まれる実ではなく、自分だけの実を作ってしまうことになります。
3. 順序が本質である:まず受け取り、それから従う
これはおそらく、この説教の最も重要な点です。多くのクリスチャンは、信仰を逆さまに生きています。彼らは、神の愛を勝ち取るために、神の恵みの中にとどまるために、戒めに従おうとします。それは必ず、いつか崩れ落ちます。
イエス様はこう言われます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。あなたがたが、わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまる。」(ヨハネ15:9、10)
順序は「従いなさい、そうすれば神があなたを愛される」ではありません。そうではなく、まずイエス様の愛を受け取りなさい、愛されるままに自分を委ねなさい。そして、その感謝の中から、戒めを守りたいという願いが生まれるのです。従順は、受け取った愛の後に来るものであって、決してその前に来るものではありません。そうでなければ、遅かれ早かれあなたは行き詰まります。恵みだけが生み出すことのできるものを、自分自身の力で生み出そうとしても、できないからです。
4. 従業員としてではなく、子どもとして神の前に立つ
説教者は的を射たたとえを語ります。毎週の報告を求める厳しい上司の前に立つように神の前に立つこと、それはクリスチャンの人生ではありません。もし、その週に自分がどれだけよく行ったかを基準に神に近づかなければならないとしたら、だれも近づけないでしょう。「わたしは一週間、まっすぐに歩みました」と言える人はだれもいないのです。
しかし、キリストが代価を払われたゆえに、恵みがそこにあるゆえに、あなたは確信をもって恵みの御座に近づくことができます(ヘブル4:16参照)。そして、その恵み深さを味わえば味わうほど、恐れからではなく感謝から、神に従いたいという願いがあなたの中に生まれてくるのです。
5. 実とは愛のことであり、喜びはそれに伴ってくる
神が望んでおられるこの実とは何でしょうか。イエス様ははっきりと言われます。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)愛こそが実です。パウロはガラテヤ5:22、23でそれを確認します。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
そしてイエス様はこう付け加えられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)喜びは、あってもなくてもよいおまけではありません。それは一つの温度計です。神との関係から来るこの喜びは(道端で百円を拾ったときの喜びとは違います)、あなたがキリストに本当にとどまっているかどうかを示します。それは、飛行機が欠航になっても、人生がうまくいかなくなっても、なお立ち続ける喜びです。
6. 世は、キリストにとどまる弟子を憎む
15章の終わりと16章の初めで、イエス様は弟子たちにこう警告されます。「世があなたがたを憎むなら、わたしをあなたがたより先に憎んだことを知っておきなさい。」(ヨハネ15:18)そして厳しいことも告げられます。「彼らはあなたがたを会堂から追放するでしょう。それどころか、あなたがたを殺す者がみな、それによって神に仕えていると考える時が来ます。」(ヨハネ16:2)
イエス様がこれらのことを語られるのは、それが実際に起こったときに、弟子たちがつまずかないためです(ヨハネ16:1)。キリストにとどまることは、人生を快適にはしません。それは人生を実り豊かにします。そして、その実り豊かさが、人を不快にさせるのです。しかし、ぶどうの木につながり続ける弟子は、立ち続けます。
覚えておきたいポイント
- イエス様がぶどうの木であり、あなたは枝です。イエス様から切り離されれば、あなたは本当の実を何も結ぶことができません。
- 御言葉はあなたを刈り込むと同時に、あなたを清めます。それなしに実を結ぶことはできません。
- 順序は決定的に重要です。まず神の愛を受け取り、それから戒めを守ってください。決してその逆ではありません。
- 実とは愛のことです。そして、それに伴う喜びが、あなたが本当にキリストにとどまっているかどうかを示します。
- 世は抵抗するでしょう。キリストにとどまる者に対して。イエス様はそれを、あなたがつまずかないようにと、前もって告げられました。
あなたへの適用
- わたしは、その週の自分の実績を頼りに神に近づいているだろうか。それとも、神の恵みに身をゆだねているだろうか。
- わたしが日々浴びている、この世の考え方の「シャワー」とは何だろうか。御言葉がそれを洗い流すままにしているだろうか、それとも、それに慣れてしまっているだろうか。
- 自分の力ではどうしても愛せないと感じる人はいないだろうか。キリストに、その人のために、わたしを通してこの実を結んでいただくよう求める備えはあるだろうか。
- わたしの喜びは、状況にかかわらず立ち続けているだろうか、それとも、ちょっとしたつまずきで消えてしまうだろうか。
- キリストにとどまることが、世に対して何かの代価を払うことになったとしても、わたしはその備えができているだろうか。
引用聖句
- ヨハネ15:1〜16:4・中心となる箇所
- ヨハネ15:5・「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」
- ヨハネ15:9、10・キリストの愛にとどまる
- ヨハネ15:11・満ちあふれる喜び
- ヨハネ13:34・新しい戒め
- ガラテヤ5:22、23・御霊の実
- ヘブル4:16・確信をもって恵みの御座に近づく
- ヨハネ16:1、2・迫害についての警告
よくある質問
「イエス・キリストにとどまる」とは、具体的にどういう意味ですか。
それは抽象的な神秘体験のことではありません。それは、毎日キリストの愛を受け取り、その御言葉にあなたの目を清めさせ、義務としてではなく感謝として、その戒めを守ることです。
自分が本当にキリストにとどまっているかどうか、どうすれば分かりますか。
ヨハネ15章によれば、二つの指標があります。実(あなたを引きつけない人さえも、キリストのように本当に愛しているか)と、喜び(あなたの状況がどうであれ、神との関係から来る喜びがあるか)です。
戒めを守ることによって、神に愛していただけるのですか。
いいえ、そこが避けるべき誤解です。神の愛は先にあります。あなたは、愛されるために戒めを守るのではなく、すでに愛されているから戒めを守るのです。順序を逆にすれば、この体系は崩れ落ちます。だれも自分自身を義とすることはできないからです。
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