要約
デカポリスの耳が聞こえず口のきけない人は、名の記されていない人です。イエスがデカポリス地方を通ってガリラヤの海べに戻られたとき、人々が彼をみもとに連れてきました。イエスは彼を群衆から連れ出し、両耳に指をさし入れ、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、「エパタ」、すなわち「開けよ」と言われました。この奇跡を記すのはマルコだけです。イエスは何もかもすばらしいことをなさるかたです。
デカポリスの耳が聞こえず口のきけない人という名前の意味
聖書はこの人の名を記していません。マルコが引用するアラム語の「エパタ」は、福音書記者自身が「開けよ」と訳しています(マルコの福音書7章34節)。デカポリスは「十の町」を意味し、ギリシア文化の強い地方でした。
デカポリスの耳が聞こえず口のきけない人の生涯
デカポリスを通って
マルコの福音書7章31節ツロの地方で一人の女の願いに答えたのち、イエスはシドンを経て、デカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べに来られます。以前、悪霊につかれていてなおされた人が、イエスにしていただいたことを言い広めた地方でもあり(マルコ5章20節)、新たな奇跡がここで起こります。
人々に連れられて
マルコの福音書7章32節人々が、耳が聞えず口のきけない人をイエスのもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いしました。この人は、イエスのうわさを聞くことも、自分の願いをはっきり伝えることもできません。連れてきて取りなしたのは他の人々でした。人を主のもとに連れていくことの大切さが示されています。
ひとりだけ連れ出して
マルコの福音書7章33節イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、両耳に指をさし入れ、つばきでその舌を潤されました。聞こえない人に対して、イエスは体に触れる動作で語りかけ、悪いところにじかに触れられます。いやしは、人目から離れた個人的な出会いから始まりました。
エパタ
マルコの福音書7章34-35節イエスは天を仰いでため息をつき、「エパタ」、すなわち「開けよ」と言われます。すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになりました。何も開きそうになかった場所で、天を仰ぐ眼差しと一言の言葉が、即座に完全ないやしをもたらしたのです。
何もかもすばらしい
マルコの福音書7章36-37節イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと口止めされましたが、口止めをすればするほど、人々はますます言いひろめました。彼らはひとかたならず驚いて言います。「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい」。この言葉は、耳の聞えない者が聞こえ、口のきけない者が話すというイザヤの預言を思い起こさせます。
デカポリスの耳が聞こえず口のきけない人から学ぶこと
- 自分では来られない人々をイエスのもとに連れていくことは、愛による本当の奉仕である。
- イエスは、一人ひとりの弱さに合った動作をもって、その人がいる所まで来てくださる。
- イエスの言葉は、体においても心においても、閉ざされていたものを開く力を持つ。
- イエスのいやしは、イエスこそ預言者たちが告げたかたであることを示している。
鍵となる聖句
物語の中心です。イエスは天を仰いでため息をつき、「エパタ」、すなわち開けよと言われました。一言の言葉で、耳が開き、舌がほどけます。
群衆の結びの言葉が、奇跡とイエスのお方を言い表しています。イエスは何もかもすばらしくなさり、耳の聞えない者を聞こえさせ、口のきけない者を話させます。
見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞え、口のきけない人の舌は喜び歌うという預言です。耳と口のいやしは、このしるしがイエスにおいて成就していることを示します。
デカポリスの耳が聞こえず口のきけない人についての説教
よくある質問
エパタとはどんな意味ですか。
エパタはアラム語で、マルコはそのまま記したうえで、読者のために「開けよ」と訳しています(マルコの福音書7章34節)。イエスがデカポリスの耳が聞えず口のきけない人をいやされた言葉です。すぐに彼の耳が開け、舌のもつれが解けました。
なぜイエスは耳が聞えず口のきけない人をひとりだけ連れ出したのですか。
本文は理由を述べていません。イエスが彼を群衆から離し、耳と舌に触れて、分かる動作で語りかけられたことは見て取れます。この物語は、群衆に与える効果よりも、一人の人を見つめておられる主の姿を伝えています。
デカポリスの耳が聞えず口のきけない人の物語はどこにありますか。
この奇跡はマルコの福音書だけに、7章31節から37節にあります。ツロの地方でのイエスと一人の女の出会いのあとに置かれています。マタイの福音書15章29-31節は、ガリラヤの海べでの多くのいやしを簡潔に述べ、口のきけない人が話すようになったことにも触れます。