マルコ1章:魂が熱を出したら、立ち上がって仕えよう

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はじめに

「わたしは説教者ではありません。」長老のフランコ・ヴァルケッタ氏は、この告白からメッセージを始めます。それは偽りの謙遜ではないと語ります。牧師が不在だったため断ることができず、数日間みことばを求め、主が一つのみことばを与えてくださったそうです。氏は笑顔で、その朝は会衆にどうか大目に見てほしいと願いました。

取り上げられた箇所は短く、マルコ1:29-31です。会堂を出たイエスは、シモンとアンデレの家に入られます。シモンのしゅうとめは熱を出して寝ていました。イエスは近寄って手を取り、起こされます。すると熱は去り、彼女は一同をもてなし始めました。

季節の変わり目で、風邪やインフルエンザが戻ってくる時期に、ヴァルケッタ氏は熱について語ります。それは体の熱だけではなく、もっと大切なもう一つの熱、魂の熱です。その症状と処方、そして癒やしが本物であることを示すテストを「立ち上がって仕えなさい」という言葉で説き明かします。

メッセージの流れ

1. 大きな奇跡と小さな奇跡の神

  • 説教者はメッセージの準備中に、イエスの奇跡を数えようとしました。約37個まで数えたところで、ヨハネに「面食らった」と言います。イエスは、この書に書かれていない多くのしるしを行われ(ヨハネ20:30)、それを一つ一つ書けば、世界もその書かれた書物を収めきれないでしょう(ヨハネ21:25)。「主よ、たしかにあなたは奇跡を行われました」と言って、数えるのをあきらめました。
  • 最も目覚ましいものとして、カナで水がぶどう酒に変わったこと、ラザロのよみがえり、ナインのやもめの息子のよみがえりを挙げます。
  • イエスの働き方が時に不思議だったことにも目を留めます。ベツサイダでは盲人の目につばきをかけてから手を置かれました。生まれつきの盲人には、つばで泥を作り、シロアムの池で洗うように送られました。耳が聞こえず口のきけない人には、その耳に指を入れ、つばをつけて舌に触れられました。群衆は「こんなことは、まだ見たことがない」と言いました。
  • こうした華々しい奇跡の中に、シモンのしゅうとめという、目立たない奇跡があります。「わたしたちの神は、大きな奇跡の神であり、小さな奇跡の神でもあります。」
  • わたしたちは華々しいものに引かれます。説教者はジュリアーノで、25年以上歩けず車いすに乗っていた姉妹が、一人の兄弟が祈ると立ち上がって歩いたのを見たと語ります。「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」けれども日常のことでは、「イエスを煩わせたくない」と思います。「自分でできる」と思い込み、やがて主のもとに走って行って「主よ、できませんでした」と言う時が来ます。

2. 体の熱は大切なサイン

  • 熱は病気の最初の症状で、体温が37度を超えて上がります。続いて頭痛、発汗、食欲不振、そして何より脱水が起こります。わたしたちの体は70%以上が水分でできているからです。
  • 原因は感染症、ウイルス、細菌です。熱は「貴いもの」です。神は、体が反応して問題を知らせ、感染と闘い始めるようにしてくださいました。
  • どうするでしょうか。ベッドで休み、水をたくさん飲みます。体から熱を逃がすために薄着をします。実際には毛布を重ねて逆のことをしがちです。そして熱を下げる薬を飲みます。
  • 熱が続けば医者を呼び、診察を受け、検査、レントゲン、時にはCTを受けます。

3. 魂の熱

  • 少し頭が痛いだけで不安になり、解決策を探します。「それと同じ大切さを、わたしたちは魂にはしばしば与えていません。」しかも、気づかないことさえあります。
  • 魂が何日も熱を帯びていることがあります。賛美を聞き、説教を聞いても、何も起こりません。教会には来ても熱は引かず、シモンのしゅうとめのように寝たままになってしまいます。
  • ルカは同じ場面を、もう一つの細部とともに伝えます。彼女は「高い熱」に苦しんでいて、イエスは枕もとに立って「熱を叱りつけられた」のです(ルカ4:38-39)。ルカは「ちなみに医者だった」人で、この熱が彼女を苦しめていたと記しました。マルコはイエスが手を取って起こされたと言い、ルカは熱を叱りつけなければならなかったと言います。この女性を解き放つために、より大きな関わりが必要だったのです。
  • 魂が苦しめられているとき、まずすべきことは、イエスが必要だと認め、その助けを求めることです。
  • 魂の体温計は聖書です。薬には説明書が付いていますが、イタリア人はそれを「ブジャルディーノ」、つまり「小さなうそつき」と呼びます。「ここには、ブジャルディーノはありません。ここにあるのは真理です。」神の薬局であるみことばで、わたしたちの生活や行いが書かれていることに沿っているかを確かめます。そうでなければ、マルコの熱は、苦しめるルカの熱になりかねません。

4. 見過ごしてはならない症状

  • 喜びが減り始め、習慣で礼拝に来ている。「心配し始めなさい。」
  • 神のことへの願いが弱まっている。本気で気にかけるべきです。
  • 回心する前に持っていた欲望が戻ってくる。そのときは、さらに心配すべきです。
  • 神の御前にいたいと思わなくなった。「それは深刻です。入院が必要です。」
  • 「兄弟姉妹の皆さん、これらの症状を軽く見てはいけません。わたしたちの永遠がかかっています。」

5. 魂のための処方

  • 休息です。イエスは言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。わたしたちの休息はイエスにあります。十字架でイエスがわたしたちの病と罪を負ってくださったのですから、その約束に身を寄せ、しっかりつかまる必要があります。
  • 水です。魂にはたくさんの水が必要です。神のみことばが、わたしたちの心を満たす泉でなければなりません。
  • 毛布を取り除くことです。「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(1ヨハネ1:7)。魂を光の中に置くこと、つまり罪を告白し、それを捨てることです。
  • この毛布とは、ガラテヤ5章に記された古い性質の行いです。不品行、偶像礼拝、敵意、争い、ねたみ、分裂、偽りなどです。自然の世界で毛布を取り除くように、霊の世界でも取り除かなければなりません。

6. 病を自分の身に引き受けてくださる医者イエス

  • 説教者によれば、当時は熱のある人は汚れているとされ、触れた人も汚れるとされていました。ラビなら距離を置き、せいぜい遠くから祈っただけでしょう。
  • イエスは「最も優れた医者」として、汚れを気にせず彼女の手を取り、起こし、癒やされました。
  • イエスは彼女から病を取り去っただけではありません。わたしたちの罪を負われたように、その病を自分の身に引き受けられました。イザヤは700年前にこう告げていました。「まことに彼はわたしたちの病を負い、わたしたちの悲しみをになった」(イザヤ53:4)。
  • 後にペテロはこう書いています。「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、自分の身にわたしたちの罪を負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:24)。
  • 「カペナウムでイエスはシモンのしゅうとめの熱い手に触れられましたが、十字架ではその手が釘づけにされました。」それは、わたしたちが救われ、解放され、永遠のいのちに定められるためです。

7. 癒やしのテスト:立ち上がって仕える

  • 治療のあとには、治ったかどうかを確かめます。「フランコ、気分はどう?」「少し良くなりました。」けれども少し良くなったことは治ったことではなく、ぶり返しは最初の熱より悪いことが多いのです。
  • シモンのしゅうとめは、寝たままでいることも、お礼を言うだけで終わることもなく、一同をもてなし始めました。「これが、今朝、主がわたしたちに求めておられることです。」
  • イエスはここにおられます。見えないかもしれませんが、あなたのそばにいて、手を差し伸べておられます。あなたの役目は、その手をつかみ、約束にしっかりつかまり、それがあなた自身のためのものだと信じることです。立ち上がって立ち去るだけでは足りません。「立ち上がって主に仕えるなら、あなたは本当に癒やされているのです。」
  • 主に仕えるとは、教会の仕事を引き受けることだけではありません。何よりも、主がゆだねられた使命、つまり人を神と和解させることを果たすことです。それは、ほかの人がみことばを伝えてわたしたちにしてくれたことと同じです。
  • 説教者は証しをします。自分は誠実な人間で、仕事では非の打ちどころがないと思っていました。退職の際には素晴らしい送別会を開いてもらったほどです。しかし、自分は罪人でした。「みんながしていること」だと言って罪を正当化していました。主はその人生を「映画のように」見せ、「悔い改めなさい、赦しを求めなさい」と言われました。本当に赦しを求めたのは、それが初めてでした。「天からの火」が足の先まで貫くのを感じ、主をほめたたえ始めたと語ります。
  • 誠実な人ほど、主のもとに導くのが難しいことが多いものです。自分の罪を認めないからです。
  • たとえ話の祭司やレビ人のように、わたしたちも他人の必要を見ながら立ち止まらないことがあります。ジュリアーノでは、教会が家の掃除に出かけ、薬物依存の人々の世話をし、家族を支えたときに、リバイバルが起こったと語ります。一人の牧師が書いた言葉を引用します。「わたしの墓石にわたしの名前を刻まないでください。ほかの人たちの名前を刻んでください。」
  • 「あの人は好きになれない。」まさにその人にこそ手を差し伸べるべきです。福音はわたしたちの考え方とは正反対です。右の頬を打たれたら左の頬も向け、上着も取らせなさいと教えます(マタイ5:39-40)。
  • 「イエスはまもなく戻って来られます。」わたしたちの人生は自分のものではなく、主にささげられるべきものです。

心に留めたいこと

  • 神は大きな奇跡だけでなく、小さな奇跡も行われます。「煩わせる」ことを恐れずに、日常のことを主にゆだねてよいのです。
  • わたしたちは少し熱が出ただけで体を気づかいますが、魂はしばしば放っておきます。神のみことばは、わたしたちの状態について真実を告げる体温計です。
  • 喜びの欠如、習慣化、神のことへの願いの低下、昔の欲望の復活は、真剣に受け止めるべき症状です。
  • イエスは病を取り去っただけでなく、それを自分の身に引き受け、十字架でわたしたちの罪を負われました。
  • 癒やしのしるしは、立ち上がって仕えることです。まず人を神と和解させることから始まります。

個人への問いかけ

  1. 神のみことばで魂の体温を測ると、今日は何を示していますか。
  2. 喜びが減った、習慣で礼拝に出ている、神への願いが弱まった、昔の欲望が戻ってきた。この中で、自分に当てはまる症状はどれですか。
  3. 告白によって神の前で光の中に出し、取り除くべき「毛布」は何ですか。
  4. 日常のどんな場面で、「イエスを煩わせる」ことをためらっていますか。
  5. たとえ好きになれない人であっても、あなたが立ち上がって仕えることを必要としているのは、周りの誰ですか。

引用された聖句

よくある質問

フランコ・ヴァルケッタ氏が語る「魂の熱」とは何ですか。

気づかないうちに入り込むことがある霊的な状態です。喜びが減り、習慣で礼拝に来るようになり、神のことへの願いが弱まり、回心前の欲望が戻ってきます。ヴァルケッタ氏は、これらの症状を軽く見ないようにと呼びかけます。「わたしたちの永遠がかかっている」からです。

なぜルカは、シモンのしゅうとめが高い熱を出していたと明記しているのですか。

マルコは、熱を出して寝ている女性とだけ記しています。医者だったルカは、彼女が高い熱に苦しんでいたこと、そしてイエスが熱を叱りつけられたことを付け加えています(ルカ4:38-39)。説教者にとってこの細部は、放っておいた熱が魂を苦しめる熱になりうることを示しています。

本物の霊的な癒やしのしるしは何ですか。

癒やされたあと、シモンのしゅうとめは寝たままではなく、一同をもてなし始めました。ヴァルケッタ氏にとって、これが癒やしを裏づけるテストです。主に仕えることは教会の仕事にとどまらず、何よりも人を神と和解させる使命のことです。

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