要約
バルテマイは、エリコの道ばたに座っていた盲目の物乞いです。イエスがエルサレムに上る途中で通りかかります。ナザレのイエスが通ると聞いて、ダビデの子よ、私をあわれんでくださいと叫びました。群衆は黙らせようとしますが、彼はますます叫びます。イエスは立ち止まって彼を呼び、望みを尋ね、あなたの信仰があなたを救ったと告げられました。彼はすぐに見えるようになり、イエスに従いました。信仰の大胆さが心に残る人物です。
バルテマイという名前の意味
マルコ自身がこの名の意味を示しています。バルテマイはテマイの子という意味です。「バル」はアラム語で「子」を意味し、福音書記者がそのように紹介する理由です(マルコの福音書10章46節)。ルカは同じ癒やしをエリコ近くの出来事として、名前を挙げずに記しています(ルカの福音書18章35節)。
バルテマイの生涯
道ばたの物乞い
マルコの福音書10章46節イエスは弟子たちと大勢の群衆とともにエリコを出ます。道ばたには、盲目の物乞いバルテマイが座っていました。仕事も群衆の中の居場所もなく、通る人々の施しに頼る身でした。その道ばたで、彼の物語が変わろうとしています。
イエスへの叫び
マルコの福音書10章47-48節バルテマイは、ナザレのイエスが通っていると聞くと、ダビデの子イエスさま、私をあわれんでくださいと叫び始めます。大勢が叱りつけて黙らせようとしますが、彼はますます大声で叫びました。約束されたメシアの称号でイエスを呼んだのです。
イエスが立ち止まって呼ぶ
マルコの福音書10章49-50節イエスは立ち止まり、あの人を呼んで来なさいと言われます。先ほど黙らせようとした人々が、今度は、安心しなさい、立ちなさい、あなたを呼んでおられると声をかけます。盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとに来ました。自分を縛るものを後にしたのです。
わたしに何をしてほしいのか
マルコの福音書10章51節イエスは単純な問いを投げかけます。わたしに何をしてほしいのか、と。この人の必要は分かっておられましたが、本人が口にすることを促されます。バルテマイは、先生、目が見えるようになることです、と答えました。彼の願いは明確でした。
取り戻した視力と従う道
マルコの福音書10章52節イエスは、行きなさい、あなたの信仰があなたを救いました、と告げられます。彼はただちに見えるようになり、イエスについて道を進みました。ルカは、彼が神をあがめながら従い、それを見た民もみな神を賛美したと付け加えています(ルカの福音書18章43節)。
バルテマイから学ぶこと
- 粘り強くイエスに叫ぶことは無作法ではなく、信仰の表れです。
- 黙らせようとする声が、私たちの叫びに対するイエスの応答を決めるわけではありません。
- イエスはすでにご存じでも、私たちが望みをはっきり口にするよう招いておられます。
- 上着を脱ぎ捨てることは、主の招きに応えるために自分を縛るものを手放すことを表します。
- バルテマイの癒やしは、イエスに従って歩むことへとつながりました。
鍵となる聖句
ダビデの子よ、私をあわれんでください、というバルテマイの叫びです。彼はイエスをメシアと認め、黙らされることを拒みました。粘り強く信頼に満ちた祈りの手本です。
わたしに何をしてほしいのか、という主の問いです。主は押しつけず、尋ねられます。バルテマイは「ラボニ」と敬意をこめて呼びかけ、具体的な願いを答えました。
あなたの信仰があなたを救いました、という宣言です。バルテマイの信仰が癒やしの支えとなり、節の終わりでは、彼が一人で立ち去らず、イエスに従って道を進んだことが示されます。
ルカの並行記事は、エリコに近づいたときの同じ叫びと癒やしを伝えます。最後の賛美が強調され、この人は神をあがめ、民もみな神を賛美しました。
バルテマイについての説教
よくある質問
聖書のバルテマイとは誰ですか。
バルテマイはエリコの盲目の物乞いです。群衆の制止にもかかわらずイエスに叫び、マルコの福音書10章46-52節で視力を受け、イエスに従いました。マルコが名前を記す、数少ない癒やされた盲人の一人です。
バルテマイという名前にはどんな意味がありますか。
マルコ自身が説明しており、バルテマイはテマイの子です。「バル」はバルヨナやバルナバにも見られるアラム語で「子」の意味です。父テマイの名の意味については、聖書はそれ以上述べていません。
バルテマイの物語は聖書のどこにありますか。
マルコの福音書10章46-52節にあります。ルカの福音書18章35-43節は名前を記さずに、エリコ近くの盲人の癒やしを伝え、マタイの福音書20章29-34節も触れています。三つの記事を並べて読むと、細部の違いを比べやすくなります。