はじめに
編みパンやパンを作るとき、イースト(酵母)を入れ忘れたことはありませんか。説教者は、自分にもそんな経験があると打ち明けます。生地は平たいままで、そのうえ固くなってしまったそうです。バーゼルのゲラート教会(Gellertkirche)で語られたこのメッセージは、「ここの何がおかしいのか?」と題するシリーズの第3回で、この台所での経験を出発点に、聖書における「パン種」の働きについて語ります。
パン種は生地をふくらませるもので、私たちが期待するのもそれです。しかし、長く働かせすぎると、生地は酸っぱくなり、しぼみ、やがて傷んでしまいます。三つの聖書箇所が全体を貫いています。申命記16章の過越の祭り、ルカの福音書12章にあるパリサイ人のパン種についてのイエスの警告、そしてコリント人への手紙第一5章のパウロの呼びかけです。
説教は三つの問いで構成されています。なぜ過越の祭りにはパン種を使わないのか。偽善のパン種とは何か。罪のパン種はどのように働くのか。
メッセージの流れ
1. パン種の働き:発酵から腐敗へ
- パン種(天然酵母)とイーストは同じ働きをしますが、パン種のほうが少しゆっくりです。小麦粉と水に混ぜると、小麦粉の糖が変化して生地がふくらみます。
- 聖書の時代には、乾燥イーストはありませんでした。その日の生地の一部を取っておき、翌日のパンを作るときの種にしました。こうしてパン種の連なりが生まれ、いつまでも続けることができました。
- あと一日か二日置くと、パン種は生地を酸っぱくしすぎます。生地は形を保てず、しぼんでだらりとなります。数日、長ければ二週間もすると腐り、酢やアルコール、さらにはアセトンのようなつんとした味になり、カビが生えてきます。
- 「パンを作るときに私たちが求める効果は、すでに腐敗という過程の最初の段階、つまり発酵なのです。」だから聖書は、パン種をたいてい否定的なイメージとして用い、妥協や利己心、人に気に入られたいという願いを表します。
- 罪も同じように働きます。「最初は、とてもおいしそうに見えます。[…] いい香りがして、満足を約束してくれます。」そのとき私たちは、それが内側から、私たちの価値観や態度や行動を分解し始めていることに気づきません。
2. なぜ過越の祭りにパン種を使わないのか
- 過越の祭りは、エジプトでの奴隷状態からの解放を思い起こさせます。それは、イエス・キリストによって与えられた救いをすでに預言的に告げています。戸口の柱に塗られた小羊の血が家々を守り、死の使いは通り過ぎていきました。
- イスラエルにははっきりした指示が与えられました。エジプトのパン種を持って出てはならない。七日間、民は種なしパンを食べます。それは出発のあわただしさを思い出すためであり、同時に、はっきりとした断絶の印でもありました。途切れることなく続いていたパン種の連なりが断たれる。それは新しい出発のしるしです。
- 現在のユダヤ教の習慣でも、過越の祭りは、悔い改めと清め、そして争いのあるところでの和解への呼びかけでもあります。
- 祭りの前夜、一週間の大掃除のあと、ろうそくを持って家じゅうを回り、ポケットや隅や隙間にあるパン種の最後のかけらを探します。箴言20章27節です。人の息は主のともしびであり、心の奥底までも探るのです。
- 説教者によれば、この探索は自分自身の光ではなく、神の光のもとで行われます。ちょうど復活祭のろうそくがイエスの復活を思わせるのと同じです。それが詩篇139篇の祈りです。「神よ、わたしを探って、わたしの心を知ってください。」
3. 完璧主義に陥らずに探す
- 探し終わったあとには、次のような言葉が唱えられます。見つからなかったパン種はすべて、無効で価値のないものと宣言します。それは地のちりのようになりますように。
- 「かけらは念入りに探しますが、そのすべてを見つけなければならないわけではありません。」人の目に見えないものは、無効と宣言されます。これによって、自己吟味が、細かすぎて出口のない完璧主義に陥らずにすみます。
- ダビデは詩篇19篇でこう言います。「だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」
- 18世紀のハシディズムの伝承は、ふくらんだパンと種なしパン(マッツァ)が、水と小麦粉という同じ材料でできていることに注目します。違うのはその状態だけで、一方はふくらみ、他方は平らなままです。ふくらむパン種は高ぶりを、平らなままのマッツァはへりくだりを表します。
4. 偽善のパン種
- イエスは律法学者やパリサイ人に厳しく語ります。彼らは白く塗った墓のようで、外側は美しいが、内側は腐ったもので満ちています(マタイ23:27-28)。
- 山上の説教で、イエスは彼らを偽善者と呼びます。人に見せるために、人前で施しをし、祈るからです。彼らの礼拝はもはや神に向けられたものではなく、自分の評判に向けられています。人々が自分のことをどう思い、どう言うかのほうが、神の望まれることよりも重要になっているのです。
- 説教者は、若いころからこの誘惑に気づいてきました。「わあ、イエスとの歩みがすごいね」とか、「音楽の演奏が素晴らしいね」とよく言われたそうです。彼は打ち明けます。「私もこうしたことと無縁ではありません。」神に仕えるための行いが、人に印象づけるための手段になりうるのです。
- ルカ12章では、何千人もの人々が、互いの足を踏み合うほどに押し寄せています。福音と赦しと新しい出発を告げる、またとない機会です。それなのに、イエスはまず弟子たちに語りかけます。「パリサイ人のパン種に注意しなさい。それは偽善のことである。」
5. 偽善はどのように広がるか
- 偽善は、牧師や教会の指導者だけの危険ではありません。礼拝への忠実さや、台所や喫茶コーナーでの奉仕を人に称賛されたり、「神の人」と呼ばれたりするとき、あなたの心もすぐにそれにとらえられてしまいます。
- しだいに、あなたの献身を他の人がどう思うか、SNSの投稿に付く「いいね」の数のほうが、神においてあなたが何者であるかを神から受け取ることよりも大切になっていきます。
- 「まず自我をふくらませ、それから腐らせていきます。」心は、神からではなく人から、承認と評価とアイデンティティを求めます。それはさりげなく始まり、やがてイエスに向かう内なる方向、神にある平安と喜びを奪い去ります。
- 偽善は人から人へうつります。あなたの友人や祈りのグループ、家庭集会にも広がります。説教者は、ユースグループで皆が奇妙な話し方をするようになった例を挙げます。そのグループの暗黙の決まりになっていた言い回しを、いつの間にか使うようになっていたのです。この仕組みは、悪い方向にも働きうるのです。
6. 教会の中にある罪のパン種
- コリントでは、ある男が父の妻と暮らしており、教会はそれを黙認しています(コリント人への手紙第一5:1-2)。パウロの主な非難は、その個人ではなく、教会の無関心と高ぶりに向けられています。教会は、その寛容さを自由のしるしだと考えていたのです。
- 「少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。」(コリント人への手紙第一5:6)。パウロは教会全体を一つの生地にたとえます。罪は単なる個人的な問題ではありません。共同体に黙認された誤った行いは、やがてその共同体を形づくり、全員にとって当たり前になってしまいます。
- パウロは、悔い改めと、考え方の転換と、はっきりした行動を呼びかけます。古いパン種を取り除き、悪に名前をつけ、目を閉じないことです。
- 説教者は二つの落とし穴を見ています。一方では、居心地のよさや無関心、愛や寛容についての誤った考えから、もはや罪が見えなくなり、それについて語られなくなります。他方では、愛のない厳しさが人を排除し、問い詰め、悔い改めの道に入る時間も余地も与えません。
- 罪に名前をつけることは、教会全体を守り、その人の救いに仕えることになります。その人がイエスとの関係の中で前進するためです。完全に清い教会を見せようとしているのではありません。「そうでなければ、私は今、皆さんの前に立っていないでしょう。」
7. キリスト、私たちの過越:祭りへの招き
- パウロは、この呼びかけを、すでに事実であることの上に据えています。「あなたがたは、パン種のない者なのだから、…わたしたちの過越の子羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」(コリント人への手紙第一5:7)。イスラエルの過越の祭りと私たちの時代を結ぶ、神学的な一本の線があります。
- キリストは、私たちの反抗と自分勝手な道に対する神の裁きを、ご自身で引き受けられました。私たちが十字架で流されたその血に守られ、その赦しを受け入れているので、この裁きは私たちを通り過ぎていきます。
- 「悔い改めと清めは、救いの条件ではなく、救いに対する私たちの応答です。」エゼキエル36章では、神がまず新しい心を与えて清め、そのあとで民は自分の悪い行いを思い出し、悔やみます。キリストは、私たちがまだ罪人であったときに私たちを愛してくださり(ローマ人への手紙5:8)、神の慈愛は私たちを悔い改めに導きます(ローマ人への手紙2:4)。
- 聖化とは、暗い放棄や苦行のようなものではありません。身なりを整え、すてきな服を着るように、祭りへの招きなのです。「だから、わたしたちは、…パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭を守ろうではないか。」(コリント人への手紙第一5:8)。
- その日、教会は聖餐式を祝い、特別に、あえて種なしパンを用いました。説教のイメージが深く心に刻まれるようにするためです。
ポイント
- 生地をふくらませるパン種は、すでに腐敗の始まりです。罪は、まず誘惑し、それから内側から傷めていきます。
- 私たちは神の光のもとでパン種を探しますが、出口のない完璧主義に陥ってはいけません。見えないものは、神が赦してくださいます。
- 偽善とは、人に印象づけるために神に仕えることです。自我をふくらませ、神との関係を腐らせ、周りの人にもうつります。
- 教会では、黙認された罪が共同体全体を形づくります。無関心にも厳しさにも陥らずに、罪に名前をつける必要があります。
- 私たちの過越であるキリストはほふられました。清めは救いの条件ではなく、受けた恵みに対する喜びの応答です。
自分への適用
- あなたの心のどんな隅に、古いパン種が潜んでいますか。古い恨み、赦すことの拒否、正当化している習慣、価値観を損なうメディアの消費、苦々しさ、ねたみ、半分の真実などはありませんか。
- 「神よ、わたしを探ってください」と祈り、自分の完璧主義ではなく、復活の光のもとでこの吟味を行う勇気がありますか。
- 教会での奉仕やSNSでの発信において、いちばん大切なのは何ですか。人の目ですか、それとも神があなたについて語られることですか。
- イスラエルがエジプトのパン種を後にしたように、はっきりと断ち切って手放すべきことが一つありますか。
- 教会として、どんな態度や習慣、話し方が私たちの間に入り込んでいるでしょうか。ただそのほうが楽だからという理由で、何を黙認しているでしょうか。
引用された聖句
- コリント人への手紙第一5章
- 申命記16章1節から3節
- ルカの福音書12章1節
- 箴言20章27節
- 詩篇139篇23節
- 詩篇19篇12節
- マタイの福音書23章27節から28節
- マタイの福音書6章1節から5節
- エゼキエル書36章25節から31節
- ローマ人への手紙5章8節
- ローマ人への手紙2章4節
よくある質問
なぜ聖書は、パン種をしばしば否定的なイメージとして描くのですか。
説教者は、生地をふくらませる発酵が、すでに腐敗の最初の段階だと指摘します。長く置きすぎると、パン種は生地を酸っぱくし、しぼませ、やがて傷めてしまいます。罪も同じように働きます。まず誘惑し、満足を約束することから始まり、それから内側から私たちの価値観や態度や行動を分解していくのです。
ルカ12章でイエスが言われた「パリサイ人のパン種」とは何を意味しますか。
イエスが指しているのは偽善です。つまり、神ではなく他人の目に向けられた敬虔さのことです。イエスはまず弟子たちに警告されました。この危険は宗教的な指導者だけに関わるものではないからです。偽善は自我をふくらませ、神との関係を傷つけ、生地全体にしみ込むパン種のように周りの人へ伝わっていきます。
コリント人への手紙第一5章によれば、救われるために自分を清めなければなりませんか。
いいえ。パウロはコリントの人々に、あなたがたはすでにパン種のない者だと書いています。私たちの過越であるキリストがほふられたからです。悔い改めと清めは救いの条件ではなく、受けた救いに対する私たちの応答です。ローマ人への手紙2章4節が言うように、私たちを悔い改めに導くのは神の慈愛です。