はじめに
「未来のことを考えるとき、あなたの心には何が浮かびますか。」ロンドンのオール・ソウルズ・ラングハム・プレイス教会(All Souls Langham Place)のエグゼクティブ・ディレクター、Wien Fung は、この問いかけから夕礼拝のメッセージを始めました。シリーズ「光の子どもたち」の一回で、この日の聖書箇所は、テサロニケ人への第一の手紙4章13節から5章11節です。
未来がわくわくするものに思える人もいます。ロンドンに着いたばかりの人、学びを始める人、新しい仕事に就く人などです。一方で、未来がぼんやりとしか見えない人もいます。仕事は見つかるだろうか、この国に住み続けられるだろうか、いつか人生の伴侶に出会えるだろうか、といった具合です。人生の道のりをかなり歩んできた人は、退職や衰えていく健康、そして誰がそばにいてくれるのかを思います。そして、避けて通れない問いがあります。愛する人が亡くなるとき、そして私たち自身が死ぬとき、何が起こるのでしょうか。
説教者はこの箇所から三つの真理を引き出します。望みをもって悲しむことができる、恐れずに未来に向き合うことができる、そして神が明日のために約束してくださったことのゆえに、今日を違う生き方で生きることができる、という三つです。
メッセージの流れ
1. 死が自分自身のことになるとき
- 私たちは、死から目をそらすことに長けた文化の中に生きています。若さを保つために多くの力を注ぎ、人生をさまざまな活動で満たします。こうした問いが怖いからです。
- Wien Fung は、幼いころから死についてよく考えていたと打ち明けます。父親は慢性の腎不全を患っており、長年の透析の末に母親が腎臓を一つ提供しました。子どものころ、彼は両親の寝室に入っては、二人の呼吸を見つめ、まだ生きていることを確かめていたそうです。
- 二年前、父親は長い闘病の末に亡くなりました。「それが起こると、死はもはや理論的な話でも神学上の話でもなく、自分自身のことになります。」衝撃、悲しみ、そして去った人が残した大きな空白です。
- テサロニケのクリスチャンたちも、同じ問いを抱いていました。彼らの教会は若く、死についてまったく異なる考え方をもつ世界から生まれたものでした。彼らはイエスの再臨について聞いていましたが、その間に何人かの兄弟姉妹が亡くなっていました。「あの人たちはどうなるのか。何かを逃してしまったのではないか。イエスが戻られるとき、取り残されるのではないか。」
- パウロは、未来についての情報を与えるだけでは終わりません。彼らの今の考え方と生き方を変えようとしています。この箇所で彼は二度、互いに励まし合うように求めています。
2. 悲しんでもよい、ただし望みをもって
- 13節で、パウロは「クリスチャンは悲しんではいけません」とは言っていません。「復活を本当に信じるなら、泣くべきではない」とも言っていません。彼は、「望みを持たない他の人々のように」悲しまないようにと言っているのです。クリスチャンは、悲しみ方が違います。
- 慰めようとして、私たちはときに不器用な言葉をかけてしまいます。「悲しまないで、あの人はもっと良いところにいるよ」「強くならなきゃ、神様には理由があるんだから」。説教者は、遺族に向けて使われる中国語の決まり文句を紹介します。文字どおりには「悲しみを抑えて、変化に適応しなさい」という意味です。善意からの言葉ですが、必ずしも本人が聞きたい言葉ではありません。
- 悲しむ人に必要なのは、決まり文句や説明ではないことが多いものです。そばに座り、耳を傾け、できれば一緒に涙を流してくれる人が必要なのです。
- ラザロの墓の前で、イエスはラザロをよみがえらせることをご存じでした。それでも、マリアたちの悲しみを見て涙を流されました。「神の子が涙を流されたのです。」クリスチャンの望みは、死などたいしたことではないかのように振る舞うことではありません。「死が痛いのは、愛が本物だからです。」
- 夜中に電話を受け、故郷から遠く離れていて間に合わず、葬儀にも出られず、画面越しにお別れを言うしかなかった人もいます。パウロは、その痛みを否定するようには求めていません。悲しみは、もっと大きなものの内側で担うことができる、と言っているのです。
- その土台が14節です。「イエスが死んで復活された。」パウロは、亡くなった信者を「眠っている」人と呼びますが、イエスについては「死なれた」と言います。イエスは死の現実の中に完全に入り、墓に下られ、そして墓はイエスを閉じ込めておくことができませんでした。クリスチャンの望みは、ただの願望ではありません。神がイエスを通して歴史の中でなさったことへの信頼です。
3. 主ご自身が天から下って来られる
- 15節から17節は、主が下って来られること、神のラッパ、キリストにある死者の復活、そして主との出会いを描いています。「これがSF映画なら、高いお金を払ってでも観たいでしょう。」しかし、これはSFでも作り話でもありません。
- クリスチャンは何世紀ものあいだ、出来事の正確な順序について議論してきました。こうした問いは丁寧に学ぶ価値がありますが、そこにこだわりすぎると、パウロが本当に伝えようとしていることを見落としてしまいます。
- 16節にはこうあります。「主ご自身が下って来られる。」強調されているのは、人格的な関わりです。これは王としての到来です。今日、世界が主として認めていないイエスが、完全に現されるのです。
- これは、迫害されたり試練の中にあったりする共同体にとって決定的に大切なことです。この世の一時的な権力は続かないからです。あなたの上司にも、虐げる人々にも、市場にも、政府にも、帝国にも、最終的な権威はありません。死でさえ、最後の言葉ではありません。イエスが主です。
- テサロニケの人々の問いに、パウロははっきり答えます。キリストにあって死んだ人々は、イエスの再臨にあずかれないのではなく、先によみがえるのです。「その人たちは忘れられません。私の父も忘れられません。」
4. いつも主と共に、そして共に
- Wien Fung によれば、メッセージの中心は17節の終わりの言葉です。「こうして、いつも主と共にいるのであろう。」
- パウロは、天の建物のことも、歌のことも、活動のことも、そこでするボードゲームのことも描いていません。もっと大切なことを語っています。私たちはイエスと共にいて、そして私たちは共にいる、ということです。説教者は笑顔で言います。「怖くなるかもしれませんね。『共に』ですよ!」けれども、私たちはイエスのものであり、イエスと共にいるのです。
- 「私たちの望みは、死んだ後にすばらしい場所へ行くことだけではありません。すばらしい方と共にいることです。」その方は、私たちを造り、私たちを知り、私たちのために死ぬほど愛してくださった方です。イエスのものであるなら、死でさえも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。
- 空港の情景を思い浮かべてください。あなたは愛する人を到着ゲートで待っています。扉が開いて、閉まって、出てくるのは違う人ばかり。そしてついにその人の顔が見え、あなたは思わず駆け寄るかもしれません。もうほかのことは何も気になりません。ふたたび一緒になれたからです。
- 「空中で」出会うという表現に使われている言葉は、ギリシャ・ローマの世界では、皇帝や軍事的英雄を公式に迎えるために、市民の代表が町の門から出て行き、その人を町の中へ案内する様子を思い起こさせるものでした。これは、遠い星へ逃げ出す計画ではありません。イエスが再び来られるとき、その民は立ち上がって王を迎え、王が御国を治め、すべてを新しくされるために共に進みます。「強調されているのは、逃避ではなく、案内して共に進むことです。」
- キリストにあって死んだ人々にとって、未来は別れではなく、復活と再会、そして何よりもイエスと共にある命です。これで喪失の痛みがなくなるわけではありませんが、死が最後の言葉ではありません。最後の言葉はイエスのものです。だから18節にあるのです。「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」泣いてもよいのです。誰かをたまらなく恋しく思ってもよいのです。つらい問いを投げかけてもよいのです。イエスはよみがえられたのですから。
5. 恐れずに未来に向き合う
- 二つ目の問いは、イエスはいつ戻られるのか、です。パウロは日付を示していません。説教者は、奥さんがよく夕方にテニスをすると話します。寝る時間になると、娘さんが尋ねます。「ママはいつ帰ってくるの?」だいたい九時か十時ごろだと娘さんは知っていますが、正確な時間を知りたがります。そして、そのたびに二人でこう言って安心し合うのだそうです。「ママは帰ってくるよ。いつかはわからないけど、帰ってくるよ。」
- 「主の日は、盗人が夜くるように来る」(5:2)。ときどき、世界の出来事や中東での最新の紛争から、イエスの再臨の日付を計算したとテレビやインターネットで発表する人がいます。パウロは、そうした憶測へと私たちを招いてはいません。彼の関心は、私たちがいつかを知ることではなく、備えができていることです。
- 「あなたがたはみな、光の子であり、昼の子なのである」(5:5)。これは、クリスチャンが未来のすべてを知っているという意味ではなく、自分が誰のものであり、未来が誰のものであるかを知っているという意味です。未来はイエスのものです。
- 「だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまし、慎んでいよう」(5:6)。パウロが勧めているのは睡眠不足ではなく、霊的な目覚めです。注意を払い、頭をはっきりさせ、目的をもって生きることです。来年五十歳になる Wien Fung は、人生の三分の二を生きてきたと感じています。ロンドンのような都市では、いつも次の締め切りがあり、次のメッセージがあり、次のチャンスがあって、行き先を考えないまま流されてしまいがちです。
- 学生たちには、こう語りかけます。この数年は大切だが、物語のすべてではない。「あなたは、成功するキャリアや、経済的な安定や、周りの期待に応えること以上のもののために造られています。神を知り、神のために生きるために造られたのです。」
- 長年クリスチャンとして歩んできた人にとっての危険は、霊的な安楽です。賛美歌も、聖書の物語も、教会の仕組みも知っているうちに、神が自分の中で、自分を通して何か新しいことをしてくださるのを待たなくなってしまうのです。パウロは言います。目を覚ましなさい。自分が誰であり、誰のものであり、歴史がどこへ向かっているのかを思い出しなさい、と。
- 8節で、パウロは恐れや疑いやパニックではなく、信仰と愛と希望で私たちを武装させます。いちばん暗い時にも神に信頼する信仰、内にこもらず他の人へと向かう愛、未来が見えないときにも私たちを立たせてくれる希望です。
- その理由は9節と10節にあります。神は私たちを怒りに定めたのではなく、「私たちのために死なれた」イエスによって救いに定められたのです。戦争、人工知能、気候変動、生活費の高騰、政治的な不安定。これらは深刻な問題であり、クリスチャンは無視してはなりません。しかし、未来は力のある者たちの手の中にだけあるのではありません。未来はイエスのものであり、私たちの望みは、世界を気にかける勇気を与えてくれます。世界に無関心でいるための言い訳ではありません。
6. 互いに励まし、互いの徳を高める
- パウロは同じ言い方で二度、結んでいます。「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」(4:18)、そして「互に慰め合い、互に徳を高めなさい」(5:11)。彼は人類の歴史で最も大きな出来事について語ったばかりなのに、求めているのは互いに励まし合うことです。聖書が未来について語ることに夢中になるあまり、聖書が今日の私たちに求めていることを忘れてしまいがちです。
- この礼拝の会衆は、さまざまな国、文化、世代から集まっています。数週間だけ滞在する人もいれば、何十年もいる人もいます。友だちになり、やがて卒業して去っていきます。それでも、文化や世代を超える共同体に属するとはどういうことかを学ぶ機会です。それはひとりでに起こるものではありません。互いに場所をあけ合う必要があります。
- 若い人にとって、いちばんの贈り物は、長くイエスと共に歩んできたクリスチャンとの友情かもしれません。失望や、答えられない祈りや、死別を通して、神の真実を知ってきた人です。年を重ねた人は、自分が差し出せるものを過小評価しないでください。あなたの経験は大切で、あなたの祈りも大切で、あなたがそこにいることはさらに大切です。そして年長者も、若い人たちから受け取るものがあります。若い人の問いや、エネルギーや、世界の見方です。
- この望みは、教会の壁の外にいる人たちへのまなざしも変えます。ホームレスの人、奴隷状態や性的搾取の被害者、孤立した高齢者、重圧の下にある家族です。「イエスがすべてを正すために戻って来られるのなら」、苦しみや不正を当たり前のこととして扱うことはできません。今夜寝る場所のない人に無関心なまま、永遠の望みを語ることはできません。
- 私たちが仕えるのは、神の愛を得るためではなく、すでに愛を受けたからです。説教者は、ロンドンをドラマ『ストレンジャー・シングス』にたとえます。表面上はすべてが普通に見えますが、そこには腐敗や不正や抑圧からなる、暗く壊れた「裏側の世界」があります。私たちは、そこで光となるよう召されています。
- 具体的には、こうした奉仕に加わること、教会で苦しんでいる人や孤独を感じている人に気づくこと、去る前の一、二年だけであっても誰かに寄り添うことです。「私たちが築く関係は、たとえ短くても、失われることはありません。」奉仕するのに、人生の次の段階を待つ必要はありません。「あなたは、今この教会に属しているのです。」そして何年も忠実に奉仕してきた人への召しは、あとから来る人たちのために場所をあけ続けることかもしれません。「あなたがたの忠実さは、次の世代の土台の一部です。」
要点
- クリスチャンは悲しんでもよいのです。望みを持たない人々のようには悲しみません。イエスが死んで復活されたからです。
- 私たちの望みの中心は、場所ではなく人です。「私たちはいつも主と共にいる」のであり、そして私たちは共にいます。
- 主との出会いは、治め、すべてを新しくするために来られる王を迎えることです。逃避ではなく、共に進むことです。
- イエスが戻られる日を知る人はいません。大切なのは、備えができていること、目を覚ましていること、信仰と愛と希望を身にまとっていることです。
- 明日への望みは、今日の生き方に表れます。人生の次の段階を待たずに、互いに励まし、互いの徳を高め、苦しむ人々に仕えましょう。
自分に問いかけてみましょう
- 未来のことを考えるとき、あなたの中で大きいのは、わくわくする気持ちですか、不安ですか、それとも悲しみですか。
- あなたの周りに、死別を経験していて、決まり文句ではなく、あなたがそばに座って話を聞いてくれることを必要としている人はいませんか。
- どんな分野で、霊的な安楽に落ち着いてしまい、神が何か新しいことをしてくださるのを待たなくなっていますか。
- この季節、たとえ一、二年しか続かないとしても、別の世代や別の文化の誰と友情を育めるでしょうか。
- 神の愛を得るためではなく、すでに受けたからこそ、今週あなたが仕えられる、孤立した人、苦しんでいる人、忘れられた人は誰でしょうか。
引用された聖句
よくある質問
クリスチャンは、愛する人の死を悲しんでもよいのでしょうか。
はい、悲しんでよいのです。Wien Fung は、パウロがテサロニケの人々に「悲しんではいけない」と言っているのではなく、「望みを持たない他の人々のように」悲しまないようにと言っているのだと指摘します。イエスご自身も、ラザロの墓の前で涙を流されました。死が痛いのは愛が本物だからですが、死が最後の言葉ではありません。イエスは死んで、復活されたのです。
テサロニケ人への第一の手紙4章17節の「空中で主に会う」とはどういう意味ですか。
説教者によれば、パウロは地上から逃れる計画を描いているのではありません。ギリシャ・ローマの世界では、軍事的英雄や皇帝が町を訪れるとき、代表団が門から出て行って迎え、町の中へ案内しました。イエスが再び来られるとき、その民は立ち上がって王を迎え、共に進みます。強調されているのは、逃避ではなく、案内して共に進むことです。
イエスがいつ戻られるのか、知ることはできますか。
いいえ、できません。パウロは、主の日は盗人が夜来るように来ると書いています。Wien Fung は、時事問題から日付を告げる人々に注意を促します。パウロの関心は、再臨の時を見つけ出すことではなく、私たちが備えていること、目を覚まして慎んでいること、そして信仰と愛と希望を身にまとっていることです。