はじめに
「だから、わたしたちは落胆しない。」この日曜日、福岡の油山シャローム教会では、教会の召天者を記念する礼拝が行われています。遠くから、また近くから、ご遺族の方々が集まりました。今年3月に完成した新しい礼拝堂で行われる、初めての召天者記念礼拝でもあります。横田法路師は、コリント人への第二の手紙4章16節から18節から、「見えないものに目をとめ、どんな時にも落胆しない信仰」という題でメッセージを語ります。
師はまず、単純な事実から話し始めます。私たちは誰でも落胆することがあります。いつもではなくても、時にはあります。師ご自身も、ちょうど落胆したところでした。2週間前、道で転んで肩をけがしたのです。この転倒をきっかけに、聖書箇所の3つの節から、落胆しない3つの理由を語り、最後に、このけがから学んだもう一つの教訓を語ります。
これは、体が弱っていくのを感じている人、重すぎる荷を背負っている人、大切な人を亡くして悲しんでいる人のためのメッセージです。そして、もっと大きな問いへと開かれていきます。あなたは永遠をどこで過ごしますか。
メッセージの流れ
1. 京都での転倒
- 2週間前の金曜日、師はセミナーのため京都へ向かいました。片手でキャリーケースを引き、もう片方の手で携帯電話のナビを見ながら、行ったことのないホテルを探していました。
- ホテルの駐車場の車止めに足を引っかけ、体重を乗せたまま肩からアスファルトに倒れ込みました。鎖骨と肩甲骨をつなぐ靭帯が切れ、関節が外れました。
- その前の日曜日、師は腕を三角巾で吊って礼拝に来ていました。関節は開いたままですが、手術はしないことになりました。教会の祈りのおかげで、1週間後の今は、ある高さまで腕を上げられるようになっています。それより上げると、痛みが戻ります。
- 転ぶとき、受け身を取ろうとして手が前に出ませんでした。「ああ、こういうことか」と思ったそうです。年を取ると、頭と体がうまく連動しなくなると言います。師は、少し落胆したと正直に話します。
2. 外なる人は弱り、内なる人は新しくされる
- 「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(16節)。「なんという慰めでしょう」と師は言います。
- 若いころは、体は思いどおりに動き、記憶も判断も鋭いものです。年月がたつと、思い出すのに苦労し、すぐには決められなくなり、体もついてこなくなります。こうしたことのすべてが、私たちを落胆させることがあります。
- 内なる人とは、神への信仰、心にある愛、優しさ、誠実さ、忍耐のことです。外からは見えません。けれども、外側が衰えても、内側は新しくされ続け、成長し続けます。
- 「それは素晴らしい希望です。」日ごとに新しくされるとは、内側が成長し続けることだと師は説明します。
3. 限界は神からの贈り物
- 京都で、師はある人に会いに行き、こう言われました。「限界は神様からの贈り物です。」師はそれまで、そのように考えたことがありませんでした。師にとって限界とは、もう終わりだ、もうできない、という否定的な思いを連想させるものでした。
- 第一の理由。限界は私たちを健全に保ちます。私たちは無理をして、限界を超え、やりすぎる傾向があります。人間として、また自分の年齢として、限界があることを認めるとき、私たちはよりバランスの取れた者になります。
- 第二の理由。神にも限界があるのではないかと、すぐに思ってしまいますが、そうではありません。人間の限界を認めるとき、神の無限、偉大さ、力、美しさがよりはっきり見えてきます。神を待ち望み、信じるようになり、神の恵みを知るのです。
- 5つのパンと2匹の魚を持っていた少年の例があります。5千人、おそらく1万人を超える空腹の人々を前に、それでは役に立たないと言った人がいました。5つのパンと2匹の魚では、5人、せいぜい10人分です。それが限界です。けれどもイエスのもとに持って行くと、そのわずかなもので5千人以上が養われ、イエスの力がいっそうはっきりと現れました。
- 第三の理由。自分の限界を認めると、他の人のための場所が生まれます。「いつも踏ん張らなければならない」というのが唯一の道ではありません。「ここが私の限界です」と認めるとき、それまで気づかなかった他の人たちの素晴らしい働きに気づき、神が私たちの内で成し遂げておられることにも気づきます。
- この聖書箇所の最初の教訓。外なる人は衰えますが、限界は贈り物です。衰えさえも「神からの賜物」なのです。
- このけがは、師に、内なる人の成長を大切にし、それを喜ぶことを教えました。体を手入れしたい気持ちもありますが、アンチエイジングは衰えを遅らせることはできても、止めることはできません。一方、内側の成長は、地上の命の終わりまで止まりません。それは一生の喜びです。内側が造り変えられていくこの道を歩むのです。
4. 軽い患難と永遠の重い栄光
- 「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(17節)。これが、落胆しない第二の理由です。
- これを書いたのは使徒パウロです。その生涯は、苦しみの連続のようでした。師はコリント人への第二の手紙11章を読みます。労苦、投獄、むち打ち、死の危険。
- パウロは、ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを五度受けました。師は説明します。四十回のむち打ちは命を奪うことがあったので、死の一歩手前で止めたのです。打ち、傷つけ、苦しませて、そこまで至らせたということです。
- 「ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。」
- 「このうちの一つか二つがあなたに起こったら、何と言うでしょうか。」おそらく、どうして私が、私の人生は苦しみばかりだ、と言うでしょう。パウロは十以上を経験しました。それでも彼は「軽い患難」と言います。聞いてみたくなります。どこが軽いのですか。
- 答えは、その節の続きにあります。パウロはもっと先を見ていました。この苦しみが、比べものにならない永遠の栄光を生み出すことを知っていました。それと比べれば、彼の試練は軽いものになったのです。
- 師は一つの図をスクリーンに映します。左側では、ある人が多くの重荷を負い、地上の過ぎ去る報いしか受けません。右側にも、過ぎ去る報いはありますが、その先に、比べものにならない永遠の報いがあります。それを知れば、同じ荷物が軽くなります。
- 「神の言葉を信じて生きるとは、こういうことです。」私たちも、病気や思いがけない重荷を負っていますし、その重さはおそらく変わりません。しかし、神がどんな報いを用意しておられるかを知っているので、パウロとともに、この試練は軽いと告白できるのです。
- 転倒の後、鎮痛剤を飲んでも痛みは激しいものでした。そのとき師は、教会のある姉妹を思い出しました。重い病を患い、今は主のもとにいるその姉妹を、師はよく訪問していました。
- 痛みは来るのですが、師が訪ねると、その姉妹は「先生、大丈夫です」と言いました。痛いとき、イエスの痛みは自分の痛みとは比べものにならない、イエスは自分のために苦しまれたのだと思ったそうです。それを思い出して、自分の痛みに耐えていました。
- 「すごいことだ」と師は思いました。自分も痛いけれども、イエスは自分のために十字架に釘付けにされて、どれほど大きな苦しみを負われたことか。そう思うと、勇気が与えられます。
- それだけではありません。神が用意しておられる報いは、比べものにならない、永遠の重い栄光です。だからこそ、地上でこの重荷を負いながらも、それでも軽いと言うことができるのです。
5. 見えないものに目を注ぐ
- 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(18節)。これが第三の理由です。
- 現代人の困難の多くは、ここから来ています。見えるものがすべてだ、この世の時間がすべてだと思ってしまうのです。だから試練が来ると、耐えられないと思ってしまいます。
- 私たちの目が、見えないもの、見えない世界、見えない神に開かれるとき、この世界は違って見えてきます。
- 見えないものとは、まず神、次に神への信仰、そしていつか私たちが行く天国です。肉の目には見えないので、どこにあるのだろうと思います。しかし神は、み言葉によってはっきりと教えておられます。天国は存在し、イエスがそこで私たちを迎えてくださると約束しておられます。これを見る人は、生き方が変わります。
6. 平安のうちに終わる走り
- 会衆の前には、この1年に亡くなった方々の写真が並んでいます。それぞれの人生には、喜びも悲しみもありました。しかし聖書ははっきりと教えています。イエスを信じる者は天国に行くのです。
- それらの写真の中に、師のお父様の写真があります。4月に主のもとに召されました。病気のため、体のすべての機能を失い、寝たきりのまま人生を終えました。あれほど元気だった人でした。
- 往診に来た医師は、これほど穏やかな人を見たことがないと言いました。なぜこの平安があったのでしょうか。師にとって、答えは一つです。「父は自分がどこへ行くのかを知っていた。」
- 献身的に看病した師のお姉様は、お父様が息苦しいときに、こう声をかけました。「お父さん、もう少し、もう少し、もうすぐゴールだよ。」お父様はマラソンの最後のカーブを走っていたのです。ゴールでは、イエスが義の冠を授けようと待っておられました。
- お姉様はユーモアを交えて、さらにこう言いました。お父様の信仰の師や、先に天に召された他の愛する牧師たちも、走りの終わりでお父様を待ち、手を振って励ましているよ、と。そして、その人たちがお父様の名前を呼ぶ様子をまねてみせたそうです。こうして、イエスが迎えてくださること、信仰の先輩たちが待っていることを知って、お父様は最後の直線を走り抜けました。「なんと祝福された人生でしょう」と師は言います。
- 見えるものは過ぎ去ります。それよりも大切なのは、神と天国です。この人生は準備のようなものです。永遠から見れば、80年は一瞬で過ぎます。「80年で全部終わりだとしたら、なんと悲しいことでしょう。」けれども私たちは永遠に生きるのです。問題は、それをどこで生きるかです。
- 神の願いは、私たちが永遠を天国で生きることです。そのために、神はイエス・キリストを地上に遣わされました。イエスを信じる人は誰でも天国に行けます。写真が飾られている先輩方も、そのようにしてゴールにたどり着きました。
- 師はお集まりのご家族に語りかけます。ご家族もまたイエスを信じて、ともに天国に行くことを願っておられます。何かをしなければならないということではありません。ただこう言えばよいのです。「イエス様、あなたを信じます。私を天国に導いてください。」聖書は、イエスに信頼する人は誰でも迎えてくださると約束しています。
7. 携帯電話を手放す
- 最後に、師は転倒の話に戻ります。振り返って考えるうちに、このけがにはもう一つ理由があったと気づきました。師はキャリーケースと携帯電話を持っていました。転ぶとき、携帯電話を手放しさえすれば、手で体を支えられたはずです。しかし師は、それを握ったままでした。
- 「今思えば、愚かだったと思います。」携帯電話は買い替えられます。もし車道に倒れ、そこへ車が来ていたら、「そのまま天国に直行だった」でしょう。幸い、車は来ませんでした。なぜ手放さなかったのか、師は今も不思議に思っています。
- 私たちもまた、握っているものを手放せずに、もっと大切なものを失うことがよくあります。天国についてもそうです。少しの自尊心、高慢、プライドを手放さないのは、それが大切だと思っているからです。
- 永遠のいのちは、携帯電話や自尊心、地位、他人の目よりも尊いのではないでしょうか。もしこのようなものがあなたを引き止めているなら、師はそれを手放し、イエスを受け入れ、いのちを受け取るよう勧めます。
- 師は祈りで締めくくります。内なる人が最後まで成長し続けますように。私たちの目が、用意されている栄光へと上げられますように。十字架と比べれば、私たちの試練は軽いと言えますように。そしていつの日か、天国で愛する人々に再会できますように。
ポイント
- 外なる人は弱っていきますが、内なる人、つまり信仰、愛、忍耐は、人生の最後の日まで成長し続けることができます。
- 限界は神からの贈り物です。私たちをバランスよく保ち、神の力を現し、他の人のための場所を空けてくれます。
- パウロが自分の苦しみを軽いと呼ぶのは、神が用意しておられる永遠の重い栄光、そしてイエスが十字架で苦しまれたことと比べているからです。
- 見えるものは過ぎ去ります。神と天国に目を向ける人は、生き方も、試練への向き合い方も変わります。
- 天国に行くために、何かを成し遂げる必要はありません。イエスを信じ、自分を引き止めているものを手放すことです。
個人への適用
- あなたの体、記憶、年齢のどんな限界を、今、敗北のように感じていますか。それはどのようにして贈り物になり得るでしょうか。
- 今年、あなたの内なる人の成長はどのようなものですか。信仰、愛、忍耐は成長しましたか。
- 今日、どんな重荷が重すぎると感じていますか。それを永遠の重い栄光の隣に置くと、何が変わりますか。
- あなたは、永遠をどこで過ごすかを知っていますか。すでにイエスに「あなたを信じます。私を天国に導いてください」と言いましたか。
- あなたはどんな「携帯電話」を手放せずにいますか。自尊心、プライド、地位、他人の目でしょうか。
引用された聖句
よくある質問
「内なる人は日ごとに新しくされていく」とはどういう意味ですか。
横田師によれば、内なる人とは、神への信仰、愛、優しさ、誠実さ、忍耐のことです。外からは見えません。体や記憶、判断力は年とともに弱くなりますが、内側は地上の命の終わりまで成長し続けることができ、その成長は喜びとなります。
パウロはどうして自分の苦しみを「軽い」と呼べるのですか。
コリント人への第二の手紙11章で、パウロは自分が経験した投獄、むち打ち、難船、危険を挙げています。それでも彼がそれを軽いと呼ぶのは、もっと先を見ていたからです。これらの患難は、比べものにならない永遠の重い栄光を生み出します。その栄光と、イエスが十字架で苦しまれたことと比べれば、それらは軽いものになります。
このメッセージによれば、天国に行くには何をすればよいですか。
説教者は強調します。何かを成し遂げる必要はありません。イエスに「あなたを信じます。私を天国に導いてください」と言えばよいのです。また、永遠のいのちを受けるために、自分を引き止めているもの、つまり高慢、プライド、他人の目を手放すようにとも勧めています。