はじめに
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。この御言葉から、日本の米沢興譲教会の牧師、田中信生師が「人生を変える出会い」について語ります。
師は笑顔で語り始めます。会衆の中には、独身で素敵な出会いを待っている人もいます。また、プロポーズの日に戻って「ノー」と言いたい人もいるでしょう、と冗談を交えます。そして確信を語ります。人生は出会いで決まる、と。さらに、様々な形で教会に仕えてくださった方の名字が、まさに「出会い」を意味する名前だったことにも触れ、人生そのものが出会いにほかならないかのようだと語ります。
メッセージの前に、教会の一人の母親が証しをしました。自分はこういう母親でなければならない、娘はこうならなければならない、と自分に言い聞かせ続け、ついに体が反応してしまったという証しです。この証しが、牧師の語る話の糸口となります。私たちは生きている人を「物」にしてしまうこと、復活のイエスが私たちのうちに命を湧き上がらせてくださること、そしてこの出会いが、もう一つの出会い、すなわち自分自身との出会いへと導くことが語られます。
メッセージの流れ
1. 出会いとは、命が命に語りかけること
- 「出会いとは、命が別の命と語り合うこと、命が別の命と響き合うことです。」
- 悲劇は、いちばん身近な人たち、子どもや孫から始まります。その命に語りかけているつもりで、実は「物」に話すように話しています。「いい学校に行きなさい。いい成績を取りなさい。隣の子を見て、あの子のようになりなさい。」物として育てられた私たちも、やがて物になってしまいます。
- 物は動きません。けれども命は川のように流れ、絶えず動いています。動くことは都合が悪いので、私たちはそれを止めようとします。命は互いに響き合うために造られたのであって、支配し合うためではありません。それなのに、私たちは相手をコントロールしようとします。「こうしなさい、ああなりなさい。」
- 証しをした母親が体験したのも、まさにこのことでした。娘が自分の思う「こうあるべき姿」になるよう望むあまり、娘を物のように扱っていたのです。何事も思いどおりにならず、彼女の体はしつこいかゆみで反応しました。
- 「心は嘘をつくことがあっても、体は正直です。」食事に誘われて、口では「もう食べました」と答えても、お腹が鳴ってしまうようなものです。
- 牧師は車にたとえます。車はガソリンで走ります。ガソリンが高いからといって水を入れても、決して前には進みません。そんなことをする人がいたら笑うでしょう。けれども、それが私たちの姿なのです。命は命によって養われるのに、私たちはそれを目に見えるもの、測れるものに置き換えています。まずお金、そして健康、いい学校、いい会社。
- 今の時代は、人間がつくった人工知能が人間をコントロールし始めるところまで来た、と牧師は指摘します。いちばん深刻なのは、支配されていることにさえ気づかなくなっていることです。
- 師はヤコブの言葉を引用します。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む(ヤコブ書1章15節)。命がものへと向けられてしまうと、体は動き続けていても、あらゆる試練を宝に変えるはずのものが止まってしまいます。
- 人間の心の弱さがどのように利用されるかを示すために、田中師はよく知られた話を語ります。AとBという二つの国が隣り合っています。Aは戦国時代の日本の武将のように、Bを征服しようとします。そして、大切なのは敵軍の大将を倒すことだと知っています。
- 師は、織田信長が自軍より大きな軍勢に正面から挑んでも勝てなかったはずで、敵の大将の首を狙ったのだと語ります。けれどもA国は、Bの大将がどこにいるのか知りません。
- そこでAは、Bの領地の目立つ場所に、石でできた大きな牛を三頭置きます。そのどれの後ろにも、糞のような形にした金を置いておきます。
- Bの人々は驚きます。隣の国では、この像が金を生む、と。車も荷車もないまま、重い像を人目につかない場所まで引きずっていきます。踏み固めた地面には、深い轍が残ります。
- Aはその跡をたどるだけです。大将を見つけ出し、国を奪い取ります。
- 牧師は微笑みながら、この話をおもしろくないと思っているような顔の人もいれば、深く考え込んでいる人もいる、と述べます。教訓はここにあります。私たちが欲しがるものは、すべてを失う場所へと私たちを導くのです。
2. イエスは、湧き上がって止まることのない命
- 反対に、本物の命につながっているなら、どんな状況も宝になり、どんな試練も変えられます。命は命によってよみがえります。
- この命は一時的なものではありません。心臓が動いて、いつか止まるだけのものではありません。あなたの命は父と母から、父母の命は祖父母から、そうしてさかのぼり、天と地とすべてのものを造られた神にまで行き着きます。
- 人々がそれを理解しなかったので、この神は人の姿をとられました。それがイエス・キリストです。そしてイエスは言われました。わたしは命であり、真理である(ヨハネによる福音書14章6節)。
- ただ、こう言えばよいのです。「イエスさま、あなたを愛しています。私の人生の第一の場所をあなたに差し上げたいのです。」イエスを信じるとき、命が泉のようにあなたのうちに湧き上がり、永遠のものだから決して涸れることがありません(ヨハネによる福音書4章14節)。
- この泉は、あなた自身を潤すだけではありません。隣人をも潤します。
3. ペテロとヨハネ:イエスと一緒にいてもつながっていなかった二人が、復活の主によって変えられた
- 牧師は使徒行伝3章と4章の背景を振り返ります。十二人の弟子たちはイエスの命を共にしていました。今日、多くの人が言います。「イエスさまが隣を歩いておられたら、苦もなく信じられるのに。でも、それは二千年前のことです。」どう答えればよいのでしょうか。
- ペテロとヨハネは、弟子たちの中でも特に目立つ二人です。ペテロは自分こそ第一だと思ってさえいました。けれども、イエスがそこにおられたとき、命は目の前にあっても、泉のように二人のうちに流れ込んではいませんでした。まだそのつながりがなかったのです。
- 命の通り道をふさぎ、詰まらせているもの、それを聖書は罪と呼びます。イエスは全人類のため、そしてあなたのために、それを取り除きに来られました。十字架につけられ、死んで葬られ、そしてよみがえられたのです。ペテロとヨハネは復活の主に出会うことで、この命を受け、その命が周りのものを変えました。
- 生まれつき足の不自由な人が、神殿の近くで物乞いをしていました。海外の観光地で見かけるような光景です。当時、それが彼の唯一の生き方でした。ペテロは言いました。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒行伝3章6節)。すると、その人は立ち上がりました。
- 「一緒にいても、全然チャンネルが合っていなかった。」弟子たちはイエスを目の前にしながら、つながってはいませんでした。復活のあと、イエスの姿が見えなくなってから、彼らはイエスを信じ、頭の中や飾りとしてではなく、人生のすべてにイエスを迎え入れました。彼らは変えられ、彼らを通して奇跡が起こりました。
- 当時の宗教指導者たちは驚きました。民衆は、この人たちがどんな人かを知っていました。無学な漁師たちです(使徒行伝4章13節)。ヨハネは、すぐに感情を爆発させるので、イエスから「雷の子」とあだ名をつけられていました(マルコによる福音書3章17節)。ペテロはどこまでもイエスについていくと約束しながら、十字架の時には震え上がり、「そんな人は知らない」と言い、みな散り散りになりました。
- 「イエスさまがおられた間、彼らはイエスを見て、触れることができ、そして変わらないままでした。」復活のあと、彼らは命の出会いを体験しました。同じことがあなたにも差し出されています。見ることも触れることもなくても、「まことなるお方を信じます」と言って、その名を呼ぶことができるのです。
- 牧師はこれを霊的であると呼びます。自分をばらばらの部品の寄せ集めとして理解するのではなく、全体から、命から理解することです。これがメッセージの中心です。「主よ、よくわかりませんが、あなたをお迎えします」と言うその時、命がつながり、あなたを変え、あなたを通して周りの人も変わっていきます。
4. 復活の主は、すでにあなたのそばにおられる
- ある母親が、息子からスマートフォンをもらいました。ある日、彼女は尋ねます。「私の電話はどこ?」息子は答えます。「お母さん、耳に当ててるよ!」「見えなかったのよ!」会場は笑い、牧師は問いかけます。いったい、誰のことを話しているのでしょうか。
- 師は、発展途上の国から来て、近代的な国で驚いた男性の話もします。彼の故郷では、バケツを持って川まで下りなければなりません。ところがその国では、蛇口をひねれば水が出ます。男性は蛇口を買って、大喜びで帰りました。
- 別のときには、洗濯物と洗剤を入れる白い箱を見ます。ボタンを押すと回って、洗って、乾かしてくれます。彼はそれを一つ持ち帰り、村中の人を集め、水を入れてボタンを押しました。何も動きません。「なんて間抜けなんだ」と人は言うでしょう。牧師は答えます。「それはあなたです。」
- 水道管のない蛇口、電気の来ていない機械。これは、命をものに置き換える人の姿です。この置き換えを、キリスト教は罪と呼びます。偽りを真実と取り違えることです。機械は、電流が流れてはじめて動きます。
- その電流が、イエス・キリストです。すべてのものの創造主であり、私たちの心の負債をご自分の命で支払い、死んで葬られ、そして生きておられるお方です。「よくわからない?大丈夫です。最初は、それでまったくかまいません。」
- 牧師は、ごく簡単な祈りを勧めます。「神さま、あなたはキリストという名だと聞きました。キリストさま、これが私の状況です。私はどうしてもこの電流、永遠の命、変わらないものが必要です。あなたの名を呼ぶと、それが私のうちに流れ込むと聞きました。どうぞお願いします。」すべてを知る必要はありません。実際にやってみて、体験を通して分かるのです。
- 師は冒頭の証しに戻ります。皮膚の病気がすべてストレスから来るわけではない、と師は断りますが、多くはそこから来ています。この母親は、診察を受け、治療法を試しましたが、治りませんでした。彼女は「私はだめな人間、私はだめな人間」と繰り返していました。神の声を聞いたとき、自分を責めなくていいのだと悟りました。自分を責めるそのただ中に、キリストが共におられて、「そのままでいいのだよ」と語っておられたのです。
- この「そのままでいい」は、あなたがすること、しないこと、いわゆる「doing」についてのものではありません。あなたの存在、あなたの命についてのものです。成功しても、しなくても。
- 起こることはすべて、最善のためのプログラムの一部だ、と師はつけ加えます(ロマ人への手紙8章28節)。試練が深いほど、希望の頂は高くなります。
5. イエスとの出会いは、自分自身との出会いへと導く
- 「いちばん大切な出会いは、まことなるものに出会うことです。まことなるものとは、イエス・キリスト、聖霊、御言葉です。」そしてこの出会いが、もう一つの出会いを開きます。自分自身に出会うことです。
- 「多くの人は、七十年、八十年、百二十年と生きて、一度も自分自身に出会わないまま人生を終えます。」すばらしいのは、まさに自分自身に出会うことだ、と師は語ります。
- それはどのように始まるのでしょうか。誰かを見て、いらいらします。「なんて短気な人だろう!」実は、その人を見て呼び覚まされているのは、あなた自身の短気なのです。短気は、あなたのものです。こうした言葉に耳を傾けるうちに、私たちは「もう一人の自分」の姿をちらりと見るようになり、やがてそれと付き合い、関心を持ち、はっきりと見えるようになっていきます。
- 幸せは、お金や、病気の癒やし、子どもたちのいい学校に尽きるものではありません。「それもいいことです」。けれどもそれらは物であり、物は過ぎ去ります。永遠の命に出会った人は、勝っても負けても、病気でも健康でも、しっかり立っていられます。
- もちろん私たちは、病気より健康を、貧しさより豊かさを好みます。「私たちは人間ですから」。けれども、少しずつ分かってきます。病気の中でしか出会えない喜びがあり、嵐のただ中でしか味わえない人生の真実があることを。
- イエスはご自分が来られた理由を語られました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカによる福音書19章10節)。牧師にとって、イエスは自分を見失った人を捜しに来られます。その人が自分を見いだして、どんな状況でも「これでいい」と生きることができるようにするためです。
- この言葉の直前に、ザアカイがいます(ルカによる福音書19章1-10節)。取税人のかしらで、占領国のために税を集め、その途中で自分の懐にも入れていました。彼は人々から軽蔑されていました。お金も、部下も、ごちそうもありましたが、満たされてはいませんでした。
- 背の低い彼は、イエスが通られるのを見ようと、いちじく桑の木に登ります。木の下に来られたイエスは、彼の名を呼びます。「ザアカイよ、おりてきなさい。そのままのあなたで。きょう、あなたの家に泊まることにしている。」ザアカイは驚きました。「彼は命の出会いをした」のであり、その人生は変えられました。
6. 「もう一人のあなた」に語りかける:あなたは神の作品
- 牧師は、最前列に座っている一人の教師にあいさつします。長年教会の歩みに寄り添ってきた方で、最初は師の開く対人援助の学校の生徒、のちに講師になりました。前日、教会の責任者たちが皆、同じことを口にしていました。この人は実年齢の半分に見える、と。
- この方は、長い間、聖書を頭で学んできたと打ち明けました。やがて、復活のキリストが自分のそばで生きておられることを、心の深いところで悟ったのです。今では、公的機関や企業に向けて、組織のつくり方についての研修を行っています。
- こうした研修は評価されます。参加者は変わったか。会社に違いが見えたか。何も変わらなければ、講師は呼ばれません。ところが、この方は何度も招かれています。昔は有名な名前があれば十分でした。「今日では、人は結果を見ます。」
- クリスチャンも同じです。大切なのは「クリスチャン」というバッジではなく、「あなたのような人になりたい」と言われることです。そのためには、自分自身に出会わなければなりません。
- 牧師は一人称と二人称を区別します。一人称はこう言います。「私は大した者だ。みなさんはどう思いますか。」自分の周りをぐるぐると回るだけです。自分自身に出会うとは、二人称に語りかけること、あなたのうちにいる「あなた」に語りかけることです。神の作品であり、復活のキリストが共におられる、その存在に。
- 今日では、自己肯定感がよく語られます。「私はすごい、私は神だ」と自分に言い聞かせ続け、結局は崩れてしまう人もいます。結果は嘘をつきません。祝福は、自分を中心だと思わず、自分のうちにある神の作品に向かって、こう語りかけるときに訪れます。「私は足りない者ですが、あなたはすばらしい。」
- 師は、2022年のウィンブルドンのテニスの話をします。準々決勝で、ノバク・ジョコビッチは最初のセットを落とし、観戦者たちは、若くて才能ある相手に負けると見ていました。休憩中、彼はロッカールームへ行き、その後、試合をひっくり返しました。牧師の語るところによれば、ジョコビッチは、「私は強い」と繰り返してはいけない、そうすると負けるのだ、と説明したそうです。鏡の前で、彼は自分にこう言ったといいます。「私は大した者ではない。あなたはすばらしい。」
- 「クリスチャンの言葉で言うなら、あなたは神の作品であり、復活のキリストがあなたと共におられる」(エペソ人への手紙2章10節)。「私がどんなにすごいか見てください」と言う人は、しばしば自信に欠けています。よく見られたくて、自分を守ろうとしているのです。この「あなたはすばらしい」は、個人的な願いでも、世間の評価でもありません。永遠のメッセージであり、あなたが何をするかにも、貧しさにも、病気にも左右されません。
- そこから離れていることは、どうすれば分かるのでしょうか。「平安がなくなります。」逆境が来ると、あなたは押し流されます。必要なのは、二人称で生きること、鏡の前で、あなたという神の作品に「あなたはすばらしい」と語りかけることです。すべてを一人称に引き戻し、他の人を物として扱うと、ぐるぐる回るだけになります。
- 「この世界は存在するでしょうか。はい。それを体験できるでしょうか。あなたはすでに体験しています。」もし感じられないとしたら、それはこの豊かな世界があまりに当たり前になっていて、気づかれないからです。
7. おいしいものを探すのをやめて、味わうことを学ぼう
- 「今日、人々はますますおいしいものを探しています。おいしいものを探しているから、何を食べても味気なく感じるのです。」大切なのは、おいしいものを食べることではなく、何を食べても味わって食べることです。
- 師は、会場の誰かの反応を想像します。「じゃあ、味わわせてください。」けれども、それをするのはあなた自身です。おいしいものを探していた時代に別れを告げ、味わうことを学びましょう。
- 具体的には、二人称で生きること、円の周りではなく円の中心を見ることです。よく分からなければ、イエスの名を呼んで、こう言ってください。「ありがとう、あなたが私と共にいてくださる。」「それだけです。それで十分です。」
- 牧師は、これを味わい、一週間を通して繰り返すよう勧めます。仕組みの分からない機械のように。「ここを押して、これを言う」と、それだけで一つの世界が動き出します。
心にとめたいこと
- 出会いとは、命が命に語りかけることです。相手や自分自身を、コントロールする対象としての物にしてしまうと、出会いは死んでしまいます。
- 命をお金や学歴や成功に置き換えるのは、燃料タンクに水を入れるようなものです。聖書はこれを罪と呼びます。
- ペテロとヨハネが変えられたのは、イエスを見たからではなく、復活の主に出会ったからです。主は、あなたが見えなくても、今日あなたのそばにおられます。
- キリストとの出会いは、自分自身との出会いへと導きます。「私は大した者だ」と繰り返す代わりに、あなたという神の作品に「あなたはすばらしい」と語りかけるのです。
- その実は、逆境のただ中での平安に表れます。すべてを理解する必要はありません。イエスの名を呼び、共にいてくださることを感謝しましょう。
個人的な適用
- 家族の中で、あなたの命を相手の命と響き合わせる代わりに、「こうなりなさい」と言ってしまいがちなのは誰に対してですか。
- あなたは命の代わりに、どんな「もの」を置いていますか。お金、健康、子どもの成功、あなたが見せているイメージでしょうか。
- あなたは、十字架の前の弟子たちのようにイエスの近くにいるだけですか。それとも、復活のあとの弟子たちのようにイエスにつながっていますか。「すべては分かりませんが、あなたをお迎えします」と、素直に祈ってみませんか。
- 最後に誰かにいらいらしたとき、そのいらいらはあなたの何を表していましたか。
- 今週、毎朝鏡の前で「あなたは神の作品、復活のキリストがあなたと共におられる」と自分に言えますか。
引用された聖句
- 使徒行伝4章12節
- 使徒行伝3章1-10節
- 使徒行伝4章13節
- ヤコブ書1章15節
- ヨハネによる福音書14章6節
- ヨハネによる福音書4章14節
- マルコによる福音書3章17節
- ロマ人への手紙8章28節
- ルカによる福音書19章1-10節
- エペソ人への手紙2章10節
よくある質問
田中信生師の言う「出会い」とは何ですか。
田中信生師にとって、出会いとは、命が別の命に語りかけ、響き合うことです。相手を、コントロールしたい物として扱ってしまうと、出会いは失われます。「いい学校に行きなさい、いい成績を取りなさい、あの子のようになりなさい。」命は川のように流れ、支配しようとはしません。
なぜペテロとヨハネはイエスの復活のあとで変わったのですか。
イエスが共に歩んでおられた間、ペテロとヨハネはイエスを見て、触れていましたが、その命に本当につながってはいませんでした。ペテロはイエスを否んだほどです。十字架と復活のあと、二人は生きておられるキリストに出会いました。その命が二人を通して流れ、生まれつき足の不自由な人が、イエスの名によって立ち上がりました(使徒行伝3章と4章)。
このメッセージで言う「自分自身に出会う」とはどういう意味ですか。
田中信生師は、一人称(「私は大した者だ、私を見て」)と二人称を区別します。二人称とは、「もう一人のあなた」、神が造られ、復活のキリストが共におられるその存在に語りかけることです。その人に「あなたは神の作品、あなたはすばらしい」と語りかけること、それが自分自身に出会うということです。その実は、試練のただ中でも平安に表れます。