はじめに
神はイエス・キリストにあって、あなたに永遠のいのちを与えてくださいます。この永遠のいのちとは、単に終わりのない存在ということではありません。御父との深い愛の関係に入ることです。そしてもしあなたがイエスを信じているなら、このいのちはすでにあなたに与えられています。そこでヨハネ12章が投げかける問いが切実なものとなります。今日、あなたは与えられたいのちを何のために使っていますか。
この章は、わたしたちをベタニヤへ、そしてエルサレムへ、十字架の前のイエスの最後の公の言葉へと導きます。それぞれの場面で、人々はキリストにさまざまな反応を示します。ある人は自分の持てるものすべてをイエスの足もとに注ぎます。ある人は計算をします。ある人は自分の立場を失いたくないために信じることを拒みます。そして、あなたはどうでしょうか。
自分の状況を正直に見つめることは、痛みを伴うことがあります。自分にできないこと、まだ理解できていないことを見るのは、心地よいことではありません。しかしそれは祝福です。なぜなら、神はまさに「うまくいかないあなた」を愛しておられ、あなたをそれができる者へと変える力を持っておられるからです。そこにこそ、信仰は生まれるのです。
ヨハネ12章の構成
1. ベタニヤにて:イエスに仕える三つの姿(1〜11節)
過越の祭りの六日前、イエスは、ご自分がよみがえらせたラザロのいるベタニヤに来られます。食事が用意されます。三人の人物が登場し、それぞれが自分なりの仕方でイエスに仕えます。
マルタは食卓で給仕します。ラザロはイエスとともに席に着いています。マリヤは非常に高価な純粋なナルドの香油(ローマの一リブラ近く、およそ一年分の給料に相当します)を取り、イエスの足に注ぎます。家は香油の香りでいっぱいになります。
この三人のうち、だれかがほかの人よりも霊的だというわけではありません。それぞれが、自分に与えられたものを用いて、キリストへの感謝を表しています。マルタは自分の手で仕えます。ラザロは、ただイエスとともにいることを選びます。マリヤは、イエスがだれであるかを理解したがゆえに、ためらうことなく自分の最も貴重なものを差し出します。
マリヤは計算しません。「これは多すぎる」「少し取っておこう」「こうすべきでは……」とは考えません。キリストに仕えるとは、こういうことです。それは重苦しい義務ではなく、あふれ出る感謝なのです。もし奉仕することがつらく、義務的で、いらだたしいものになっているなら、それはもう感謝ではなく、義務感になっています。そしてそれは、あなたがまだキリストがあなたのためにしてくださったことを、十分に量りきれていないことを示しています。
ユダは抗議します。「なぜこの香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ヨハネはこう説明を加えます。ユダは貧しい人々のことを心配していたのではありませんでした。彼は金入れを預かっていて、そこからくすねていたのです。彼の心にはある裂け目(お金への執着)があり、悪魔はそこに入り込みました。処理されずに習慣化した罪は、敵がやがて利用する扉を開いてしまうのです。
イエスはマリヤをかばわれます。「彼女のするままにさせておきなさい。彼女は、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」あなたがキリストに捧げるものは、たとえほかの人がそれを無駄だ、取るに足らない、やりすぎだと思ったとしても、神はそれを喜んで受け取ってくださいます。神は決して「それだけか」とは言われません。
2. エルサレム入城:メシヤとしてご自分を示されるイエス(12〜19節)
翌日、群衆はしゅろの枝を手に取り、イエスを迎えに出ます。人々は叫びます。「ホサナ、主の御名によってきたる者、イスラエルの王に、祝福あれ。」これは詩篇118:25〜26、ゼカリヤ9:9(ろばの子に乗った謙遜な王)、そしてダニエル9:25〜26の預言的な暦の成就です。
なぜ群衆はやって来るのでしょうか。ほかの人々が自分の見たことを証ししているからです。ラザロがよみがえりました。人々はそれを語り伝えます。そして、四日間死んでいたこの人物がイエスの隣で食事をしているのを見ようと、好奇心に駆られた人々が押し寄せます。ラザロは、ただ自分の席で食事をするだけで、証し人となるのです。
キリストを証しすることは、複雑な神学を展開することではありません。ギリシャ語やヘブル語を修得することでもありません。イエスがあなたのためにしてくださったことを語ることです。「イエスはわたしをこのように愛してくださった。イエスはわたしをこのように受け入れてくださった。イエスはわたしをこのように変えてくださった。」あなたの証しとは、あなたが実際に経験したことなのです。
3. 死んで実を結ぶ一粒の麦(20〜26節)
数人のギリシャ人がイエスに会いたいと願います。彼らはピリポを通し、それからアンデレを通して近づきます。イエスは答えられます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」その栄光とは、十字架であり、復活であり、御父のもとへの帰還です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、ただの一粒のままである。もし死んだなら、多くの実を結ぶようになる。」あなたの赦しが可能となるために、イエスは死ななければなりませんでした。イエスの死なしには、赦しはありません。赦しなしには、御霊による新しいいのちもありません。
そして、鋭いことばが続きます。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」イエスは、あなたに与えられたいのちを軽んじるように求めておられるのではありません。それをこの世のためだけに使わないようにと求めておられるのです。もしあなたが自分のいのちを、この世が差し出すものを得るためだけに使うなら、あなたは本当のいのちを見過ごしてしまいます。もし神を知り、キリストに仕えるために使うなら、それはあなたを永遠のいのちへと導きます。
キリストに仕えるとは、キリストがおられる場所にキリストに従っていくことです。キリストは天におられます。ですから、あなたの心は、地上の緊急事態にただ没頭するのではなく、天へと向けられていなければなりません。
4. 心の騒ぎと祈り(27〜33節)
「今わたしの心は騒いでいる。」イエスは冷めた心で十字架に向き合われたのではありません。ゲツセマネで、イエスはこう祈られます。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」イエスは心の騒ぎを知っておられます。ですから、あなたの心が騒ぐとき、イエスに倣ってください。
イエスは三つのことをなさいます。まず、祈られます。御父に心を向けられます。祈りは必ずしも状況を変えるわけではありませんが、あなたの姿勢を変え、そこを通り抜ける力を与えてくれます。次に、真剣に思いめぐらされます。御父の愛と、ご自分に託された目的を思い巡らされるのです。最後に、信頼することを決断されます。「父よ、み名の栄光をあらわしてください。」天からの声が答えます。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう。」イエスは、この声はご自分のためではなく、群衆のためだったと言われます。
5. 光があるうちに、光の中を歩む(34〜43節)
群衆は、苦しみを受けるメシヤを理解しません。彼らは力強い王を待ち望んでいます。彼らは、まさに自分たちを赦すことのできた方につまずくのです。あなたも、イエスを自分の望みをかなえるための便利な道具にしてしまうなら、つまずくことがあります。「わたしの罪については、まあいい、それより、これを与えてくれないか」というふうにです。イエスはしもべではありません。イエスはあなたの救い主です。
あなたの本当の問題は、物質的な欠乏でも、病気でも、境遇でもありません。あなたの本当の問題は、あなたを神から引き離す罪です。そしてイエスは、まさにこの問題を解決するために、ご自分のいのちを代価として払って来られたのです。
「光のあるうちに、その光の中を歩きなさい。そうすれば、暗やみに追いつかれることはない。」頑なにキリストを拒み続ける者の心が、やがて頑なになる時が来ます。神はあなたの意志を尊重されます。もしあなたが「見たくない」と言い続けるなら、神はついにあなたが見ないままでいることを許されるでしょう。だからこそ、光があるうちに信じることが急務なのです。
多くのユダヤ人の指導者たちはイエスを信じていましたが、パリサイ人を恐れてそれを告白する勇気を持てませんでした。彼らは神の栄光よりも人の栄光を好んだのです。信仰をいつまでも隠しておくことはできません。二つのうちのどちらかが起こります。信仰が萎えて消えてしまうか、それが本物であれば、やがて表に現れてくるか、です。サンヘドリンの二人のメンバーであったアリマタヤのヨセフとニコデモは、十字架のもとで、もはや黙っていることができなくなります。
6. イエスの公の遺言(44〜50節)
イエスは最後にこう叫ばれます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのである。」イエスは裁くために来られたのではなく、救うために来られました。裁くのはイエスではありません。もしあなたがイエスの言葉を拒むなら、終わりの日にあなたを裁くのは、その言葉自体です。
「父の戒めは永遠の命であることを、わたしは知っている。」そしてヨハネ17:3はこう明確にしています。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることです。それこそが、あなたのいのちの用いられるべき目的なのです。
覚えておきたいポイント
- 永遠のいのちとは長さのことではなく、イエス・キリストによる神との関係のことです。
- キリストに仕えることは業績ではなく、計算することを拒む、あふれ出る感謝です。
- 容認され習慣化した罪は、敵が入り込む裂け目となります。それを居座らせないでください。
- あなたの証しとは、キリストがあなたの人生の中でしてくださったことを、素直に語ることです。
- あなたの魂が騒ぐとき:祈り、神の愛と目的について思いめぐらし、そして神に信頼することを決断してください。
- あなたの人生の本当の問題は罪です。そしてイエスは、まさにそのために来てくださいました。
個人適用
- 今日、あなたは自分のいのち、時間、お金、エネルギーを、具体的に何のために使っていますか。神は、その予算のどこかに現れているでしょうか。
- キリストがあなたに、計算せずに捧げてほしいと願っておられるのに、あなたが大切に取っておいている「貴重な香油」は何ですか。
- あなたの人生の中に、あまりにも長く放置してきた習慣的な罪はありませんか。今日、それを神の前で言い表しますか。
- イエスがあなたの人生で何を変えてくださったか、簡単な一文で語ることができますか。もしできないなら、御霊にそれを思い出させてくださるよう求めてください。
- あなたが何かを失うことを恐れて信仰を隠している相手はいますか。もしあなたが人の栄光よりも神の栄光をより恐れるとしたら、あなたはどうするでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ12章(口語訳)・章全体
- ヨハネ17:3・「永遠のいのちとは、彼らがあなたを知ることです」
- 詩篇118:25〜26・メシヤを迎える
- ゼカリヤ9:9・ろばの子に乗った王
- ダニエル9:25〜26・メシヤの暦
- ヨハネの第一の手紙2:6・イエスが歩まれたように歩む
- コロサイ2:14〜15・十字架に釘づけにされた告発の証書
- イザヤ53章・苦しみを受けるメシヤ
よくある質問
「自分のいのちを神のために使う」とは具体的にどういう意味ですか。
それは、仕事や家族、責任を捨てることを意味するのではありません。神をより深く知り、あなたの周りの人々に神を知らせるために、あなたの心、時間、決断の向きを整えることを意味します。日々の生活(仕事、人間関係、健康)は、依然として大切なものであり続けますが、それはもはや究極の目的ではありません。キリストこそが究極の目的なのです。
なぜイエスは「この世で自分のいのちを憎む」必要があると言われるのですか。
これは、神があなたに与えてくださったいのちを軽んじるようにという呼びかけではありません。それを、自分自身のためだけ、あるいはこの世が提供するもののためだけに使わないようにという呼びかけです。自分のいのちを愛するあまり、それを偶像にしてしまうなら、結局それを失ってしまいます。それをキリストに差し出すなら、あなたは永遠のうちにそれを再び見いだすのです。
心が試練で騒ぐとき、どう応じればよいですか。
十字架の前にイエスがなさったことをしてください。まず、感じていることをすべて包み隠さず祈りましょう。次に、聖書に照らして、神の愛とあなたに託された目的について思いめぐらしましょう。最後に、神に信頼することを決断し、この試練を、ただ生き延びるためだけでなく、永遠のために用いましょう。
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