はじめに
「この女はできる限りの事をしたのだ。」2026年10月25日の日曜日、日本の沼津シオン・キリスト教会で、マルコ14章1-9節から「ナルドの香油」と題して説教しました。同じ日の午後、教会は毎年恒例の地域の家族との祭りのために、雨の中で門を開きます。
物語は短いものです。過越の祭の二日前、祭司長たちや律法学者たちがイエスをだまして捕らえる方法を探している中、一人の女がベタニヤのらい病人シモンの家に入ります。彼女は高価な純粋なナルドの香油の入った小さな壺を割り、それをイエスの頭に注ぎます。憤慨する人たちがいましたが、イエスは彼女をかばいます。
牧師自身が認めているように、本題に入る前に歴史への長い回り道をします。この回り道はメッセージに仕えています。あなたは神の目に価値があり、神のみことばはあなたの手の中にあります。そのうえで牧師は、マリヤの行いから三つの教えを引き出します。イエスがあなたに望んでおられることを探すこと、イエスは結果よりも心を見ておられると知ること、そして、小さな壊れた壺を世紀を超える証しに変えてくださると信じることです。
メッセージの流れ
1. あなたは神の目に価値がある
- 聖書は神と人間をしばしばたとえで描きます。最もよく知られているのは、私たちが羊であり、イエスが良い羊飼いであるというたとえです(詩篇23篇、ヨハネ10章11節)。
- もう一つのたとえは、神が陶器師であり、私たちが神によって器に形づくられる粘土であるというものです(エレミヤ18章)。パウロは、私たちは土の器であるが、イエスを信じる信仰によって神が私たちの心に入り、私たちの弱さや欠けたところを通して栄光を現してくださると言います(コリント人への第二の手紙4章7節)。ですから、私たち一人ひとりが尊い存在です。
- しかし牧師は、人間はどの時代にも他人にレッテルを貼ると指摘します。ガラス細工のようにもろい自尊心を支えるために、人は自分より下に置く誰かを探すのです。
- 日本の思想家、福沢諭吉は、天は人の上に人を造らず、と書きました。彼はクリスチャンではなかったかもしれませんが、宣教師たちを通して聖書に触れていました。牧師はその一つの手がかりを挙げます。現在、御殿場のYMCA東山荘の敷地に設置されている鐘は、戦前、その歴史の一つの説によれば、慶應義塾大学の礼拝堂にあったというのです。
- 牧師は言います。福音がなければ、すべての人に尊厳があり、その存在そのものに価値があるという考えには至らない。イエスの時代、ローマ時代のある哲学者は、家畜は物を言わない奴隷であり、奴隷は物を言う家畜だと言うことができました。
- これに対して福音は、人は神のかたちに造られており、その存在は尊いと宣言します。このメッセージはあまりに革命的であったため迫害されましたが、やがてローマ帝国全体に広がり、ヨーロッパ文化の土台を築くまでになりました。
2. 歴史の教訓:みことばをあなたの手に
- 日本でクリスチャンが最も多かったのはいつでしょうか。戦後でも、内村鑑三や新渡戸稲造といった大きな名前が挙がる明治時代でもありません。歴史家たちは口をそろえて答えます。織田信長と豊臣秀吉の時代、安土桃山時代です。
- フランシスコ・ザビエルを先頭に、イエズス会やフランシスコ会が国中で宣教しました。高山右近をはじめ、何人もの戦国大名がクリスチャンになりました。茶人千利休の高名な七人の弟子のうち五人がクリスチャンで、高山右近がその筆頭でした。
- 茶道のことは分からないと打ち明ける牧師は、茶室の低く小さな出入り口が、身をかがめなければ通れないことから、狭い門から入れという招きを思い起こさせると指摘します。また、茶の湯のいくつかの所作は、当時のミサにおける聖杯の扱いに似ているといわれます。
- 秀吉の死から徳川家康の政権掌握までの間、人口の約十分の一がクリスチャンだったといわれます。その後、秀忠と家光の下での迫害、島原の乱、そして明治時代まで続く徹底した弾圧が続きます。
- なぜ、あれほど多かったクリスチャンはほとんど姿を消してしまい、迫害されたローマの教会は生き残ったのでしょうか。牧師は決定的な弱点を見ています。イエスの教えは伝えられましたが、聖書を読ませてもらえなかったのです。教義の文書は翻訳されましたが、みことばそのものは、誤った解釈を恐れてラテン語にとどめられていました。カトリック教会が聖書と典礼を各国の言語で行うことを認めたのは、ようやく1900年代半ばのことです。
- みことばがなければ、これらのクリスチャンは「根のない草のように」枯れてしまいました。自分の言語で、家で、通勤や通学の途中で、いつでも聖書を読み、神のみこころを直接知ることができるのは、計り知れない恵みです。
3. 頭か足か:本当に大切なこと
- マルコ14章では女の名前は記されていませんが、同じ出来事がマタイ26章とヨハネ12章にあり、そこでベタニヤのマリヤであることが分かります。牧師は、この三つの箇所を家で読んで比べてみるよう勧めます。
- マタイとマルコは、香油がイエスの頭に注がれたと述べています。ヨハネ12章3節は、彼女がイエスの足に油を塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐったと述べています。
- 牧師は冗談を言います。天国に行ったら、イエス様ご自身を煩わせるより、マリヤのところへ行って、頭だったのか足だったのかを尋ねよう。彼女はきっと「実は肩だったんですよ」とは答えないでしょう。
- 大切なのは場所ではありません。マリヤが感謝と救いの喜び、そして献身した心をもって、この純粋で高価なナルドの香油を注ぐことで信仰を表したこと、そしてイエスがその行いを喜んで受け入れられたことです。
4. イエスがあなたに望んでおられることを探す
- 私たちは何かをしようとするとき、それがイエスを喜ばせるかどうかを最初に考えないことがよくあります。人からどう思われるか、どう評価されるか、そして、牧師が自分のこととして告白するように、「ババを引くのではないか」と考えてしまいます。
- マリヤは違うやり方をしました。「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」(マルコ14章8節)。イエスは、自分がまもなく十字架につけられることを知っておられました。その後すぐに、最後の食事、ゲッセマネの祈り、逮捕、不当な裁判、そして15章の十字架が続きます。
- ペテロやヨハネ、ほかの弟子たちは、まだそれを理解していませんでした。ベタニヤに住んでいたマリヤはイエスを迎え入れ、イエスが来られる前から、イエスのために自分にできることを探していました。
- イエスの心を自分の心とするとは、自分に何ができるかを問うことよりも、イエスが今日あなたに望んでおられることを求めることです。イエスはあなたを赦し、永遠の命を与えるために、十字架に至るまであなたを愛されました。三日目によみがえり、四十日間弟子たちとともに過ごし、オリーブ山から天に昇り、その十日後には、聖書がしばしば油にたとえる聖霊によって、信じる者たちの心に住まわれました。
- 神の右の座について、イエスはあなたのためにとりなしてくださり、聖霊によってあなたを励まし、慰め、導いてくださいます。「今日、このイエス様のために私にできる最善のことは何だろうか」。牧師にとって、この問いこそがクリスチャン生活の土台です。
- いつも答えが分かるとは限りません。それは当然です。あなたは神ではないのですから。そのためにみことばがあります。福音書から始めて、一日一章で十分です。薄い紙を一枚ずつ積み重ねるようなものでも、日々、あなたの心は励まされ、やがてあなたに「変わったね」と言ってくれるのは周りの人たちです。
- 三か月や半年では、何も見えないかもしれません。三年、五年と続けてください。変化ははっきりと分かります。十年、二十年と続ける人と、続けない人との間には、天と地ほどの差があると牧師は言います。
- 牧師は一つの思い出を語ります。牧師は茅ヶ崎の教会で主に導かれ、女性の牧師から洗礼を受けました。その方は、回心する前、沼津の看護師でした。ある時、数週間だけ、年配の看護師が応援に来ました。いつも笑顔で有能で、医師たちの最も難しい要求にも「ありがとうございます」と答える人でした。夜勤のとき、その人は明け方になると姿を消しました。探すと、物置の片隅で聖書を読み、祈っていたのです。
- のちに牧師となるその看護師は、「あの強さの秘密はここにある」と思いました。若い頃にこの証しを聞いた牧師は心を打たれました。人は、見ていないと思っているときでも見ているのです。それ以来、牧師は朝の祈りの時間を守るよう努めています。主は人を通して働かれ、まずみことばと祈りを通して、あなたの心に会いに来てくださいます。
5. 主は結果よりも動機を見ておられる
- 食事の場の雰囲気を想像してみてください(マルコ14章3節)。私たちは温かい食卓を思い浮かべます。しかし牧師は、むしろ張り詰めた、会話が弾まない空気を思います。
- まず、イエスのいのちが狙われていました(1節と2節)。祭司長たちや律法学者たちに遣わされた人々が同席し、イエスの言葉尻をとらえようと待ち構えていたかもしれません。
- 次に、そこはらい病人シモンの家でした。当時、らい病人はただ隔離されただけでなく、その存在そのものが忌み嫌われていました。エルサレムやエリコのような町の近くでは、彼らは城壁の外で暮らしていました。町に入らなければならないときは、小さな鐘を鳴らしながら「私は汚れている、私は汚れている」と叫ばなければならず、通りからは人影が消え、誰もが息をひそめて家に隠れました。弟子たちでさえ、そのような人の家にわざわざ食事に行く必要はないと思ったかもしれません。
- この凍りつくような空気の中で、マリヤは壺を割ります。牧師は、彼女は引き金を引いたのだと言います。非難が飛び交います(4節と5節)。この香油は三百デナリ以上で売れたのに、というのです。
- 1デナリは熟練した職人の一日分の賃金で、今日の10,000円から30,000円に当たります。つまり、この香油は三百万円以上の価値がありました。批判する人々はマリヤを責め、それを許したイエスのことも責めました。
- マリヤはイエスのために良かれと思ってしたのに、結果は正反対になり、まるでイエスに恥をかかせたかのようです。「彼女の立場だったら、消えてしまいたかった」と牧師は打ち明けます。
- しかしイエスは彼女を受け入れます。「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ」(マルコ14章6節)。主は結果よりも動機を見ておられます。
- 私たちは弱く、しばしば失敗し、間違いを犯します。牧師自身も、良かれと思った言葉や行いで人を傷つけたり、関係を損なったりしたことがあると認めています。そのとき主は問われます。「あなたの動機はどこにあったのか」。赦しを求めるべきなら、素直に赦しを求めなさい。しかし、それが主のためであったなら、主はあなたの行いも、言葉も、思いも受け止めてくださいます。
- これらすべてが十字架のもとで生きられることを忘れずに、と牧師は付け加えます。主は、得られた成功よりも、あなたがどれほどの熱意と感謝と信仰をもって行ったかを見ておられます。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16章7節)。牧師は、このみことばは、神が望まれた方法に従わずに、神のために立派なことをする者への警告でもあると述べ、サウルを例に挙げます。
6. 小さな壺が永遠の証しとなる
- 私たちは、自分の行いの小ささや、実りの少なさを嘆くことがよくあります。しかし主は、あなたの小さく欠けた奉仕と、あなたという存在そのものを用いて、永遠の証しを立ててくださいます。
- 聖書は、香油が小さな壺に入っていたと明記しています。純粋で高価だったに違いありませんが、大きくはありません。それでも「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14章9節)と言われました。
- 二千年後、この行いは極東の小さな国の小さな町で語られています。「いや、それほど小さくもないかな」と、牧師は笑いながら言い直しました。
- あなたが主の名によって果たす証しと奉仕もまた、イエスを喜ばせる尊い香油です。
- 午後の祭りについて、牧師は具体的に挙げます。トイレットペーパーを売ること、寄せられた品物を売ること、さまざまな奉仕をすること。その一つ一つが、主を喜ばせる油です。
- 最後の祈りで牧師は、一人ひとりが遣わされた場所で、キリストの良い香りを放つ純粋な油として用いられるように、そして主が「良い忠実な僕よ、よくやった」と言ってくださる日を待ち望むように願いました。
要点
- あなたは神の目に価値があります。神はあなたというもろい土の器を通して栄光を現されます。
- 自分の言語で聖書を持っていることは恵みです。何年も毎日一章ずつ読めば、人生は深く変わります。
- イエスの心を自分の心とするとは、人からどう思われるかではなく、イエスが今日あなたに何を望んでおられるかを問うことです。
- 主は結果よりも心の動機を見ておられます。誰かを傷つけたなら赦しを求めなさい。しかし、あなたが主のためにしたことを主が受け止めてくださることを疑わないでください。
- 小さな壊れた壺は、世界中で語られる証しとなります。イエスのためにする奉仕に、小さすぎるものはありません。
個人的な適用
- 奉仕をためらうとき、あなたはまずイエスが喜ばれることを考えますか。それとも、人からどう思われるかを考えますか。
- 今日、あなたの身の丈に合った、主のためにできる最善のことは何ですか。
- 今週から、決まった時間に福音書を一日一章読み始めることができますか。
- 良い動機でしたことがうまくいかなかったために、自分を責めずに赦しを求めるべきことはありませんか。
- どの奉仕が小さすぎて価値がないように思えますか。マリヤが壺をささげたように、それをイエスにささげることができませんか。
引用された聖句
- マルコによる福音書14章1-9節
- マタイによる福音書26章6-13節
- ヨハネによる福音書12章1-8節
- 詩篇23篇
- ヨハネによる福音書10章11節
- エレミヤ書18章
- コリント人への第二の手紙4章7節
- マタイによる福音書7章13節
- サムエル記上16章7節
- コリント人への第二の手紙2章15節
- マタイによる福音書25章21節
よくある質問
マルコ14章8節の「できる限りの事をした」とはどういう意味ですか。
荻野倍弘牧師によれば、ベタニヤのマリヤは、弟子たちがまだ理解していなかったこと、つまりイエスが死ぬことを理解していました。イエスが来られる前から、彼女はイエスのために自分に何ができるかを考えていました。できることをするとは、イエスが今日私たちに望んでおられることを求め、最善をささげることです。
マリヤは香油をイエスの頭に注いだのですか、それとも足に注いだのですか。
マルコ14章とマタイ26章は頭について、ヨハネ12章は髪の毛でぬぐわれた足について述べています。牧師はこの三つの記事を読むよう勧めますが、大切なのは場所ではなく、マリヤの愛と感謝、そしてイエスが彼女の行いを喜んで受け入れられたことだと強調します。
香油が三百デナリもの価値があったのに、なぜイエスはマリヤをかばうのですか。
1デナリは熟練した職人の一日分の賃金に当たり、この香油は大金に値するものでした。そのため、この行いは同席者たちの怒りを買いました。それでもイエスは「するままにさせておきなさい」と答えます。牧師によれば、主は目に見える結果よりも心の動機を見ておられ、サムエル記上16章7節に記されているとおりです。