見せかけの信仰か、心の信仰か(マタイ5章20節)

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はじめに

クローゼットの奥に置かれたランプを想像してみてください。ずっと灯りをつけたままです。扉を開けても、わずかな明るさしか届いてきません。電球自体はちゃんと機能しています。でもガラスにほこりが積もって、光が本来の役目を果たせなくなっているのです。マタイ5章20節を扱うこのメッセージで、ユーグ・ヴェッセル師はこのイメージを使って、あなたのクリスチャン生活について語りかけます。イエス様が求めておられるのは、あなたがもっと宗教的になることでも、もっと頑張って結果を出すことでもありません。イエス様が求めておられるのは、あなたの心の義が、当時の律法の達人であった律法学者やパリサイ人の義を上回ることです。そうでなければ、天国に入ることはできない、とイエス様は警告されます。これはもっと努力しなさいという呼びかけではなく、内側からの変革への招きなのです。

メッセージの構成

1. 現実を見つめる:なぜパリサイ人の義では足りなかったのか

  • パリサイ人たちは単なる悪人でも、冷笑的な偽善者でもありませんでした。彼らは真剣で、誠実で、献身的でした。週に二回断食し、厳格に祈り、十分の一献金を欠かさず、律法を暗記していました。
  • 彼らの誤りは、いわば計算の間違いでした。「規則を守れば守るほど、神の前で正しくなる」と考えていたのです。しかしイエス様が求めておられるのは量ではありません。質です。
  • 冬季オリンピックにたとえるなら、パリサイ人たちは律法のオリンピックチャンピオンでした。もし今日イエス様が「あなたの献身がマザー・テレサや、あなたの牧師先生の献身に及ばなければ、天国には入れない」と言われたら、あなたはきっと愕然とするでしょう。
  • 問題は律法そのものではなく、彼らの心にありました。彼らの義は外側からは見えても、内側は空っぽだったのです。イエス様がイザヤ書を引用してこう言われた通りです。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」

2. 修正:イエス様が律法の本当の意味を回復する

  • イエス様がモーセの律法を廃止するために来られたと考える人もいます。マタイ5章17節でこう言っておられます。「わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」
  • イエス様が正されたのは、パリサイ人による解釈です。律法とは「殺すな、盗むな」といったチェックリストではありません。律法は神の心を映す鏡なのです。
  • だからこそイエス様はさらに踏み込みます。殺人は怒りから始まり、姦淫は欲望のまなざしから始まる、と。罪はまず心の中に生まれ、それから行いとして外に現れるのです。
  • マタイ6章22〜23節にはこうあります。「目はからだの明かりです。ですから、あなたの目が澄んでいるなら、あなたの全身は明るいでしょう。しかし、あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗いでしょう。」
  • 「澄んでいる」と訳されているギリシャ語はハプルースです。これは単純なひとつにまとまった分かれていないという意味を持っています。イエス様が招いておられるのは、統一された心です。世のための意図と神のための意図を別々に持つのではなく、公の顔と私的な顔がずれているのでもなく、ただひとつの純粋な意図の筋を通すことなのです。

3. 心の義:根本的な対比

  • 頑丈で印象的な、開けることのできない金庫を想像してみてください。暗証番号がなければ誰も開けられません。でも、ようやく扉を開けたとき、中身は空っぽだったとしたら。これがパリサイ人の義の姿でした。規則の面では堅固でしたが、内側に霊的な宝は何もなかったのです。
  • イエス様はマタイ23章25〜26節でこう言っておられます。「わざわいだ。忌まわしい律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなるのだ。」
  • この内側のきよめは、あなた自身の力で作り出せるものではありません。それは聖霊の御業です。心のきよさ、義への渇き、へりくだりは、あなたが自分に課す努力ではなく、あなたの内に宿る御霊の実なのです。
  • この御業が自分の中で本当に起こっているかどうか、どう見分ければよいのでしょうか。いくつかのしるしがあります。どんな状況でも深い平安があること、自分の行いを後悔しないこと、人に印象づけるためではない、裏表のない単純な行動、自分を弁護する必要のない本物のへりくだり、御国の益を求める私利私欲のない心などです。
  • クリスチャンは今の自分の聖さに決して満足しません。いつでもさらに聖さを求め続けます。この渇望そのものが、キリストがその人の内で働いておられるしるしなのです。

4. 適用:管理された道徳から変革された道徳へ

  • 正直に問いかけてみましょう。神があなたの思いと隠れた動機をご覧になるとしたら、あなたの「内側のケーキ」は本当においしいでしょうか。それとも、美しいアイシングの下は、実はぱさぱさに乾いていないでしょうか。誰も、自分自身の力で完璧という基準に到達することはできません。恵みなしには、私たちはみな迷った者にすぎないのです。
  • 実は、これこそが山上の説教の目的です。イエス様はハードルをとても高く設定することで、あなたが自分ひとりの力ではそこに到達できないことに気づかせようとしておられます。神が与えてくださる新しい心なしには、あなたをキリストに似た者としてくださる聖霊なしには、天国の義には手が届かないのです。
  • 灯台は自分のために存在するのではありません。鏡に映る自分の姿を見るために光っているのでもありません。灯台の使命は、暗闇の中を進む船を導き、難破を防ぐことです。神によって変えられたあなたの心も、この灯台のようなものです。それはあなたの評判を守るための光ではなく、神が栄光を受けられるように、他の人の道を照らすための光なのです。
  • 心にとどめたい言葉があります。「パリサイ人は、罰せられないために越えてはならない一線を探す。だが信じる者は、天の父に似た者となるために守るべき心を探し求める。」

覚えておきたいポイント

  • イエス様が求めておられるのは、より多くの宗教的な量ではありません。統一された、分かれていない、質の異なる心なのです。
  • 律法はチェックリストではなく、神の心を映す鏡です。律法が見つめているのは、あなたの行いの前に、まずあなたの内側なのです。
  • あなたは自分自身をきよめることはできません。どれほど熱心に祈っても、どれほど厳しく従っても同じです。内側からの変革は、あなたの内で働かれる聖霊の御業です。
  • 神があなたの人生の中で働いておられるしるしとは、平安、へりくだり、裏表のない行動、御国の益を求める私利私欲のない願い、そしていつまでも尽きない聖さへの渇望です。
  • イエス様が言われるクリスチャンとは、一線を守るクリスチャンではなく、心のクリスチャンです。それはより大きな努力によってではなく、聖霊の力によって形づくられるのです。

個人的な適用

  1. あなたのランプのどこにほこりが積もっているでしょうか。傲慢、裁く思い、欲望、恨みなど、あなたの心のどの部分が、今週、聖霊によってきよめられる必要があるでしょうか。
  2. あなたの「内側のケーキ」について。もし今日、あなたの人生という杯を開けてみたら、外側と内側は一致しているでしょうか。それとも、美しいアイシングだけがあるのでしょうか。
  3. 渋滞、子育て、職場の同僚、SNSなど、今週の日常のどんな場面で、誰にも見られていないときに違う自分になってしまうでしょうか。そうした瞬間に、あなたの心が本当に穏やかになるために、どんな祈りをささげることができるでしょうか。
  4. あなたは「何をしてもいいだろうか」と問う一線のクリスチャンでしょうか。それとも「何が神に喜ばれるだろうか」と問う心のクリスチャンでしょうか。今週、どの点で問いを変えることができるでしょうか。
  5. 変えられたあなたの心は、他の人にとっての灯台です。今、あなたの周りで、印象づけるためではなく、その人の道を照らすために、あなたの光が必要な人は誰でしょうか。

引用された聖句

よくある質問

イエス様は旧約聖書の律法を廃止されたのですか。

いいえ、違います。マタイ5章17節でこう言っておられます。律法を廃止するためではなく、成就するために来た、と。イエス様が正されたのは、律法を外側の規則のリストに縮めてしまったパリサイ人の表面的な解釈です。イエス様はその本当の意味を明らかにされました。律法が見つめているのは行いだけでなく、心そのものです。殺人は怒りから始まり、姦淫はまなざしから始まるのです。

自分の信仰が単なる宗教的なものではなく、本物かどうか、どう見分ければよいのですか。

ユーグ・ヴェッセル師によれば、あなたの内で聖霊が働いておられることを示す、いくつかの目立たないしるしがあります。どんな状況でも深い平安があること、批判されても自分を弁護する必要のないへりくだりがあること、裏表のない単純な行動をとること、御国の益を求める私利私欲のない願いを持つこと、そして聖さへの渇望が絶えず大きくなっていくことです。こうした性質は、あなたが力ずくで作り出すものではありません。時間をかけて実を結んでいく、御霊の実なのです。

マタイ6章22節の「目が澄んでいる」(ハプルース)とは、どういう意味ですか。

ギリシャ語のハプルースは、単純なひとつにまとまった分かれていないという意味です。イエス様が招いておられるのは、人生を統一されたまなざしで見ることです。神のための意図と世のための意図を別々に持つのではなく、公の顔と私的な顔がずれているのでもなく、ひとつの、裏表のない心を持つことです。これは、外側の敬虔さと、内側の傲慢や裁く思い、欲望が同居していたパリサイ人の心とは正反対のものです。

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