はじめに
大阪オンヌリキリスト教会の若手社会人グループ「ONE」が、修養会から戻ってきました。数日間、熱心に賛美し、祈り、み言葉を受け取りました。井上マキ牧師は率直に語ります。この世代の情熱と、神様の臨在の中での賛美に心を打たれ、これほどの若者たちがいれば、日本の宣教はもっと早く前進するのではないかと思ったそうです。
ところが、日常が戻ってきました。翌日からはまた仕事です。次の主日礼拝では、雰囲気も以前とまったく同じではなくなっていました。牧師は正直に問いかけます。「水曜日から土曜日まで、一日一日をどのように過ごしましたか。」
このメッセージは「Reaction to Action」という新しいシリーズの始まりです。感動で終わらず、行動へ進むことを目指します。ヤコブの手紙1章22〜25節から、井上マキ牧師は二つのことを分かち合います。鏡を見る人とみ言葉を実践する人の違い、そして行動の中に隠れている信仰の祝福です。
メッセージの流れ
1. 修養会のあとの、日常への帰還
- 修養会の最終日、みんなが熱心に賛美し、満たされた心で家に帰りました。翌朝には、多くの人がすでに仕事へ向かっていました。
- 会衆のひとりが、この一週間は楽ではなかったと打ち明けます。牧師は答えます。「私も同じです。」牧師の日々も以前のとおりに戻りました。早天礼拝、木曜日と金曜日の早天礼拝での説教、金曜夜の賛美礼拝のメッセージ、土曜日のリーダー訓練です。
- たくさんの恵みを受けたのに、日常に戻ると心が重くなりました。修養会での感動や喜びはどこへ行ったのだろう、本当に変われるのだろうかと思ってしまいます。
- このずれと自分の足りなさを感じている人もいます。牧師は繰り返します。「安心してください。」神様は修養会で確かに恵みを与えてくださいましたが、それは一生を、あの熱い雰囲気と日常から離れた環境の中で過ごさせるためではありません。
- 感動と現実のあいだで少し戸惑う、このずれの瞬間こそ、一歩を踏み出し、み言葉に応え、現実の生活の中で行動を始める最高の出発点です。
2. 鏡を見て、忘れてしまう人
- ヤコブはとても具体的なたとえを使います。「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。」(ヤコブの手紙1章23〜24節)
- 朝、出かける前には、ほとんどの人が鏡を見ます。顔や服に何かついていれば、忘れたまま出かける人はいません。髪を整え、化粧をし、直してから出かけます。
- ところが霊的なことになると、私たちはまったく逆のことをしているとヤコブは警告します。
3. 礼拝は、神様の愛と私たちの罪を映し出す鏡
- 修養会も、毎週のONEの礼拝も、み言葉という鏡の前に立つ時間です。
- この鏡の前で、私たちは神様の圧倒的で大きな愛を見ます。同時に、その愛を知れば知るほど、自分の中にあるものも見えてきます。高ぶり、罪、悔い改めるべきことです。
- そのとき心は温まります。熱心に賛美し、ときには涙を流しながら言います。「主よ、私を新しくしてください。信仰によってみ言葉に従います。」神様の臨在を体験したとき、この反応は自然なものです。それは神様の愛と恵みから来ています。
- しかし鏡の前を離れると、水曜日から土曜日にかけて、以前の考え方に戻ってしまいます。同じ言葉、同じ怒り、同じ心配、同じ恐れです。「私たちは罪人だからです。」
- 牧師は受け取ったものを否定しません。「それは間違いではなく、本当のことです。」けれども、実際には何も変わっていないと気づくと、落胆や失望、絶望につながることがあります。そして礼拝も祈りもみ言葉を読むことも自己流になると、生活は苦しくなります。私たちには毎日、神様の恵みが必要です。
4. あなたの応答を後回しにしないでください
- 牧師は伝道者ドワイト・L・ムーディーの話をします。1871年10月8日の日曜日、彼はシカゴの大きな会場で何千人もの人々に説教しました。主題は「あなたはイエス・キリストをどうしますか」でした。
- 最後に、ムーディーは決断を求めませんでした。こう言ったのです。「家に帰って、今週このメッセージをゆっくり深く考えてください。そして来週の日曜日、またここに来て、イエス・キリストを受け入れる決心をしてください。」
- 彼が壇上から降りた直後、街じゅうにサイレンが鳴り響きました。シカゴ大火です。火はあっという間に街をのみ込み、彼が説教した会場も焼け、牧師の語るところでは、その夜に説教を聞いた多くの人が命を落としました。その人たちには、次の日曜日は来なかったのです。
- 牧師の話によれば、ムーディーはあの夜、応答を呼びかけなかったことを生涯悔やみ、み言葉への応答を翌日や翌週に先送りさせるような説教は二度としないと決めたそうです。
- 「あなたはどうですか。」修養会でみ言葉を受け取り、決心したかもしれません。けれども、「仕事が全部片づいたら、来週考えよう」と思っていませんか。
- 牧師は、すぐにできる応答を提案します。礼拝後の小グループで、修養会に参加した人は受け取ったものを、来られなかった人に分かち合います。そして参加しなかった人は、ほかの人に変化が見えるかどうか、あるいはまったく見えないかを、正直に話します。
5. 信仰の祝福は、行動の中に隠れています
- 感動と現実のずれから、どう抜け出せばよいのでしょうか。ヤコブの手紙1章25節が答えます。「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」
- 聖書は、修養会でいちばん感動した人だけが祝福されるとは言っていません。ノートをいっぱいにした人が祝福されるとも言っていません。信仰によって行動するときに、祝福を受けると言っているのです。
- これが、信仰生活を根本から変える鍵です。行動する信仰によって神様の恵みを受け、その恵みによって、日常の中で力強く、勝利者として生きることができます。
6. 小さな一歩でできている、いつも「今」の信仰
- 信仰とは、過去の霊的な体験を懐かしくめくり返すアルバムではありません。昔の体験が本質ではないのです。
- 「本当の信仰は、いつも現在形です。」それは、受け取ったみ言葉に今どう応えるか、どんな一歩を踏み出すかにかかっています。
- 修養会の恵みと自分の現実とのあいだにずれを感じても、落ち込む必要も、「自分にはできない」と思う必要もありません。神様は、あなたがいきなり100点満点のクリスチャンになることを求めてはおられません。
- 神様が求めておられるのは、もっと神様を愛し、もっと神様を信頼し、信仰によって1%の小さな行動をすることです。小さくても、み言葉をそのまま実践する従順が、神様の喜ばれることです。
- 本当の信仰は、「知っている」「感じている」で止まりません。小さな従順から始まります。日常の中で、たったひとつのことを実践するのです。その現実のただ中で、神様の祝福と生きた御業が動き出します。
7. 今週できる、二つのシンプルな行動
- 神様は、生きて力ある約束の言葉によって、ひとりひとりの心に信仰の種をまいてくださいました。「先週のよい思い出だけを残して、また以前と同じ日常を生きますか。私は、そうしたくありません。」牧師は、落ち込んでいても、疲れていても、神様から託された使命に向かって、神様とともに進みたいと願っています。
- 生きた信仰を神様に求め、そして神様が遣わされる場所、つまり職場、学校、家庭でそれを行動に移すよう勧めています。神様はその従順のただ中で働かれます。修養会で受けた恵みは特別なものでしたが、神様は日常のための恵みも備えておられます。「それを待ち望んでください。」
- ひとつ目の行動:礼拝で心に留まった言葉と、自分が決めたことを、スマートフォンのメモアプリに一行で書いてください。
- ふたつ目の行動:その週のうちに、そのメモを身近な人、たとえばONEのメンバー、小グループの仲間、家族に、LINEや直接会って分かち合ってください。「私が受け取った言葉はこれです。こう決心しました。こう生きたいと思っています。」
- 恵みを自分の中にしまっておかず、外へ流れ出させること。それが行動の第一歩です。「一歩で十分です。」勇気をもって踏み出したその小さな一歩を、主は喜んでくださり、疲れも痛みも恐れも喜びに変えてくださいます。
大切なポイント
- み言葉を聞くだけで実践しないのは、鏡を見て、見たものをすぐに忘れてしまうことです(ヤコブの手紙1章23〜24節)。
- 特別な集会の感動と日常の現実とのずれは、失敗ではありません。行動を始める最高の出発点です。
- 神様への応答を後回しにしないでください。ムーディーは、シカゴ大火の夜に決断を翌週へ延ばしたことを、生涯悔やみました。
- 祝福は、いちばん感動した人やノートを取るのがうまい人ではなく、み言葉を実践する人に約束されています(ヤコブの手紙1章25節)。
- 本当の信仰は現在形です。神様は100点満点のクリスチャンではなく、1%の小さな従順を求めておられます。
個人への適用
- 最近、礼拝や修養会で受け取った言葉は何ですか。そして「鏡」を離れるときに、何を忘れましたか。
- どんな分野で、古い習慣に戻っていますか。言葉、怒り、心配、恐れのどれでしょうか。
- 「仕事が片づいたら」と先送りにしている、神様への応答はありませんか。
- 今週、職場や学校、家庭でできる1%の小さな行動は何ですか。
- 週の終わりまでに、書き留めた言葉と決心を、誰に分かち合いますか。
引用した聖書箇所
よくある質問
ヤコブの手紙1章23〜24節の鏡のたとえは、何を意味していますか。
朝、鏡を見て、何も直さずにそのまま立ち去る人はいません。井上マキ牧師にとって、礼拝や修養会がその鏡です。そこで私たちは、神様の大きな愛と、同時に自分自身の罪を見ます。み言葉を聞くだけで実践しないのは、鏡の前を離れて、そこで見たものをすぐに忘れてしまうことです。
修養会の感動は、なぜこんなに早く冷めてしまうのですか。
日常に戻ると、昔ながらの話し方、怒り、不安、恐れが戻ってきます。私たちは罪人だからです。牧師は、それを心配しすぎないようにと勧めます。神様は、一生を修養会の雰囲気の中で過ごさせるためにこの恵みを与えたのではないからです。感動と現実のこのずれこそ、行動を始める最高の出発点です。
理想のクリスチャンからほど遠いと感じる人に、神様は何を求めておられますか。
神様は、いきなり100点満点のクリスチャンになることを求めてはおられません。もっと神様を愛し、信頼し、信仰によって1%の小さな行動をすることを求めておられます。ヤコブの手紙1章25節によれば、み言葉を実践する人が、その行いによって祝福されます。
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