はじめに
日本の浜寺聖書教会の牧師、近藤崇志牧師は、ヨハネの福音書を続けて学び、13章12節から20節を取り上げます。前の週には、イエスが過越の祭の前に、ご自分の時が来たことを知り、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」ことを見ました。
イエスは、ご自分を待ち受けているすべてを知っておられました。裏切り、逮捕、不当な裁判、十字架、そして罪人に代わって負われる神ののろいと怒りです。それでもイエスは、弟子たちの弱さ、罪、頼りなさ、愚かさにもかかわらず、彼らを愛することをやめられませんでした。手ぬぐいを腰に巻き、ひざまずいて弟子たちの足を洗われたのです。それは奴隷の仕事でした。
これほどの愛を受けた弟子たちには、どのような応答が求められるのでしょうか。この愛を知ったあなたは、どのように歩みますか。イエスは弟子たちの足を洗っただけでなく、彼らに教えられました。牧師はこの箇所から、責任、祝福、使者という三つのキーワードを挙げます。
メッセージの流れ
1. 何ものにも値しない愛
- イエスがご自分の者たちに注ぐ愛は、最も大きな愛です。状況によっても、目の前にいる人によっても変わりません。
- 牧師は『天路歴程』の著者ジョン・バニヤンを引用します。対等な者同士が愛し合ったり、上の立場の人が愛されたりするのはよくあることですが、王の王、神の御子であるイエス・キリストが、人間をこのように愛されるのは驚くべきことだ、と。
- 聖書は、キリストが愛される者たちを、取るに足りない者、ふさわしくない者、反逆する者、罪人、不敬虔な者、汚れた者、愚かな者として描いています。「どうして驚かずにいられるでしょうか。どうして心を動かされずにいられるでしょうか。」
- キリストの愛は、愛する相手に美しさを見いだすことを求めません。相手のうちにあるものには何も左右されません。主はご自身の心をこちらに向け、ご自分の意志で私たちを愛してくださいます。
2. 第一のキーワード:責任
- 足を洗い終えたイエスは問われます。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」(ヨハネ13:12-14)
- 誤解しないように注意が必要です。「べきである」と訳された言葉は、提案ではありません。強い必要性、義務を表します。「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたが互いの足を洗い合うのは当然である。それはあなたがたの務めだ」ということです。
- イエスはご自分の立場を思い起こさせます。初めから、アンデレとヨハネはイエスを「ラビ」、つまり先生と呼んでいました(ヨハネ1:38)。これは宗教的な教師に対する正式な呼び方です。しかし彼らは「主」とも呼びました。この言葉はイエスの神性を表します。パンの奇跡と水の上を歩かれた出来事のあと、ペテロは告白します。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68-69)
- 理屈は単純です。仕えられるべき主が天から降りて仕えてくださったのなら、弟子たちが身を低くして仕えるのは当然です。
3. 感心するためではなく、従うための模範
- 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」(ヨハネ13:15)「手本」という言葉は、私たちがまねるべき正しい模範を指します。
- IKEAやニトリで組み立て式の家具を買うと、箱の中には説明書が入っています。完成形、部品、取り付ける場所と順番が示されています。それを無視して自己流で組み立てれば、部品はかみ合わず、家具はぐらつきます。説明書を暗記していても、従わなければ何の役にも立ちません。
- イエスは弟子たちを感心させて「イエス様は何と偉大なことをされたのだろう」と言わせるために足を洗ったのではありません。従うべき手本を、弟子たちに、そして私たちに与えておられたのです。
- この謙遜な愛は、見返りを求めません。イエスは「今度はあなたがたがわたしの足を洗う番だ」とは言われませんでした。弟子たちが先にイエスを愛したわけでもないのに、自ら進んで仕えられました。配偶者、両親、子ども、兄弟姉妹、同僚に対して、あなたの愛はいつの間にか見返りを求める愛になっていませんか。
- この愛は、自分の立場も手放します。弟子たちが師の足を洗うのが当たり前だったはずです。万物の創造主には、仕えられる権利がありました。それでもイエスは、その権利を喜んで脇に置き、奴隷の立場に身を置かれたのです。
4. 互いの足を洗い合う
- 私たちは「それは私の仕事ではない」と考えて、仕えることを拒むことがあります。主の前での自分の立場は思い出せても、他の人に対してはどうでしょうか。自分を認めてくれない人、いらだたせる人、傷つける人に対して、私たちは僕ではなく主人の立場に立ってしまいます。
- イエスは「わたしの足を洗いなさい」とは言われませんでした。弟子たちは喜んでそうしたでしょう。イエスは「互いの足を洗い合いなさい」と言われました。だれが一番偉いかをいつも言い争っていた弟子たちにとって、それは対等な者の前で身を低くすることでした。
- 自分より上だと思う人に仕えるのは簡単です。対等な人や、心の奥で自分より下に置いている人に仕えることは、プライドを傷つけます。「いや、私はだれも見下していない」と私たちは思います。しかし、私たちは自分の罪よりも他人の罪のほうがよく見えるのです。
- パウロは書いています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(ピリピ2:3-5)これは、特に恩知らずな人に対しては難しいことです。秘訣は、自分自身の罪を思い起こすことです。パウロは自分を罪人のかしらと呼びました(テモテ第一1:15)。そして、主の模範から目を離さないことです。
5. 第二のキーワード:祝福
- 「よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。」(ヨハネ13:16-17)
- 私たちはみな幸せになりたいと願います。しかし、自己中心的な世の中の影響を受けて、こう考えます。夫がもっと助けてくれたら、妻や両親、子ども、同僚がもっと理解してくれたら、私はもっと幸せなのに、と。そして、人に仕えることが、喜びを奪う重荷になるのではないかと恐れます。神の言葉はそのようには教えていません。
- イエスは「これらのことがわかっていれば、あなたがたはさいわいである」とは言われません。「それを行うなら」と言われるのです。毎週教会に来て、知識を積み重ね、それで満足してしまうことはできます。知ることと行うことは別のことです。
- 牧師はJ・C・ライルを引用します。実践こそが信仰生活の本質である。どう生きるべきかを知っていても、その知識があなたの生活を何も変えないなら、神の前でのあなたの状況はいっそう深刻になる、と。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」(ヤコブ4:17)
- 知識は必要です。それなしには何も始まりません。しかし、知識だけでは祝福に至りません。イエスが語る幸せは、状況に左右されない、神にある満足です。
- あなたがいつも満たされないのは、多くのことを知っていながら、それを行っていないからかもしれません。世は、喜びは他の人が私たちのためにしてくれることから来ると考えます。しかし、僕となって救ってくださったイエスによって救われた者は、仕えることのうちに喜びを見いだします。そしてイエスは「幸せになるかもしれない」とは言わず、「さいわいである」と言われます。この約束は今日の私たちにも当てはまります。
6. 第三のキーワード:使者
- 「あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。」(ヨハネ13:18-19、詩篇41:9)
- 今日の私たちは、これがイスカリオテのユダのことだと知っています。しかし弟子たちにとって、仲間が裏切ると受け入れることは簡単ではありませんでした。マタイ26章で、彼らは深く悲しみ、ひとりひとり「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と尋ねます。
- 何の予告もなければ、裏切りは彼らを混乱とパニックに陥れ、信仰を打ち砕いたかもしれません。あわれみに満ちたイエスは、彼らに備えをさせます。それが起こったとき、彼らは「これは主が告げておられたことだ」と思い、その信仰は堅くされるのです。
- 「わたしがそれである」は、「エゴー・エイミ」、「わたしはある」という表現を訳したものです。神がモーセに現された御名です(出エジプト記3:14)。未来を告げることができるのは神だけです。「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」(イザヤ46:9-10)イエスは、ご自分がその神であると宣言しておられます。
- さらにイエスは励まされます。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである。」(ヨハネ13:20)弟子たちはつかわされた者であり、つかわす方を証しする務めを負っています。弟子たちとイエスと父は結ばれています。
- 足を洗うことは、目立たない、気づかれにくい仕事です。しかし弟子たちが忠実に行うなら、それは彼らをつかわす主への証しとなります。裏切りに心を傷つけられても、自分をつかわす方の偉大さと、その使者とされた特権を思い起こさなければなりません。
7. 私たちはキリストの使者である
- 「わたしたちはキリストの使者なのである。」(コリント第二5:20)あなたがイエスを信じて救われているなら、あなたはこの世で主を代表する使者として生きています。
- あなたの使命は、あなたを選び、だれよりもあなたに仕えようとされた主を証しすることです。奉仕が目立たなければ目立たないほど、称賛も感謝も受けにくくなります。しかし、神に感謝します。それは決して無駄にはなりません。
- 「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:45)忠実に仕えることで、あなたは主の姿を目に見えるものにします。
- 牧師は祈りで締めくくります。上に上ろうとして、下に降りようとしないことの多い私たちの目を、神が主の模範に向けさせてくださるように。自分自身の罪を教えてくださるように。そして、まだ主を知らない人々のところで、主が私たちを通してどれほど働かれるかを、ひとりひとりを用いて模範によって示してくださるように、と。
覚えておきたいこと
- 主であり教師である方があなたの足を洗ってくださったのなら、人に仕えることは選択肢ではなく、あなたの責任です。
- イエスの愛は見返りを求めず、自分の立場を手放します。それは特に、あなたと対等な人や、あなたが自分より下に置いている人に向けて生きるものです。
- 祝福は、あなたが知っていることからではなく、あなたが行うことから来ます。
- イエスは弟子たちの信仰を堅くするために、裏切りをあらかじめ告げられました。イエスは未来を知っておられる神、「わたしはある」です。
- あなたはキリストの使者です。あなたの目立たない奉仕は、あなたをつかわす方を証しします。
個人への適用
- あなたの愛が見返りを求める愛になっているのは、だれに対してですか。配偶者、両親、子ども、同僚でしょうか。
- 心の奥で自分をその人の上に置いているために、仕えることが難しいのはだれですか。
- 神の言葉のうち、よく知っているのに実践していない真理は何ですか。
- 自分自身の罪を思い起こすことは、他の人を見るあなたの目をどのように変えますか。
- キリストの使者として、感謝を期待せずに、今週どのような目立たない奉仕ができますか。
引用された聖書箇所
- ヨハネ13:1-20
- ヨハネ1:38
- ヨハネ6:68-69
- ピリピ2:3-5
- テモテ第一1:15
- ヤコブ4:17
- 詩篇41:9
- マタイ26:21-22
- 出エジプト記3:14
- イザヤ46:9-10
- コリント第二5:20
- マルコ10:45
よくある質問
イエスが「あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」と言われた意味は何ですか。
近藤崇志牧師にとって、これは単なる提案ではありません。「べきである」と訳された言葉は、必要性、義務を表します。主であり教師である方が弟子たちの足を洗ってくださったのですから、弟子たちが見返りを求めず、自分の立場を手放して、へりくだって互いに仕え合うのは当然なのです。
なぜイエスは「それを行うなら、あなたがたはさいわいである」と言われるのですか。
イエスは、知っている者にではなく、実践する者に幸せを約束されます。牧師は、知識は必要だが、知識を積み重ねるだけでは祝福に至らないと語ります。主にある喜びと満足は、愛をもって人に仕えることのうちに見いだされます。
なぜイエスはユダの裏切りをあらかじめ告げられたのですか。
イエスは弟子たちの信仰が揺らがないように備えをさせます。出来事が起こる前に告げることで、ご自分がモーセに現された神の御名「わたしはある」であると、弟子たちが信じられるようにされたのです。まだ起こっていないことを告げることができるのは神だけです(イザヤ46:9-10)。