イエスは今、あなたのために祈っておられます:ヨハネ17章が明かす真実

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イエスは今、あなたのために祈っておられます:ヨハネ17章が明かす真実

私たちは今、人類の歴史の中で最も重要な週、神ご自身が犠牲となられる週に入ろうとしています。そこに向かう前に、イエスはあることをされました。それはあなたの祈り方、苦しみ方、そして希望の持ち方を変えてしまうほどのことです。イエスは祈られたのです。これは聖書全体の中でも最も長い、イエスの祈りの記録です。ヨハネ17章に記されているこの祈りには、神とは誰か、つまり父・子・聖霊についての深い神学的な教えが詰まっています。そして何より、それがあなたの人生に具体的に何をもたらすのかが示されています。

神は三位一体であると言うのは簡単です。しかし、それは実際に何を変えるのでしょうか。今日はこの祈りを一節ずつたどりながら、三位一体が単なる抽象的な概念ではなく、あなたの救い、守り、そして教会における一致の土台そのものであることを見ていきましょう。

メッセージの流れ

1. ひとりの神、三つの位格:基本のおさらい

「神とは何ですか」と聞かれたら、答えは「唯一」です。世界を創造された唯一の神、ひとつの本質、ひとつの本性です。しかし「神とはどなたですか」と聞かれたら、答えは「三」です。父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神です。私たちの上におられる神、私たちのようになられた神、私たちのうちに住まわれる神。これはキリスト教神学の中で最も理解しがたい教えのひとつであり、すべてを理解できなくても大丈夫です。しかしイエスはこの祈りを通して、三位一体なしにはイエスがあなたのためにしてくださったことは何ひとつ成り立たないことを示してくださいます。

2. 栄光の交換があなたの救いにつながる(1〜3節)

1節にはこうあります。「父よ、時が来ました。あなたの子を栄光ある者としてください。それは、子があなたに栄光をお返しするためです。」ここで何度も出てくる言葉があります。それは「栄光」です。聖書の中でこの言葉には二つの意味があり、イエスはその両方を巧みに用いておられます。一つ目の意味は、称賛や尊敬です。栄光を帰される者とは、その偉大さゆえに感謝と敬意を向けられる存在のことです。

しかしイエスが父に「栄光を与えてください」と願うとき、それは公の称賛を求めているのではありません。「私を十字架へと導いてください」と言っているのです。なぜなら、そこで、全人類のために死ぬことによって、イエスは父に栄光をお返しになるからです。人間の目から見れば、十字架には栄光など何ひとつありません。イエスは血まみれになって死に、あなたの罪に対する父なる神の怒りをその身に受けられました。

ここで、神の正義についてとても大切なことを理解しておく必要があります。それは、あなたが行った善と悪を天秤にかけるようなものではなく、むしろ日本の裁判制度に近いものです。もしスピード違反で反則金を切られたなら、「でも、これから良いことをするつもりでした」と裁判官に言っても意味がありません。それはあなたが取り締まられた事実を変えません。正義とは、悪を行ったなら償わなければならない、というものです。そして残念なことに、私たちは皆、悪を行ってきました。

私たちの負債はあまりにも大きく、死をもってしか償えないほどです。そこでイエスはこう言われます。「あなたではなく、私があなたの代わりに払う。」何十億もの負債を返済できるのは、天の銀行の鍵を持つ方だけです。だからこそイエスは、あなたの代わりに死ぬために来られたのです。父から与えられた権威を使って、この地上に自分の小さな王国を築こうとはされませんでした。その権威を、あなたを救うために用いられたのです。

そして3節の結果を見てください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」神が神ご自身に栄光を帰したいと願われるからこそ、あなたは救われることができるのです。神があなたを救われるのは、あなたを愛しているからだけではありません。ご自身のゆえに、それが栄光ある行為だからこそ、あなたを救われるのです。三位一体がなければ、これは決して起こり得ません。

3. イエスが待ち望んでいる栄光(4〜5節)

4節と5節では、「栄光」という言葉の意味が変わります。ここでの栄光とは、火から熱が発せられるように、神から発せられるものです。だからこそ聖書の中で、人が神の幻を見るとき、顔ではなく、まばゆいばかりの光を見るのです。イエスはこう祈られます。「父よ、世界が存在する前に、私があなたのもとで持っていた栄光を、今、あなたご自身のもとで私に与えてください。」

これはおそらく、イエスがご自分自身のために祈っておられる唯一の場面です。しかしイエスは「痛みを和らげてください」とは祈っていません。ただ一つ、父とともにいたあの栄光へ帰りたいという切なる願いを口にされているのです。想像してみてください。もしあなたが何も持たずに、戦火の国へ旅立ったとしたら、あなたはただ一つ、家に帰りたいと願うでしょう。イエスが人となられたことに比べれば、三か月間戦地で過ごすことなど、取るに足らないことです。イエスが天の栄光を脱ぎ捨てられたその代価は、私たちには到底理解しきれないものなのです。

4. 永遠とは雲の上のことではなく、神を知ること

3節にある永遠のいのちの定義をよく見てください。それは神を知ることです。「白い服を着て小さな雲の上に座っている」ことではありません。「地上でだいたい従っていたから、あとは好きにする」ことでもありません。そうではなく、まるで人格ある方を知るように、親密に、その品性において神を知ることなのです。

これは、地獄という教理に疑問を持つ人々にとって、大きな意味を持ちます。神は決してあなたを無理やりご自身のもとに引き寄せることはなさいません。もしあなたが神を望まないなら、それはあなたの選択です。しかし、地上で過ごすわずかな年月の間は神を拒みながら、永遠は神を知る時間として過ごしたい、というのは筋が通りません。クリスチャンとは、ただ、もっと神を知りたいと願う人であり、そして永遠にわたって神を知り続ける人のことなのです。

聖書の最後の部分、黙示録21章3〜4節には、この永遠がこう描かれています。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人とともに住み、人は神の民となる。神は人の目から涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死はない。」この神の腕の中で過ごす永遠、その方があなたの目もとに親指を当てて、一粒一粒の涙をぬぐい、もはや痛みが存在しなくなる、そんな永遠です。だからこそイエスは父のもとへ帰ることを待ち望んでおられます。しかしその前に、苦しみを通らなければなりません。イエスは誰よりも強くあることではなく、あなたのために苦しみを受け入れることの中に、ご自身の栄光を見出されるのです。

5. イエスは今、あなたのために祈っておられる(6〜11節)

イエスは一度限り死なれました。それは確かです。しかし、今、イエスは何をしておられるのでしょうか。ヘブル人への手紙7章25節がその答えを教えてくれます。「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられます。」イエス・キリストは今、あなたのために祈っておられます。そしてこれもまた、三位一体なしにはあり得ないことです。もしそうでなければ、神がひとりで独り言をつぶやいていることになってしまいます。そうではなく、子なる神が父なる神に語りかけておられるのです。

なぜイエスはあなたのために祈られるのでしょうか。イエスご自身が6節から11節でそれを語っておられます。それは、あなたとの間に特別な関係を築かれたからです。あなたは神を知っています(イエスがあなたに神を知らせてくださったからです)。あなたは神のものです。あなたは神のことばを受け取り、それを受け入れました。そして、あなたが父との間にこの関係を持っていること自体が、父に栄光をもたらします。最後に、イエスが祈られるのは、まもなくこの世を去られるからです。まるで初めて子どもたちを送り出す親のように、イエスは彼らの身に良いことが起こるようにと願っておられるのです。

6. 悪から守られる、世から取り去られるのではない(11〜19節)

15節にはこうあります。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」ここでイエスは、主の祈りの言葉、「私たちを悪からお救いください」を思い起こさせておられます。徹底したリアリズムをもって、イエスはこう言われるのです。「最も大切なのは、あなたがたがサタンの力から解放されることだ」と。

これは、私たちが教会でよく口にする祈り、つまり試練から取り除かれること、山の中にある平和な小さな家に、ヤギや野生のヤギに囲まれて暮らすことを求める祈りに、疑問を投げかけます。それはクリスチャンの生き方ではありません。イエスは、社会があなたを放っておいてくれるようにと祈っておられるのではありません。困難な状況の「中で」、あなたがサタンの支配から解放されるようにと祈っておられるのです。もしかすると、イエスはあなたの経済的な困難を取り除いてはくださらないかもしれません。しかし、平安を求めるなら、それはきっと与えられるでしょう。

イエスがあなたに与えたいのは、悪と向き合うための武具であって、隠れるための要塞ではありません。もしあなたの人生が、神に困難を取り除いてくださいと祈るだけのものであるなら、あなたはがっかりすることになるでしょう。イエスは、その面での願いをかなえることを約束しておられないからです。これは、いわゆる「繁栄の福音」と呼ばれるものであり、神の目には忌み嫌うべきものです。イエスがあなたに与えてくださるのは、問題に直面したときに必要な忠実さであって、あなたの快適さではありません。何が起ころうと忠実であり続ける力です。

そして18節にはこうあります。「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました。」もしイエスがあなたをこの地上に残し、バプテスマを受けたときにすぐ天に連れて行かれなかったのだとすれば、それはあなたがイエスの和解のみわざに参与するためです。そうです、あなたはこの世界を揺り動かすために召されています。暴力や強制や武器によってではなく、愛と真理によってです。

7. 三位一体のような一致(20〜23節)

20節にはこうあります。「私は彼らのためだけでなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにも、お願いします。」これは、まさにあなたのことです。使徒たちの証しを聞いて、キリストに信仰を置いた人々のことです。イエスは何を願っておられるのでしょうか。「父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らも私たちのうちにいて、みなが一つになるためです。それは、あなたが私を遣わされたことを、世が信じるためです。」

私たちの一致の基準となるのは、三位一体そのものです。とても大きな課題です。イエスは、私たちが教理的に完全に一致することや、完璧に愛し合うこと、みなが寛大であることを祈られたのではありません。イエスが祈られたのは「一致」です。なぜでしょうか。それが、イエスを世に知らせるための最も力強い手段だからです。最高のワーシップチームでもなく、最も優れた説教者でもなく、あらゆる反論に答えられる能力でもありません。人々にイエスを知りたいと思わせるもの、それは互いに愛し合い、一致しているクリスチャンたちの姿なのです。

この世界では、あらゆるものが人々を対立させます。絶え間ない争い、日々のキャンセルカルチャー。しかし、まったく似ていない人々が本物の関係を築き、互いを受け入れ、互いのために祈り合うことができるとき、世界はまったく違う何か、すなわち神の霊が私たちのうちに働いておられることに触れるのです。

8. 一致を壊す四つの毒

この一致は、イエスがご自身の死をもって私たちのために造られたものですが、それは壊れやすいものです。それを守るためには戦わなければなりません。聖書の中で繰り返し語られる四つの大きな敵があります。

  • 陰口。主ご自身が忌み嫌われるものとして挙げておられます。兄弟や姉妹について話すとき、それは本当に祈るためでしょうか。それとも、祈りの姿を装った陰口ではないでしょうか。
  • 分裂や小さな派閥。ホームグループは素晴らしいものです。しかし、教会の中の派閥は違います。毎週日曜日、同じ三人にしか挨拶をしていないなら、それは一致しているとは言えません。
  • 自己中心。ピリピ人への手紙2章3節には、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」とあります。これは人間の本性とは正反対のものです。しかし、イエスの御国では、他者を愛することが、自分の快適さや権利よりも大切にされるのです。
  • 赦さない心。聖書の中で、聖餐にあずかることを妨げうる唯一のものです。赦さない心は、じわじわと忍び寄ってきます。「傷つけられたけれど、もう気にしないでおこう」と思っても、なかなかそうできない。それが苦味となり、敵意となり、気づかないうちにあなたの見方を変えてしまいます。一致は、完璧であろうとすることによってではなく、互いに赦しを求め合うことによって守られるのです。

9. イエスの深い願い:あなたと顔と顔を合わせること(24〜26節)

24節にはこうあります。「父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に私とともにいさせてください。それは、世界の基が置かれる前から私を愛してくださったことによって、あなたが私に与えてくださった栄光を、彼らが見るためです。」子どもの頃、新しいおもちゃをみんなに見せたくてたまらなかったときのことを思い出してみてください。イエスはまさにそのような思いでいらっしゃいます。あなたと顔と顔を合わせて出会う日を、心待ちにしておられるのです。天国で最も喜びにあふれるのは、あなたではありません。イエスご自身なのです。

そして26節では、聖霊の役割が明らかにされます。「それは、あなたが私を愛してくださったその愛が彼らのうちにあり、私も彼らのうちにいるためです。」父と子の間を流れるあの聖なる愛を、聖霊があなたのうちに注いでくださるのです。ローマ人への手紙8章15節によれば、あなたの心の中で「アバ、父よ」と叫んでくださるのは、この聖霊なのです。どんな家庭で育ったとしても、あなたには無条件に愛してくださる方がいるのです。

覚えておきたいポイント

  • 三位一体があなたの救いを成り立たせています。子なる神が父なる神の怒りをなだめ、あなたを救われます。神の位格の間で栄光が交換されなければ、十字架は成り立ちません。
  • イエスは今、あなたのために祈っておられます。イエスはいつも生きていて、あなたのためにとりなしておられます(ヘブル人への手紙7章25節)。あなたは決して一人で自分のために祈っているのではありません。
  • 守られること、取り去られることではありません。イエスは父に、あなたを世から取り去ってくださいとは願わず、悪から守ってくださいと願われました。要塞ではなく、武具を求めましょう。
  • 永遠とは、神を知ることです。雲の上でもなく、漠然としたご褒美でもありません。今から始まる、親密で人格的な関係です。
  • 教会の一致こそ、最良の証しです。人々にイエスを知りたいと思わせるのは、説教者でも賛美でもなく、違いを超えて互いに愛し合い、受け入れ合うクリスチャンたちの姿です。

あなたへの問いかけ

  • 試練の中で祈るとき、あなたはその困難「から」救い出されることを求めていますか、それともその困難の「中で」守られることを求めていますか。イエスが今、あなたのためにとりなしておられることを本当に信じるなら、あなたの祈りはどう変わるでしょうか。
  • 今週を振り返ってみてください。「祈りの課題」という名を借りた陰口はありませんでしたか。一致を守るために、赦しを求めるべき兄弟姉妹はいませんか。
  • あなたは本当に、人格ある方を知るように神を知ろうとしていますか。それとも、神についての知識を得ようとしているだけでしょうか。今週、この心と心の交わりに、どれだけの時間を割きますか。
  • 自分の快適さや権利が損なわれるときでも、他者を自分よりも大切な存在として見る覚悟がありますか(ピリピ人への手紙2章3節)。
  • 今週、十字架について思うとき、それはあなたにとって当たり前のことになっていますか。それとも、神があなたのために死ぬことを選ばれたという事実に、今もなお心を揺さぶられていますか。

引用された聖句

よくある質問

イエスが今、私のために祈っておられるというのは本当に聖書的なのですか。

はい、本当です。ヘブル人への手紙7章25節にはこうはっきりと書かれています。イエスは「いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられる」と、神のもとに近づく人々のために。ヨハネ17章はその先取りとも言えます。イエスはそこで、12人の弟子たちのためだけでなく(20節)、彼らのことばによって信じるすべての人々のためにも祈っておられます。それは今日のあなたのことです。

イエスが私の守りのために祈っておられるなら、なぜ今も試練を経験するのですか。

それは、イエスが父に、あなたを世から取り去ってくださいとは願わず(ヨハネ17章15節)、悪から守ってくださいと願われたからです。困難はクリスチャンの人生の一部です。イエスがあなたを守ってくださるのは、その困難の「只中」にあるサタンの支配からです。イエスが与えてくださるのは、耐え抜くための忠実さであって、免れるための快適さではありません。

なぜイエスは教会の一致をこれほどまでに強調しておられるのですか。

ヨハネ17章21〜23節によれば、クリスチャンの間の一致こそ、世界が目にすることのできる最も力強い証しだからです。あらゆるものが人々を分断するこの社会において、違いを超えて愛し合う共同体は、イエスのメッセージに信ぴょう性を与えます。この一致は自然に生まれるものではありません。壊れやすいものであり、互いに赦しを求め合うことによって守られていくものなのです。

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