はじめに
約束の地のすぐ近くにいながら、そこに入る直前に倒れてしまうことがあります。それはまさに民数記25章で起きていることです。イスラエルは荒野を渡り、モアブの平原、シティムに宿営しています。ヨルダン川の向こう岸には、すでにエリコが見えています。あと一歩で民は相続地に入るところでした。そしてまさにそこで、約束の地からわずか数キロのところで、二万四千人が神のさばきのもとに死んでいくのです。
この章は、あなたに切実な問いを突きつけます。神の祝福は本当のところ、どこから来るのでしょうか。教会に通っているから、聖書を読んでいるから、毎朝祈っているから、奉仕をしているからでしょうか。民数記25章の答えは、もっと単純で、もっと根本的です。あなたが祝福を受けるのは、あなたが神にとどまっているからです。日々、神との生きた関係の中を生きているからです。それ以外は何ひとつ成り立ちません。
この記事の構成
1. シティム:約束の直前の転落
物語は、ほとんど何気ないひとことから始まります。「イスラエルはシティムにとどまっていた。民はモアブの娘たちと淫らな行いを始めた」(民数記25:1-2)。民はモアブの偶像への供え物に招かれ、食事をし、バアル・ペオルの前にひれ伏します。この転落は二重です。性的な転落であり、霊的な転落です。それは突然、空から降ってくるのではありません。約束が目の前にあるからこそ安全だと思い込んでいる場所で、日々の積み重ねの中で徐々に定着していくのです。
あなたは神との歩みの中で多くを乗り越えてきていながら、ゴールまであとわずかというところで崩れ落ちてしまうことがあります。危険なのは、ある朝突然すべてを捨て去ることではありません。危険なのは、あなたを神から引き離すものとの小さな親しみを許し、そしてもうひとつ、さらにもうひとつと許してしまい、気づけば自分がどうやってそこにたどり着いたのかもわからないまま、偶像の食卓に着いてしまっていることです。
2. バラム:知っていながら金を選んだ男
民数記25章を理解するには、民数記22章から24章のバラムを思い起こす必要があります。バラク王は彼を雇い、イスラエルを呪わせようとします。バラムは三度試みますが、三度とも神はその呪いを祝福に変えてしまわれます。イスラエルが守られていたのは、非のうちどころがなかったからではなく、神との関係のうちを歩んでいたからでした。
バラムはそれを知っていました。それでも彼は、その知識を売り渡してしまいました。民数記31:16とヨハネの黙示録2:14は真相を明らかにしています。バラムはバラクに、イスラエルを淫らな行いと偶像礼拝へと誘い込み、内側から倒すよう助言したのです。ユダの手紙11は「報酬のためのバラムの迷い」について語っています。バラムは神のみこころを知っていながら、利益への欲が彼の判断を曇らせたのです。
正面から攻撃してこない敵がいます。あなたの信仰を捨てさせる必要すらありません。安逸さ、評価、お金、あなたの肉が喜ぶような話であなたを誘惑し、その腐食作用が働くままにしておくだけで十分なのです。目を覚ましていてください。
3. 神の怒りと指導者たちの責任
「主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった」(民数記25:3)。神はモーセに、民の首長たちを捕らえ、主の前でさらすようにと命じられます。なぜ首長たちなのでしょうか。それは、この淫らな行いが一夜にして定着したのではないからです。それは数日、おそらく数週間続いていました。そして責任ある立場の者たちは何も言わず、何も止めませんでした。彼らには罪を罪として名指しする務めがあったのに、口をつぐんでしまったのです。
神は聖なる方です。神の怒りは気まぐれではなく、悪に対する正しい神の正しい応答です。それは、時とともに鈍っていく人間の恨みのように薄れてはいきません。それは贖いを求めます。もしあなたが人を導き、教え、兄弟姉妹を担うように召されているなら、根づいてしまった罪に目を閉じることはできません。何も言わない優しさは、愛ではないのです。
4. ピネハス:御霊から来る熱心
モーセと民全体が会見の天幕の入り口で泣いている間に、あるイスラエル人が臆面もなくミディアン人の女を連れて入ってきます。アロンの孫、エルアザルの子ピネハスが立ち上がり、槍を取って二人を突き刺します(民数記25:6-8)。疫病は止まります。すでに二万四千人が死んでいました。
この行動は、個人的な怒りの発作ではありません。詩篇106:28-31はこう語ります。「彼はとりなしをした。それで、その疫病はやんだ。それは彼の義とみなされた。」ピネハスは、たぎる血によってではなく、御霊に押し出されて行動したのです。神は彼に「平和の契約」と、その子孫のための永遠の祭司職をお与えになります(民数記25:12-13)。「彼が自分の神のためにねたみを起こし、イスラエルの子らのために贖いをしたからである。」
次のことを心に留めてください。聖書的な熱心さは確かに存在しますが、それがほとんど私たちの手に委ねられることはありません。私たちは神に代わってさばきを行うようには召されていません。イエスは「隣人の中にある悪を憎め」とは言われませんでした。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われたのです。あなたに最も多く求められる熱心さとは、あなたが道を踏み外していたそのただ中で、神があなたに示してくださった恵みを、あなた自身が現すことなのです。
5. キリストにとどまること、祝福の唯一の根
イエスはヨハネ15章でこう言われます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしにとどまり、わたしもその人のうちにとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」あなたの努力も、あなたの祈りも、あなたの鍛錬も、実を生み出すことはできません。実は樹液から来るのです。その樹液とは、この関係にほかなりません。
イエスなしには、あなたは自分の罪の中に死んでいました(エペソ人への手紙2:1-3)。もし今日あなたが神の子と呼ばれているとしても、それはあなたが何かを勝ち取ったからではありません。イエスが十字架の上で、あなたに下るべきであった怒りを担われ、あなたを御父との生きた関係の中に置いてくださったからです。あなたが期待できる祝福は、あなたの働きぶりによるものではありません。それは、この結びつきによるものなのです。
覚えておきたいポイント
- 祝福は、宗教的な活動によって買い取れるものではありません。それは、あなたがキリストにとどまっていることから湧き出るものです。
- 霊的な転落は、一度に起こることはめったにありません。しばしばゴールまであとわずかというところで、小さな妥協の積み重ねによって定着していきます。
- 他者に対して責任を負う立場にある者は、恵みをもってではあっても、罪を隠さずはっきりと名指しする義務があります。
- 本物の聖書的な熱心さは、あなたの怒りからではなく、御霊から来ます。あなたの日々の使命は、あなたが受けた恵みを映し出すことです。
- 自分がこの関係から外れてしまったと気づいたら、すぐに戻ってください。告白し、キリストにあって赦しを受け、ぶどうの木のもとに帰ってください。それが、とどまるということです。
個人への適用
- 霊的な習慣を超えて、私は神との生きた関係の中で、本当は今どこにいるでしょうか。
- 何週間も見過ごしている「小さな」ことで、私をキリストから遠ざけているものはありませんか。
- 私は真理を知っていながら、それを個人的な利益のために犠牲にしているバラムのような者ではないでしょうか。
- もし神が私に人々を託してくださっているなら、私は勇気をもって物事を名指ししているでしょうか、それとも波風を立てないことを選んでいるでしょうか。
- 神との交わりから外れてしまったと感じるとき、私は神から逃げるでしょうか、それともすぐに神の御腕の中に戻るでしょうか。
引用聖句
- 民数記25章・シティムのイスラエル、バアル・ペオルの出来事、ピネハスのとりなし。
- 民数記22章から24章・バラムとバラク。
- 民数記31:8、31:16・バラムの死と、その邪悪な助言。
- 詩篇106:28-31・ピネハスが義とみなされたこと。
- ミカ書6:5・「バラクが何を企てたかを思い起こせ。」
- コリント人への第一の手紙10:6-8・これらのことは私たちへの戒めとして書かれている。
- ユダの手紙11・報酬のためのバラムの迷い。
- ヨハネの黙示録2:14・バラムの教え。
- ヨハネ15章・ぶどうの木と枝。
- ルカ17:1-2・つまずきを与える者へのわざわい。
- エペソ人への手紙2:1-3・私たちは自分の罪の中に死んでいた。
FAQ
なぜ神は民数記25章で、これほど厳しい裁きを命じられたのですか。
神の聖さと正義は選択肢ではないからです。民は単発の過ちにとどまらず、約束のただ中で、長く続く不品行を偶像礼拝と結びつけてしまいました。この懲らしめは罪の真の重大さを明らかにし、読者に、なぜイエスの十字架が、私たちに代わってそのような怒りを担うために不可欠であったのかを理解する備えとなります。
ピネハスの行動は、神の名による暴力を正当化するものですか。
いいえ、そうではありません。詩篇106:30に照らして読み直すと、この箇所はピネハスを、神の民の歴史の中で一度限りの瞬間において御霊に導かれた人物として描いています。新しい契約のもとでは、イエスは私たちに、愛すること、赦すこと、悪に悪をもって報いないことを明確に命じておられます。私たちに求められる熱心さは、個人的な正義の実行ではなく、愛の熱心さです。
具体的に、日々どうすれば神に「とどまる」ことができますか。
とどまることは、機械的な習慣ではありません。それは、御ことば、祈り、交わりによって養われる生きた関係であり、何よりも、罪が現れるたびに素早く神のもとに立ち返ることによって養われる関係です。あなたは告白し、キリストにあって赦しを受け、再び交わりの中を歩み始めます。この誠実な行き来こそが、とどまるということなのです。
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