はじめに
正直に言って、今「喜び」という言葉を使う人はどれくらいいるでしょうか?「喜ばしい」と聞くと、いつも笑っているお人好しを思い浮かべます。その結果、聖書に250回以上登場し、御霊の実の第二番目であり、神の臨在そのものを特徴づける言葉を見過ごしてしまいます。Daniel POTTIERは、Église Lille Métropoleのイエスの感情シリーズの最終回として喜びについて語ります。クリスチャン生活と結びつけられることがある大げさで外側だけの、少し無理した喜びではなく、もっと深く、根づいていて、安定した喜びです。状況に左右されない喜びです。イエスが死ぬ直前に父に願ったこと。ご自身の喜びがあなたの中に完全にあるように。それを取り戻すための4つの聖書的原則です。
メッセージの概要
1. 喜びは内なる状態である
- 私たちの文化では、喜びは目に見える表現と結びつけられます。笑い、熱意、興奮。聖書における喜びは、内なる安定、住まわれた静けさ、静かな確信に近いものです。
- 喜びは外側だけに現れるものではありません。無理に笑顔を作ることではありません。もっと深いもの。住まわれた静けさです。
- オランダの司祢で約40冊の著書を持つHenri Nouwenは、最も美しい定義の一つを与えてくれます。「幸福は自分に何が起こるかにかかっている。喜びは自分が誰であるか、何であるかにかかっている。」
- 喜びは性質の問題であり、気質や性格の問題ではありません。これはヨハネ17:13のイエスの祈りにつながります。「彼らが自分の中にわたしの喜びを、完全な喜びを持つために。」喜びの表現ではなく、彼らの深い性質の一部となる、本当に彼らの内にある喜びです。
2. 聖書の喜びは状況に左右されない
- イエスが「完全な」喜びについて話されるとき、その言葉は深く根づいたものを意味します。あなたが誰であるかに深く根づいた喜び、簡単には去らない喜びです。
- ヨハネ16:22で、告別の言葉のただ中。イエスは十字架で死ぬことを知っておられます。弟子たちに言われます。「同機に、あなたがたも今は悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そのとき、あなたがたの心は喜びます。そしてその喜びを奪い取る者はいません。」それは非常に深く根づいているので、状況に関係なく、誰も奪うことができません。
- 覚えておきたい定義:喜びとは、自分の中のすべてが「いいえ」と言う正当な理由があるときでも、人生に「はい」と言える能力です。
- 注意:これは「ポジティブシンキング」ではありません。ポジティブシンキングは自分の精神力で良い面を見ようとするもので、自己暗示や否認になりかねません。聖書の喜びは、あなたの力や性格に依存しません。それは一つの啓示から始まります。神がおられる、神は主権者である、すべての状況を支配しておられる。そしてこの啓示が、聖霊によって生まれた新しい性質をあなたの中に根づかせます。
3. 喜びは神との関係の安心感から生まれる
- これが中心的なポイントです。喜びは達成すべき目標ではなく、受け入れるべき臨在の結果です。
- ヨハネ15:9〜11:「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛のうちにいるでしょう。ちょうどわたしが父の戒めを守って、その愛のうちにいるように。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが完全になるためです。」
- 「神の愛のうちにいる」とは、神との関係の安心感を持つことです。神の愛はあなたの成績に依存しません。誰かが言いました。「私たちの人生で最大の誘惑は、神の愛を疑うことです。」私たちは自分の失敗にもかかわらずまだ愛されているか定期的に疑います。
- 聖書は「わたしの戒めを守れば、わたしはあなたを愛す」とは言っていません。「わたしがあなたを愛し、あなたがわたしを愛しているからこそ、戒めを守ることができる」と言っています。愛は従順に先立ちます。従順が神の愛を保証するのではなく、神に愛されていると確信しているからこそ従うことができるのです。
- 福音を逆の順序で取ると、罪悪感の下で、律法主義的に、すでに与えられているものを努力で得ようとして生きることになります。神の愛のうちにいるとは、神があなたの味方であり敵ではないという深い確信の中で生きることです(ローマ8:31)。あなたが地に落ちても、敗北しても、神はあなたの側におられます。喜びを失った人は、多くの場合、この関係の安心感を失っているのです。
4. 喜びは抵抗の行為になる
- ここではイエスの感情から離れ、「わたしがキリストを見ならっているように、あなたがたもわたしを見ならいなさい」と言ったパウロの例に移ります。
- ピリピ1:18(新改訳):「いずれにしても、見せかけであろうと、真実であろうと、キリストが宣べ伝えられています。わたしはそのことを喜んでいます。それだけでなく、喜び続けます。」
- 背景:パウロは獄中にいます。当時の牢獄は現代とは比べものになりません。外では人々が彼の不在を利用して中傷し、間違った説教をしていることを知ります。死刑が彼の人生にのしかかっています。それでも彼は言います。「私は喜びます。それだけでなく、喜び続けます。」
- 決定的なニュアンス:「私は喜びます」は反応です。「喜び続けます」は決意です。意図的な決断です。明日状況が悪化しようと、明日さらに制御できなくなろうと、私は決めます。喜び続けると。爆笑することではなく、神が支配しておられ、解決策があると内側で確信することです。
- 喜びを失わずに重荷を負うことは可能です。それは否認ではなく、キリストが主権者であるという確信です。喜びは絶望に対する戦いの行為になります。絶望を拒否し、落胆を拒否し、喜びに向かうと自らを位置づけます。
覚えておきたいポイント
- 聖書の喜びは、目に見える興奮、その場しのぎの笑顔、「ポジティブな態度」ではありません。キリストにある新しい性質に根づいた内なる静けさです。
- 幸福はあなたに何が起こるかにかかっています。喜びはキリストにあってあなたが誰であるかにかかっています。これらは混同してはならない二つの異なる現実です。
- イエスは死ぬ直前に父に願われました。ご自身の喜びが弟子たちに伝わるようにと。誰もその喜びを奪うことはできません。
- 喜びは神との関係の安心感から流れます。神の愛があなたの成績に依存しないという確信。愛は常に従順に先立ちます。
- 試練の中で喜びを選ぶことは否認ではありません。絶望に対する抵抗と戦いの行為であり、毎日新たに下す意図的な選択です。
個人への適用
- あなたが持っているクリスチャンの喜びのイメージは何ですか?無意識に、笑顔や興奮、感情的なパフォーマンスと結びつけていませんか?そのイメージはどこで学び、それは本当に聖書的ですか?
- 最近喜びを失いましたか?もしそうなら、何が喜びを奪ったのか特定してみてください。状況、失望、あるいはもっと深いところで、神の愛に対する安心感の喪失ではありませんか?
- 福音を「正しい順序」で取っていますか?神がすでに愛してくださっているから従っていますか?それとも愛されるために従おうとしていますか?その逆行はあなたの人生のどこに現れていますか?
- どの具体的な状況で、「私は喜びます」(反応)から「喜び続けます」(決意)に移る必要がありますか?今週どんな意図的な決断をしたいですか?
- 周りに、この喜びの理解を分かち合える人はいますか?疲れ果て、落胆し、「クリスチャンの喜び」を嘘っぽいものと思って遠ざかっている人はいませんか?
引用聖句
- ヨハネ17:13 · 「彼らが内にわたしの完全な喜びを持つために」
- ヨハネ16:22 · 「誰もあなたがたの喜びを奪うことはできない」
- ヨハネ15:9〜11 · 神の愛のうちにいる
- ローマ8:31 · 「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか」
- ピリピ1:18 · 「私は喜びます。それだけでなく、喜び続けます」
- コリント第一11:1 · 「わたしがキリストを見ならっているように、わたしを見ならいなさい」
- ガラテヤ5:22 · 喜び、御霊の実の第二
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よくある質問
幸福と聖書の喜びの違いは何ですか?
幸福はあなたに何が起こるかにかかっています。好ましい状況に結びついた感覚、良い知らせ、成功、楽しいひとときです。聖書の喜びは、何が起こるかではなく、キリストにあってあなたが誰であるかにかかっています。聖霊によって生まれた新しい性質であり、周りが崩壊しても残ります。だからこそパウロは、ローマの牢獄から死刑の下で「喜び続けます」と書くことができたのです。幸福は状況と共に消えることがありますが、喜びは消えません。
試練の中で「喜びを選ぶ」ことは、苦しみを否定することですか?
いいえ、それを区別することが重要です。「ポジティブシンキング」や自己暗示は、現実を否定してでもうまくいっていると自分を納得させることを求めます。聖書の喜びはそうではありません。喜びを選ぶとは、試練の中で爆笑することではありません。神が支配しておられ、主権者であり、解決策を持っておられる。たとえまだ見えなくても。という内なる確信を保つことです。それは否認ではなく、キリストが主権者であるという確信、信仰の行為であり、痛みからの逃避ではありません。
喜びを失ったと感じるとき、どうすれば取り戻せますか?
Daniel Pottierによれば、喜びを失った人は、多くの場合、神との「関係の安心感」を失っています。神がまだ愛してくださっているか疑い始め、努力でその愛を得ようとし、福音を逆の順序で取り始めたのです。喜びを取り戻すための最初の一歩は、この基本的な確信に戻ることです。神の愛はあなたの成績に依存しません。従う前に愛されているのであり、従うから愛されるのではありません。ヨハネ15:9(「わたしの愛のうちにいなさい」)とローマ8:31(「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか」)に戻りましょう。関係の安心感が回復されるとき、喜びが再び湧き上がります。
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