はじめに
数年前、あなたの妻があなたにイスラエル旅行をサプライズでプレゼントしてくれました。ティベリアに着いたあなたは、ガリラヤ湖畔のテラスに腰を下ろして食事をします。水面は穏やかで、すべてが静かです。あなたはこの湖を眺めながら、弟子たちが嵐に見舞われたヨハネによる福音書6章の場面を思い出します。そしてふと疑問がわきます。「こんなに穏やかな湖に、命を脅かすような嵐が本当に起こりうるのだろうか」と。
これは、ロイック・リシャールがシャペル・モメンタム(ヌーベル・ヴィ)での説教の冒頭で語ったエピソードです。彼はウェイターに、なぜテラスが湖面から5メートルもある壁の上に建てられているのかを尋ねました。その答えに彼は言葉を失いました。ガリラヤ湖は山々に囲まれており、そのために独特の気候が生まれ、非常に激しい風によって高さ4メートルから5メートルにもなる波が起こることがあるというのです。あの壁は、まさに防護壁だったのです。
その日、ロイックはノーベル賞を受賞したドイツの物理学者であり、量子力学の創始者の一人であるヴェルナー・ハイゼンベルクの言葉とされるものを思い出しました。「科学という杯の最初のひとくちはあなたを無神論者にするが、その杯の底では神があなたを待っている」というものです。私たちは時に、聖書を否定するのに十分な知識を持っていると思い込みますが、実際にはただ十分に深く掘り下げていないだけなのです。
それでは、このメッセージのもとになった箇所を一緒に読んでみましょう。
「夕方になったので、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして舟に乗り、湖の向こう岸にあるカファルナウムを目指した。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに戻っておられなかった。強い風が吹いて湖が荒れ始めた。弟子たちが二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。すると、イエスは彼らに、『わたしだ。恐れることはない』と言われた。弟子たちは喜んでイエスを舟に迎え入れようとしたが、舟はすぐに目指す地に着いた。」
人生には嵐がつきものです。ある嵐は、生まれて数か月の我が子が歯が生え始めて苦しみ、あなたが代わってやりたいと思うほどの痛みとしてやって来ます。また別の嵐は、もっと後になってからやって来ます。年齢がどうであれ、問いは変わりません。嵐が襲うとき、イエスはどこにおられるのか、という問いです。
記事の構成
1. 私たちの人生は、穏やかな散歩よりも荒れた海に似ている
2. イエスが嵐を静めるときもあれば、嵐の上を歩かれるときもある
3. 「わたしだ」 イエスは嵐のただ中でご自身が誰であるかを明らかにする
4. すべてか無か イエスを松葉杖としてではなく、全面的に受け入れる
1. 私たちの人生は、穏やかな散歩よりも荒れた海に似ている
聖書において、海と嵐には象徴的な意味が込められています。嵐は悪の力、闇の力、私たちが制御できず理解できないまま人生の中で荒れ狂うすべてのものを表しています。一方、海は目に見えない危険を象徴しています。陸の上であれば、動物に襲われるときにも、それが近づいてくるのを見る余地があります。しかし海の上では、あなたの乗る舟の真下から突然襲いかかってくることがあり、まったく何も見えないまま危険にさらされるのです。
ロイックは率直にこう語ります。私たちの人生は、公園を歩くようなものよりも、荒れた海での冒険にずっと似ている、と。もちろん、すべてが穏やかに見える季節もあります。自分がすべてを制御し、うまく管理できていて、神を必要としていないかのように感じられる季節です。しかし、その季節にこそ本当の危険が潜んでいます。「自分だけで十分にやっていける」という錯覚こそが危険なのです。
そして嵐がやって来ます。あなたの最初の反応は、すべてが止まってほしい、嵐が消えてほしい、状況が変わってほしいというものでしょう。それは人間として当然であり、正当な思いです。
2. イエスが嵐を静めるときもあれば、嵐の上を歩かれるときもある
聖書には他にも、イエスが嵐に向かって「静まれ」と言われ、波に静まるよう命じると、すべてが一瞬で穏やかになる場面があります。これは私たちの人生にも起こります。それは本当に驚くべきことです。ロイックは、波が静まるように、状況が変わるようにと、信仰をもって祈ることを勧めています。それは私たちが美しい言葉を持っているからでも、豊かな信仰を持っているからでもなく、私たちの神が全能であり、その主権の中で、ご自分の民の祈りに応じて働くことをお選びになっているからです。だから祈ってください。信仰をもって祈ってください。
しかしヨハネによる福音書6章では、イエスは嵐を静めません。波に静まるようにとも命じません。では何をされるのでしょうか。イエスは水の上を歩かれるのです。そして「歩く」と訳されたギリシャ語の言葉は、散歩をするというような、とてもくつろいだニュアンスを持っています。イエスは、弟子たちを恐怖に陥れているすべてのものの上を、散歩するように歩いておられるのです。
この箇所には、イエスが嵐と格闘しているとは一言も書かれていません。波の上にとどまろうと必死になっているとも書かれていません。イエスは散歩をしているのです。そして言葉を発することなく、こう語っておられます。「わたしがすべてを支配している」と。時に神は、あなたの状況を変えるのではなく、どんな状況もご自身の手を逃れることはないということを示してくださるのです。
3. 「わたしだ」 イエスは嵐のただ中でご自身が誰であるかを明らかにする
嵐のただ中で、イエスは弟子たちにこう言われます。「わたしだ。恐れることはない。」ギリシャ語では、この「わたしだ」はエゴー・エイミ、文字どおりには「わたしはある」という言葉です。文法的には、フランス語で「わたしはある。恐れることはない」とそのまま訳してもあまり意味をなさないため、訳者たちは「わたしだ」と訳しました。しかし「わたしはある」という表現には、大きな重みがあります。
これは聖書の中で初めて登場する表現ではありません。出エジプト記では、モーセが柴の中で燃える炎の中で神と出会います。神はモーセに、イスラエルの民を解放しに行くよう命じます。モーセはこう答えます。
「わたしがイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何か』とわたしに尋ねるでしょう。わたしは彼らに何と答えればよいのでしょうか。神はモーセに言われた。『わたしは、有って有る者。』そして続けてこう言われた。『イスラエルの人々にこう言いなさい。「わたしは有る」という方が、わたしをあなたがたのもとに遣わされました、と。』」
イエスが「わたしだ。恐れることはない」と言われるとき、それはこの御名への直接的な言及です。イエスは神です。イエスは永遠の神、創造主、全能者であり、初めも終わりもなく、はじめから存在しておられた方です。そしてイエスはそれを言葉で語るだけでなく、嵐の上を歩くことによって証しされたのです。
ロイックは、ここに興味深い対比があることを指摘します。旧約聖書でモーセに語られた「わたしは有る」は、「あなたの履き物を脱ぎなさい。ここは聖なる場所だから」というものでした。それは神の聖さと完全さ、人と創造主との隔たりを示していました。しかしここでイエスが語る「わたしだ」は、すぐに「恐れることはない」という言葉に続きます。それはまるでイエスが弟子たちのもとに近づいて、こう言っておられるかのようです。「わたしは神だ。わたしは全能だ。あなたがたが学んできた、あの恐るべき神についての教えはすべて本当だ。しかしわたしは今、ここにいる。近くにいる。そしてあなたがたを愛している。あなたがたの人生には計画がある。」
4. すべてか無か イエスを松葉杖としてではなく、全面的に受け入れる
この「わたしだ」という言葉は、イエスが超越した神であり、まったく他のものとは異なる神であり、あらゆるものの源であり、あらゆる存在の原因であることを意味しています。イエスはあまりにも別次元の方であるため、イエスを受け入れることを選ぶとき、私たちは本当の選択の前に立たされます。それは、すべてか無か、という選択です。
ロイックははっきりとこう語ります。あなたはイエスを、ただ助けてもらうためだけに、ただ状況を変えてもらうためだけに、うまくいかないときの松葉杖としてだけ、ただ嵐を静めてもらうためだけに受け入れることはできません。それでは、イエスがどういう方であるかということと噛み合わないのです。もしあなたが「あなたの手だけがほしい。でも自分の人生をあなたに渡したくはない」と言うなら、あなたはこの出会いの本質を見逃してしまいます。大切なのは、こう言うことです。「イエスよ、わたしはすべてをあなたに差し出したい。あなたが良い父であることを知っているから、自分のために取っておきたい領域は一つもない。」
あなたはすでに、神が自分の人生の中で働かれるのを見たことがあるかもしれません。嵐が静まったのを見たことがあるかもしれません。しかしまだ、「イエスよ、わたしはあなたにすべてを差し出します」と言う一歩を踏み出したことがないかもしれません。今日が、その日になり得ます。
覚えておきたいポイント
- 嵐は闇の力と、あなたの制御を超えたすべてのものを象徴しています。海は、目に見えずにやって来る危険を象徴しています。
- イエスが波を静めてくださるようにと信仰をもって祈ることは正しいことです。神は全能であり、ご自分の民の祈りを通して働かれます。
- しかし時にイエスは嵐を静めるのではなく、その上を歩かれます。それは、どんな状況もイエスの手を逃れることはないと示すためです。
- 「わたしだ」(エゴー・エイミ)は、出エジプト記3章の「わたしは有る」への直接的な言及です。イエスは嵐のただ中で、ご自分が神であることを明らかにされます。
- イエスに従うとは、すべてか無かということです。緊急時のための松葉杖ではなく、あなたの人生全体の主として受け入れることです。
実践のための問いかけ
- あなたが今、通り抜けている嵐は何ですか。理解できない状況、感情、出来事はありますか。
- あなたは今、神をもう必要としていないと感じるほど穏やかな季節の中にいますか。それはあなたの心について何を語っていますか。
- あなたはこれまで、イエスが嵐を静めてくださるようにと信仰をもって祈ったことがありますか。それとも、ただ嵐が過ぎ去るのを受け身で待っていますか。
- もし今日、イエスがあなたの嵐を静めるのではなく、その上を歩かれるとしたら、それでもあなたはイエスを信頼することができますか。
- あなたの人生のどの領域で、まだイエスに「はい」と言ったことがありませんか。仕事、お金、人間関係、将来、傷ついた過去などです。
引用された聖句
- ヨハネによる福音書6章16-21節 ・ イエスが嵐の中の弟子たちのもとへ水の上を歩いて近づかれる場面
- 出エジプト記3章13-14節 ・ 神がモーセに「わたしは有って有る者」としてご自身を現される場面
よくある質問
なぜイエスはいつも私たちの嵐を静めてくださらないのですか。
それは、イエスの最優先事項が、まずあなたの状況を変えることではなく、ご自分が誰であるかをあなたに示すことだからです。ヨハネによる福音書6章で、イエスは嵐を黙らせるのではなく、その上を歩くことを選ばれました。それによって、この世のどんな力もイエスの手を逃れることはないと弟子たちに示すためです。時に神は嵐を静めてくださいます。また時には、ご自身が支配しておられることを思い起こさせながら、あなたを嵐の中で歩ませてくださいます。
ヨハネによる福音書6章20節の「エゴー・エイミ」とは何を意味しますか。
これはギリシャ語で文字どおり「わたしはある」を意味する表現で、日本語の文法に合わせて「わたしだ」と訳されています。しかしこの表現は、出エジプト記3章14節で神がモーセにご自分の名として語られた「わたしは有って有る者」に直接つながっています。嵐のただ中でこの言葉を語ることによって、イエスはご自身の神性を宣言し、永遠で全能の神としてご自身を示しておられます。
イエスを「中途半端」に従うことはできますか。
ロイック・リシャールは、はっきりと「できない」と答えます。緊急のときだけイエスを松葉杖のように用い、それ以外の人生の領域は自分でコントロールし続けることは、イエスが求めておられることではありません。イエスは主であり、超越した神です。イエスを受け入れるとは、こう言うことです。「わたしはすべてをあなたに差し出します。自分のために取っておきたい領域は一つもありません。」
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