実を結ばない無花果の木:悔い改めへの招き

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はじめに

ニュースを開くと、また新しい悲劇が目に飛び込んできます。テロ事件、事故、病気によって誰かの命が突然奪われる。そんなとき、真っ先に浮かぶ問いは「良い神様が、なぜこんなことを許すのだろう」というものです。中には、この苦しみこそが神が存在しない証拠だと考える人もいます。

ルカ13:1-9では、人々がイエスのもとに来て、ある衝撃的な出来事を伝えます。ピラトがガリラヤ人たちを、まさに礼拝を捧げていた最中に殺し、その血を彼らの捧げ物の血と混ぜたというのです。政治的にも宗教的にも許しがたい暴挙でした。この出来事に対してイエスが語られたことは、あなたを戸惑わせるかもしれません。イエスは神の正義について一般論を語ろうとはされません。むしろ、あなた自身に問いを向けてこられます。「悔い改めなければ、あなたがたも同じように滅びます」と。そして続けて、三年間実を結んでいない無花果の木のたとえ話をされます。その木は、園丁の忍耐という猶予の中でかろうじて生かされているのです。

苦しみを前にして、イエスは安心させてくれる説明も、心地よい神学も与えてはくれません。ただこう言われます。「態度を変えなさい」と。滅びは目前に迫っており、神の忍耐がどれほど大きくても、限りがあるのです。

この記事の構成

1. 悲劇を前にして、イエスはあなた自身に問いを向けられる

イエスの時代、誰かが暴力的に、あるいは突然亡くなると、多くの人はこう考えました。「これは神の裁きだ。彼はほかの人よりも罪深かったに違いない」。今日のパリでは、むしろ逆の考え方が主流です。80歳、85歳まで生きるのは当然の権利だと信じられています。もし誰かが若くして命を奪われたら、それは世界が不公平だから、あるいは神など存在しないからだ、と考えるのです。

イエスはそのどちらの見方も認めません。イエスは問いそのものをずらします。「なぜこのガリラヤ人たちが死んだのか」とは言われません。「あなたはどうですか。あなたは神の前で自分の人生をどう生きていますか」と問われるのです。ある説教者は率直にこう語ります。「イエスの言葉を聞くとき、あなたは居心地の悪さを覚えるはずです。それは有益な居心地の悪さなのです」と。

最近、ある友人が説教者に、神について一切聞きたくないと頑なに拒む男性との会話を語りました。深く尋ねてみると、その本当の理由は16歳のときにさかのぼるものでした。とても高齢で、彼にとってかけがえのない存在だった祖父が亡くなったのです。それから25年経った今も、その男性はその悲劇こそ神が存在しない証拠だと信じ続けています。しかしイエスは、その結論を退けられます。イエスはあなたを、神の前にただ一人立たせ、別の問いを投げかけてこられます。「なぜ自分ではなかったのか」と。

2. 悔い改めとは、日々生きる方向転換のこと

ここでイエスが用いる言葉には力があります。「悔い改める」とは、方向を転換することです。聖書によれば、私たちの本来の状態は神から逃げ、間違った方向へ走ることです。それはあからさまな反抗として現れることもあれば、宗教的な体裁をまとって現れることもあります。しかし結果は同じで、進む方向が間違っているのです。

悔い改めとは、何よりもまず感情のことではありません。それは考え方の変化、態度の変化、視点の変化です。多くの場合、それは一つの祈り、悔い改めの祈りから始まり、そこから悔い改めの人生が動き出します。しかし、悔い改めが日々の生き方にならなければ、まだ深く根を下ろしてはいないのです。

ある説教者は、とても個人的な例を語ります。彼は最近、義理の両親に対する自分の態度を本当に変える必要があると気づかされました。彼は赦しを求め、彼らを見る新しい視点を神に願わなければなりませんでした。悔い改めは「大きな」罪だけのものではありません。それは日々の心の訓練なのです。心の中の間違った動き、不公平な判断、きつすぎる一言に気づき、その場ですぐに方向転換すること。

悔い改めが本当に心の中で働いている、その確かなしるしとは何でしょうか。それは、周りの人が気づくということです。あなたは職場で「間違えました、ごめんなさい」と言える人として知られていますか。それとも、決して自分を曲げない人として知られていますか。この小さな勇気こそ、何よりも尊い実りなのです。

3. 無花果の木のたとえ:神の忍耐は永遠ではない

そこでイエスは、続けてたとえ話を語られます。ある人がぶどう園に無花果の木を植えました。三年間、実を探しに来たのに何もありません。彼は園丁に言います。「切り倒してしまえ。土地を無駄に消耗させているだけだ」。しかし園丁はこう願い出ます。「ご主人様、今年もこのままにしてください。周りを掘り起こし、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、結ばなければそのとき切り倒してください」。

聖書の中で、無花果の木はしばしば神の民、イスラエルを表し、父なる神が期待される実を結ぶよう召された存在です。ですから、このたとえには共同体的な意味合いがあります。しかし文脈を見ると(イエスはこの直前に「悔い改めなければ」と三度繰り返しておられます)、個人の問題からもそう遠くはありません。あなたも私も、このたとえの中にいるのです。神が期待される実とは、非の打ちどころのない道徳的完璧さではありません。それは、御霊の働きが心の中にはっきりと現れる選択、言葉、行いです。そして、その筆頭にあるのが、勇気ある悔い改めなのです。

持ち主は忍耐を失いかけています。三年は長い時間です。園丁は一年の猶予を勝ち取ります。よく覚えておいてください。これは猶予であって、期限そのものが取り消されたわけではありません。聖書の神は忍耐深く、その忍耐は計り知れないほど大きなものです。すべてのクリスチャンがそれを証しできます。ある気づきに至るまで、何年もかかることがあります。神はマラソン走者のように、長い目で歩まれます。短距離走者ではありません。しかし、その忍耐は時間的に無限ではありません。悔い改めを拒み続ける者が、いつか責任を問われる時が来るのです。

ですから、結論は明らかです。神の忍耐に甘えてはいけません。今日、昨日よりも悔い改めに敏感な自分でありたいと願いましょう。過ちと悔い改めの間の距離を縮めましょう。一時間前に理不尽に怒ってしまったのなら、今すぐ謝りに行きましょう。理想を言えば、悔い改めが過ちよりも先に来ること、つまり悪い動きが来るのを感じた瞬間に、その前に方向を転換することです。

4. 真のガリラヤ人を見つめることで、悔い改める勇気が生まれる

最初に読んだときには気づきにくい一つの細部があります。イエスのもとに来た人々は、血を捧げ物と混ぜられたガリラヤ人たちの話を伝えます。そしてイエス自身もガリラヤ人であり、まさに同じ運命をたどることになります。イエスの血もまた、この上なく冷酷な政治的不正義のゆえに、犠牲として流されるのです。

イエスの死は、歴史上最大の不正義です。しかし同時に、それは悔い改めへの扉を開く鍵でもあります。殺されたガリラヤ人たちを前にして、あなたはこう思うはずです。「これは自分にふさわしい報いだ。なぜ自分ではなかったのか」と。そして死に渡されたイエスを前にして、あなたは理解するはずです。誰かがあなたの代わりにその場所を取ってくださったのだと。「ほかの人よりも罪深かった」のではなく、むしろ唯一罪のない、ただお一人の義なるガリラヤ人が。

無花果の木のために願い出た園丁も、偶然そこにいるのではありません。聖書は、イエスを今日もあなたのためにとりなしてくださる方として示しています。あなたの根の周りを忍耐強く掘り起こし、あなたがようやく実を結ぶことができるように、あなたの人生に肥やしを与えてくださる方として。

ここに、悔い改めを人間的に可能にする二つの視点があります。一つは、罪人であるあなたに命を与えるために死なれたイエスを見つめること。もう一つは、年月をかけてあなたの心を耕し続けてくださる、生きた園丁としてのイエスを見つめること。この二つの姿を心に留めておくことで、あなたは自分の過ちを認め、赦しを求め、引き返す力と勇気を見出すことができるのです。

覚えておきたいポイント

  • 他者の苦しみを前にして、本当に問うべきは「なぜあの人が」ではなく、「なぜ自分ではなかったのか。自分は悔い改める備えができているだろうか」ということです。
  • 悔い改めとは、単なる感情や一度きりの出来事ではありません。日々生きる方向転換なのです。
  • 無花果の木のたとえは、あなた自身に関わるものです。神は実を期待しておられ、勇気ある悔い改めこそが何よりの実りです。
  • 神の忍耐は量として計り知れないほど大きいものですが、時間的には終わりがあります。それに甘えてはいけません。
  • 真のガリラヤ人であるイエスは、あなたの代わりに死に、園丁のようにあなたのためにとりなしてくださっています。イエスを見つめることによって、悔い改めが可能になるのです。

あなた自身への問いかけ

  • 最近、どんな悲惨なニュースを前にして、神に目を向けるどころか、目をそらしてしまいましたか。
  • あなたが今、過ちを犯してからそれを認めるまでに、どれくらいの時間がかかっていますか。今週、その差を縮めるために何ができるでしょうか。
  • あなたの家族や身近な人の中で、あまりに長い間、あなたからの悔い改めの言葉を待っている人はいませんか。もし父なる神の忍耐に限りがあると知ったら、あなたはどうするでしょうか。
  • あなたは職場や家庭で、「間違えました」と言える人として知られていますか。それとも決して自分を曲げない人として知られていますか。
  • 今週、五分だけ時間を取って、イエスの二つの姿を見つめてみてください。あなたの代わりに屠られた小羊であり、あなたの根の周りを忍耐強く掘り起こしてくださる園丁であるイエスを。それはあなたの心にどんな変化をもたらすでしょうか。

引用された聖句

  • ルカ 13:1-9 ・ ピラトに殺されたガリラヤ人たちと、無花果の木のたとえ。
  • ルカ 12 ・ 前章の文脈:「夜の盗人のように」目を覚ましていることへの招き。

よくある質問

ルカ13章の無花果の木のたとえは何を語っているのですか。

ある人がぶどう園に無花果の木を植えます。三年間実を結ばなかったので、切り倒そうとします。しかし園丁が一年の猶予を勝ち取ります。周りを掘り起こし、肥やしを与えるというのです。イエスはこれを用いて、二つのことを同時に語られます。神は御自分の民の人生に、正当に実を期待しておられること、そして神は忍耐深いが、それは無限ではないということです。

ルカ13章によれば、「悔い改める」とは具体的にどういうことですか。

悔い改めるとは、まず罪の意識を感じることではありません。それは方向転換することです。神の前で間違った方向に進んでいることを認め、積極的に神に向き直ることです。それは一つの祈りから始まりますが、日々の生活の中で生きられるものであり、過ちとその過ちを認めることの間の距離を縮めていくことです。

なぜイエスはルカ13章でガリラヤ人たちの死について語られたのですか。

人々がこの悲劇をイエスに伝えたのは、おそらく犠牲者たちの罪深さについての説明を期待していたからです。しかしイエスはその議論を拒まれます。彼らがほかの人より罪深かったとも、無実だったとも言われません。イエスは問いを、話を聞いている人々自身に向けられます。同じ結末が、私たちを不意に襲うこともあり得るのです。唯一の課題は、神の忍耐がまだ続いている今日、あなたが悔い改めることなのです。

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