はじめに
新しい年の始まりには、良い決意を立てたくなるものですね。それは自然なことですし、時には役に立ちます。けれども聖書は、どんな立派な決意よりも確かで、生涯あなたを支え続ける養いを差し出しています。
第一ペテロ2章1〜3節で、使徒ペテロは世界中に散らされたクリスチャンたちにこう書いています。「あなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善、ねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによっておのおの救いに至るまで育つためです。あなたがたはすでに主の恵み深さを味わったのですから。」
わずか三節ですが、はっきりとした二つの動きがあります。神を知らない人々の生き方を、妥協なく脱ぎ捨てること、そしてあなたの主のみことばを、心から慕い求めること。この二つが合わさって、あなたにとって欠かせない養いの姿を描き出しています。
メッセージの構成
1. 神を知らない人々の生き方を、妥協なく脱ぎ捨てる(1節)
ペテロは力強い動詞から始めます。「捨てなさい」。何を捨てるのでしょうか。「すべての悪意、すべての偽り、偽善、ねたみ、すべての悪口」です。ギリシア語ではこれらの言葉の多くが複数形になっています。偽善の数々、ねたみの数々、あらゆる形の悪口。まるでペテロが、神を知らない人間の本性は驚くほど多様な形で悪を生み出すことを見抜いているかのようです。
「捨てる」という言葉は強い意味を持ちます。文字通りには脱ぎ捨てる、身から取り去るという意味です。これらを次のためにクローゼットにしまっておくのではありません。二度と着ることのない古い服のように、きっぱりと脱ぎ去ることです。妥協のない、徹底した脱ぎ捨てです。
なぜこれほど徹底した要求なのでしょうか。神を知らない人々の生き方は、腐りやすく、毒を含んでいるからです。その直前の第一ペテロ1章23〜25節で、ペテロはこう述べています。「人はみな草のようで、その栄光はみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」もしあなたが、神を知らない世の価値観や声や優先順位で人生を築くなら、あなたの人生が枯れていっても不思議ではありません。
語り手はここで印象的な例を挙げています。19世紀末のアメリカでは、牛乳に水や石灰を混ぜて量を増やす「不純な牛乳」が出回っていました。多くの子どもたちが重い病気にかかり、命を落とす子さえいました。人間の悪意は、食べ物の中にまで入り込むのです。霊的な面でも同じことが言えます。神を知らない人々の生き方は、あなたを傷つけ、病気にし、いのちを奪いかねない、不純な養いなのです。
この脱ぎ捨ては、また、本物の愛のための条件でもあります。前の節(第一ペテロ1章22節)で、ペテロはあなたが「まことの兄弟愛のために、真理に従うことによってたましいを清め」るよう召されていると書いています。悪口やねたみ、偽善があなたの心を占めている限り、この愛を生きることはできません。
2. あなたの主のみことばを、心から慕い求める(2〜3節)
脱ぎ捨てる、確かにそうです。けれどもペテロは、あなたを手ぶらのままにはしません。すぐに、満たすべきものを差し出します。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」
すばらしい比喩です。ここでは、赤ん坊の食べ物と大人の固い食物を対比しているのではありません。他の箇所とは違います。ペテロが思い描いているのは母乳です。生まれたばかりの日々、赤ちゃんが生き、育つために必要なすべてを与える、完全な栄養です。特に生後三日間の乳は「初乳」と呼ばれ、自然の免疫成分を豊富に含んでいます。
母乳で育つ赤ちゃんが体重を取り戻すのは、離乳食や特別な食事を与えられたからではなく、母親の乳の中にすでに必要なすべてが含まれているからです。それは「オールインワン」の栄養です。同じように、神のみことばは、あなたを支え、信仰の中で成長させるために、それだけで十分な養いなのです。
この乳は「純粋な」、「混ぜ物のない」ものと言われています。付け加えもごまかしも、薄めることもありません。聖書があなたのもとに届くために、人間の手による付け足しは何一つ必要ないのです。聖書はそれ自体で、生きて永遠に変わることのない神のみことばです。
では、どのようにこのみことばを慕い求めればよいのでしょうか。生まれたばかりの子が乳を慕い求めるように、です。若いお母さんとその赤ちゃんを見てみてください。赤ちゃんがお腹を空かせているとき、そこに迷いはありません。求め、泣いて訴え、飲むまでは決して落ち着きません。ペテロがあなたの内に呼び起こそうとしているのは、まさにこの飢え渇きです。聖書に対する、切実で、しつこいほどの願い。満たされるのは、養われたときだけです。
なぜこれほどまでにこのみことばを慕い求めるべきなのでしょうか。理由は二つあります。
- みことばは朽ちることなく、永遠だからです。 あなたが霊的に死んでいたときに、あなたを新しく生まれさせたのはこのみことばによってでした(第一ペテロ1章23節)。あなたを成長させるのもこのみことばによってです。あなたを支え続けるのも、このみことばなのです。
- あなたはすでに、主の恵み深さを味わったからです。 「味わったのですから」という言葉は、条件ではなく、事実の確認です。あなたはすでにイエスの恵み深さを経験しているのですから、そのみことばをもっと求めたいと思うのは当然のことです。あなたが聖書を読むのは、義務を果たすためでも、福音派の慣習だからでもありません。あなたの主を愛しているから読むのです。
その目的は2節に示されています。「それによっておのおの救いに至るまで育つため」です。単に霊的に「持ちこたえる」ことだけが目的ではありません。神があなたのために備えておられる大いなる救いに向かって、成長していくことです。「イエスは私の罪のために死なれた。あとは静かに天国を待つだけ」という受け身の信仰生活で満足してしまうなら、神のご計画からはずれてしまいます。真のクリスチャンはこう言います。「私の主がこれほど恵み深いお方だからこそ、主が与えてくださった救いの中で、私はもっと成長していきたい。」
身近な例えが理解を助けてくれます。ある種の食べ物が、あなたの肌の色つやや香りを変えると言われるなら、なおのこと、神のみことばは、あなたの人生にあなたの救い主の色と香りを与えることができます。毎日聖書によって養われることは、周りの人があなたに見るものを、キリストご自身に描き変えていただくことなのです。
覚えておきたいポイント
- クリスチャンであるとは、1月の良い決意を立てることではありません。朽ちることのない種によって新しく生まれた者として、揺るがぬ歩みを続けることです。
- 神を知らない人々の生き方(悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口)は、不純な養いです。それはあなたの人生を傷つけ、まことの兄弟愛を妨げます。
- ペテロはこれらを脱ぎ捨てるようあなたに求めています。妥協のない、徹底した脱ぎ捨てです。取っておく余地はありません。
- 神のみことばは、あなたにとって純粋な乳、欠かせない養いです。あなたを支え、成長させるために、それだけで十分です。
- 本当の原動力は、罪悪感でも宗教的な習慣でもありません。すでに味わった、恵み深い主への愛です。
- このみことばは、あなたを救いに至るまで成長させます。あなたを救ってくださる神にふさわしい、壮大なご計画です。
個人的な適用
少し静かな時間を取り、次の問いに正直に向き合ってみてください。
- 一週間のうちで、私が最も多く触れている言葉は何でしょうか。SNS、ドラマ、ニュース、同僚の意見、それとも神のみことばでしょうか。
- まだクローゼットにしまい込んで、いつでも取り出せるようにしている「悪口」や「ねたみ」、「偽善」はないでしょうか。それを妥協なく脱ぎ捨てる備えはできているでしょうか。
- 私が聖書を読むのは、罪悪感からでしょうか、福音派の慣習だからでしょうか、それとも恵み深い主を愛しているからでしょうか。
- 今週、私はみことばにどんな機会を用意するでしょうか。個人的な礼拝の時、家族での聖書の時間、週のグループ、日曜日の説教でしょうか。
- 今年、私は神の前にどんな大きな期待を掲げる勇気を持つでしょうか。勝利、確かな成長、他の人の信仰を励ます歩みでしょうか。
引用された聖句
- 第一ペテロ2章1〜3節・悪を捨て、純粋なみことばの乳を慕い求める。
- 詩篇34篇5〜10節・「主の恵み深いことを味わい知れ。」
- 第一ペテロ1章22節・まことの兄弟愛のためにたましいを清める。
- 第一ペテロ1章23〜25節・朽ちることのない種、みことばによって新しく生まれる。
- 第一ペテロ5章10〜11節・あらゆる恵みに満ちた神が、あなたを整え、力づけ、強めてくださる。
よくある質問
第一ペテロ2章2節の「純粋な、みことばの乳」とはどういう意味ですか。
ペテロは母乳の比喩を用いて聖書を表しています。この乳は「純粋」(混ぜ物がなく、改ざんされていない)であり、「霊的」(直訳すると「みことばの」)です。ここでは、他の箇所でパウロが行っているような、乳と固い食物の対比を意図してはいません。ペテロが強調しているのは、聖書がそれだけで十分な養いであるということです。母乳が生まれたばかりの赤ちゃんに十分であるように、聖書は霊的に生き、成長するために必要なすべてを含んでいます。
本当にすべての悪口を捨てるべきなのでしょうか。それとも比喩的な表現ですか。
ペテロはとても具体的です。彼が用いている動詞は、服を脱ぎ捨てる動作を思わせます。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を、それも複数形で、あらゆる形において、身から取り去るよう求めています。これは詩的な比喩ではありません。まことの兄弟愛のための場所を作るために、具体的で妥協のない決別を求める呼びかけなのです。
みことばへの慕い求めを、具体的にどう育てればよいですか。
語り手は、共に育んでいくべき四つの機会を挙げています。主とじかに向き合う定期的な個人礼拝の時間、夫婦や家族での聖書の朗読と祈りの時間、互いにみことばを教え合う週のグループ、そして日曜日の説教です。どれか一つだけで十分ということはありません。これらが合わさることで、時間をかけてあなたを成長させる規則正しい歩みが築かれます。
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