父はあなたが方向転換するとき、走り寄ってくださる

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はじめに

あなたの心の奥には、この世界の何ものも本当には満たしてくれなかった、愛への渇きがあります。両親も、配偶者も、子どもたちも、友人たちも、たとえ心から愛してくれていたとしても、その渇きを満たすことはできません。この渇きは、人間としてのあなたの本質の一部です。そして愛が欠けているとき、あなたの内側で何かが死にはじめてしまうのです。

かつてプロイセンの皇帝フリードリヒ二世は、誰からも話しかけられなかった赤ちゃんが、自然にどんな言葉を話すようになるのかを知りたいと考えました。この実験は悲惨な結果に終わりました。愛情も、触れ合いも、優しい言葉も与えられなかった子どもたちの多くは、言葉を話せるようにならず、心の発達に深刻な遅れが生じ、中には命を落とす子どももいました。愛がなければ、ゆりかごの中ですでに死が始まるのです。

あなたが探し求めているこの無限の愛は、神様の御前にしか見出すことができません。ルカの福音書15章11〜24節で、イエス様は放蕩息子のたとえ話を通して、父なる神様の愛の四つの姿を見せてくださいます。与える愛、あなたを自由にする愛、あなたの帰りを待つ愛、そしてあなたが方向転換するその瞬間に、走り寄ってくる愛です。

説教の構成

1. 与えてくださる神様の愛

「ある人に息子が二人あった。弟が父に言った。『お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください。』それで父は財産を二人に分けてやった」(ルカの福音書15章11〜12節)。

父は与えます。交渉することも、駆け引きすることも、責めることもありません。これが神様の姿です。神様はあなたにすべてを、豊かに与えてくださいます。あなたのいのち、あなたの息、あなたを取り巻く創造の世界、季節、雨、収穫、そして今夜あなたが食べるもの。何ひとつあなた自身から生まれたものはなく、すべては神様から来ているのです。使徒パウロもルステラの人々にこう語っています。「神様は、恵みをお与えになり、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を豊かに与えて、あなたがたの心を喜びで満たしてくださったのです」(使徒の働き14章17節)。

説教者は、心に響くたとえを語ります。ある友人が、二匹の小さなカメのために立派な水槽を作りました。まさに宮殿のようなものでした。日陰があり、休める小さな池があり、あちこちに心地よい隠れ場所がありました。ところが、カメを水槽に入れるたびに、二匹は隅っこに丸くなって一日中そこから動かないのです。友人が用意してくれたものを、ほとんど活かすことができませんでした。

これは私たちの姿にとても似ています。神様はあなたのために広大な世界を、栄光に満ちた創造を、豊かな賜物を用意してくださいました。それなのに、私たちはしばしば小さな片隅に閉じこもり、与えてくださる方に顔を上げようとしません。罪は私たちを、父なる神様の輝きに対して盲目にしてしまうのです。

2. あなたを自由にする神様の愛

「それから何日もたたないうちに、下の息子は自分のものを全部まとめて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまった」(ルカの福音書15章13節)。

父は息子を行かせます。無理やり引き止めたりはしません。神様もまた、あなたを力ずくで止めることはなさいません。これが神様の愛の第二の姿です。神様はあなたの自由を尊重してくださいます。たとえあなたが、神様から離れて生きることを選んだとしても、それを許してくださるのです。

けれども気をつけてください。神様のいない自由は幻にすぎません。それこそ、この息子がやがて思い知ることです。イエス様ははっきりと言われました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷です」(ヨハネの福音書8章34節)。この青年は自由を求めて旅立ったのに、異国の地で奴隷となり、ある人の使用人となって豚の世話をし、何よりも自分自身の欲望と罪の奴隷になってしまいました。

ひとつのたとえで考えてみましょう。私たちには皆、交通ルールがあります。ルールは「危険注意」「速度を落とせ」といった指示を与えてくれます。あなたはそれを無視する自由がありますが、その結果、事故を起こし、自分も他人も傷つけてしまうでしょう。神様のみことばは、あなたの霊的な人生における交通ルールのようなものです。神様はあなたに従うことを強制なさいませんが、神様なしの人生が深刻な結果、時には深い落ち込みや、離れることのない不安をもたらすことを警告してくださいます。今日、フランスだけでも何百万人もの人が抗不安薬を服用しています。心の平安を見つけられずにいるからです。心の平安は、神様なしには決して手に入らないのです。

あなたの自由には代償があります。神様はそれをご存じです。それでもなお、あなたを愛しているからこそ、自由を与えてくださるのです。

3. あなたの帰りを待つ神様の愛

息子はどんどん落ちぶれていきます。ついには豚と一緒に食べたいと思うほどに、どん底まで沈んでいきます。その間、父は離れて暮らす息子のために祈り続けていました。父は待っています。もうずっと長い間、待ち続けているのです。

これが神様の愛の第三の姿です。神様は待っておられます。あなたが汚れ、傷つき、あなたにふさわしくないものに囲まれているときでさえ、神様の目に映るあなたの価値は変わりません。説教者はとても分かりやすいたとえを語ります。もしゴミ捨て場の中に、汚れて凹んだ1ユーロ硬貨を見つけたら、その硬貨の価値はいくらでしょうか。答えは、やはり1ユーロです。工場から出てきたばかりの新品の硬貨とまったく同じ価値です。父なる神様の目には、あなたが調子の悪いときでも、あなたの価値はまったく変わらないのです。

神様はあなたが今どんな状態にあるかをよくご存じです。あなたの迷い、模索、時には反抗さえも見ておられます。神様は無理強いなさいません。けれども、招いておられます。神様はみことばを残し、イエス様について語る証し人を遣わし、あなたの近くにひとつの教会を置き、聖書のメッセージをあなたの目の前に置いてくださいました。これらすべてが、すでに神様があなたを探し求めておられる証しなのです。

そして何より、神様はこう警告しておられます。どん底に落ちるのを待ってから向き直ろうとしてはいけません、と。放蕩息子は待ちすぎました。一か月後でも、半年後でも、彼は帰ることができたはずなのに、意地を張り続けたのです。彼の例に倣ってはいけません。「今日、もし神の御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(ヘブル人への手紙3章15節)。あなたは今、あなたがいるその場所から、悔い改めることができるのです。

4. あなたに走り寄る神様の愛

「まだ家までは遠かったのに、父親は息子を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って首を抱き、口づけした」(ルカの福音書15章20節)。

神様の愛の第四の姿は、あなたを迎え入れる愛です。父は遠くにいる息子の姿を見ます。破れた服、汚れた体、放蕩の跡がはっきり見える顔。それでも父は走り出します。走るのは父の方なのです。父は腕組みをして、詫びの言葉を待ったりはしません。父は息子に向かって走り、首を抱き、口づけをします。

この物語全体の決定的な瞬間は、息子が我に返り、こう決心するところです。「父のところに行って、こう言おう。『お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました』」(ルカの福音書15章18節)。これこそが回心です。心の中での方向転換です。あなたは自分の罪を認め、神様に逆らうのをやめ、父の家へと帰っていくのです。

これは何かを勝ち取ることではありません。恵みなのです。父は息子に最高の衣を着せ、指輪をはめ、肥えた子牛をほふり、祝宴を催します。家に残っていた兄は、この喜びが理解できません。彼には恵みが分かっていなかったからです。あなたが神様のもとに来るとき、あなたは恵みによって来るのです。まるで受けるに値しない贈り物を受け取るように。神様はあなたの罪を赦し、新しいいのちを、新しい出発を与え、その愛であなたを満たしてくださいます。

もしかしたら、あなたはすでにあちこち探してきたかもしれません。宗教、瞑想、ヨガ、漠然とした霊性の中に。しかし、そこに見つかるのは宗教だけです。イエス様は宗教ではなく、ただひとりの救い主との関係です。イエス様は、あなたと神様との壊れた関係を回復し、新しい誕生、すなわち霊的な新生を与えるために来られました。それは、イエス様がヨハネの福音書3章3〜7節でニコデモに語られたことなのです。

心に留めておきたいポイント

  • あなたには、この世界の何ものも満たすことのできない無限の愛への渇きがあります。それを満たせるのは神様の御前だけです。
  • このたとえ話の中で、父なる神様の愛は四つの姿で表されています。与える愛、あなたを自由にする愛、あなたの帰りを待つ愛、そしてあなたが方向転換するときに走り寄る愛です。
  • 神様のいない自由は幻です。それは結局、あなたを自分の欲望と罪の奴隷にしてしまいます。
  • 罪の中にあっても、あなたは父なる神様の目に同じ価値を持っています。汚れた硬貨のように、あなたの価値はあなたの状態によって変わることはなく、常に変わらないのです。
  • どん底に落ちるのを待ってはいけません。今、あなたがいるその場所から、方向転換することができます。
  • イエス様は宗教ではなく、あなたを回復し、新しい誕生を与えてくださる関係です。

個人的な適用

静かな時間を取り、次の問いに正直に答えてみてください。

  1. 今、私はどこで愛への渇きを満たそうとしているでしょうか。配偶者、子ども、キャリア、依存、スマートフォンの画面でしょうか。私は神様にこの空白を満たしていただいているでしょうか。
  2. 「この部分だけは自分の好きなようにする、神様には口出しさせない」と思っている領域が、私の人生のどこかにあるでしょうか。私が自分に許しているどんな自由が、今、私を奴隷にしつつあるでしょうか。
  3. 私が失敗したとき、父なる神様の目に映る私の価値は変わらないと、本当に信じているでしょうか。それとも、恥の思いが今もそれとは違うことを私に語りかけているでしょうか。
  4. 悪魔はあなたにこうささやいているかもしれません。「おまえは罪深すぎる、神様から離れすぎている、神様はおまえに興味などない」と。あなたはこの嘘を見抜き、信仰の一歩を踏み出して、父のもとへ帰る準備ができているでしょうか。
  5. もしまだイエス様と個人的な関係を持っていないなら、今日、率直で誠実な祈りの中でそれを神様に伝えることを、何が妨げているでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

神様は放蕩息子を愛しているのに、なぜ彼を行かせてしまうのですか。

本当の愛は、無理強いすることがないからです。神様はあなたを自由な存在として造られました。「はい」とも「いいえ」とも言える存在としてです。誰かを無理やり引き止めることは、愛を愛たらしめている大切な部分を奪ってしまうことになります。物語の中の父は、無関心だからではなく、息子の自由を尊重するからこそ、彼を行かせるのです。父は放蕩がどんな代償をもたらすかをよくご存じですし、その結末を隠したりもしません。それでも息子を鎖でつなぎとめることはしません。これは、神様の愛の中でも特に不思議な姿のひとつです。神様は、あなたが間違った選択をするときでさえ、あなたに選ばせるほどにあなたを愛しておられるのです。

神様のもとに帰る前に、どん底まで落ちなければならないのですか。

いいえ、むしろこのたとえ話が伝えているのは、その逆のことです。放蕩息子は待ちすぎました。一か月後でも、半年後でも向き直ることができたのに、豚と一緒に食べるほどのどん底まで、意地を張り続けてしまいました。彼の例に倣ってはいけません。ヘブル人への手紙3章15節ははっきりと語ります。「今日、もし神の御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」あなたは、事態がさらに悪くなる前に、今いるその場所から悔い改めることができます。父はすでに、あなたのもとへと走り出しているのです。

自分の罪のせいで、神様の目に映る私の価値が下がってしまったかどうかは、どう分かりますか。

下がってはいません。1ユーロ硬貨のたとえで考えてみましょう。工場から出てきたばかりの新品でも、ゴミ捨て場に転がっていても、その硬貨の価値は1ユーロのままです。あなたの価値は、あなたの霊的なパフォーマンスによって決まるのではなく、父なる神様があなたを愛してくださっているという事実、つまり神様ご自身がその値段を決めておられるという事実によるのです。失敗したときに悪魔がつくうそは、「お前はもう神様から遠すぎる存在だ」と思い込ませることです。放蕩息子は、帰るに「ふさわしい」人間ではありませんでした。彼はただ、信仰の一歩を踏み出しただけです。それで十分なのです。

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