人生における健やかな目:ヨハネ9章でイエスが明らかにされること
「あなたの目は大丈夫ですか。」メッセージはこの単純な問いかけから始まります。この問いは見た目以上に深いものです。見えていてそれを知っている人もいれば、見えていなくてそれを知っている人もいます。また、見えていないのにそれに気づいていない人もいれば、自分がよく見えていないと分かっていながらも、めがねをかけることを拒む人さえいます。では、あなたの目は健やかでしょうか。ヨハネ9章は、イエスと生まれつきの盲人との出会いを通して、私たちを静かにこの問いへと導いていきます。
1. イエスはだれも気に留めない人をまず見てくださる
「イエスは道を通りながら、生まれつきの盲人を見られた」(ヨハネ9:1-5)。この一節は貴重です。この人を最初に見たのは弟子たちではありません。イエスです。イエスはいつも、最も助けを必要としている人を真っ先に見てくださいます。
もしかするとあなたも、ある場所に、ある教会に、ある集まりに足を運びながら、小さな声にこうささやかれているかもしれません。「私はここにいる資格がない、私の居場所ではない。」その思いを、イエスはご覧になっています。そしてイエスは「こんなところに何をしに来たんだ」と思って目をそらされることはありません。イエスはこの盲人をご覧になったように、あなたを「ようこそ、来なさい」というまなざしで見つめてくださいます。イエスはあなたの必要に応えたいと願っておられます。それこそがイエス・キリストなのです。
一方、弟子たちはすぐに、彼らの心の奥底を映し出す問いを口にします。「先生。この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか。」彼らは犯人を探しています。私たちも同じことをします。だれかの苦しみを前にすると、私たちの最初の反応は、しばしば責任者を指し示すこと、うわさを流すこと、勝手な理論を組み立てることです。これは落とし穴です。私たちは、ある人の心を本当には知りません。私たちが意地悪だと決めつけているものは、実はまだ癒やされていない深い傷なのかもしれません。
イエスはこう答えられます。「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」イエスは問い全体をずらされます。イエスは犯人を探しておられるのではなく、神を現そうとしておられるのです。
2. 神のわざとは、神が遣わされた方を信じることです
イエスが語られる「神のわざ」とは何でしょうか。癒やしも、確かにその一部です。しかしイエスご自身は、別の箇所でそれをこう定義しておられます。「神のわざとは、神が遣わした者を信じることです」(ヨハネ6:29)。すべてはそこから始まります。奇跡、癒やし、解放。イエスはそれらを単に肉体的な同情心だけから行われるのではありません。イエスは霊的な赦しを、神との関係を、救いを、永遠のいのちを与えたいと願っておられます。もしイエスがすべての体をただ癒やそうとされただけなら、すべての人を癒やされたはずです。しかしイエスはそうなさいませんでした。イエスは癒やしを用いて福音を宣べ伝えられたのです。
クリスチャンであることは、あなたを苦しみから免除するものではありません。試練はやって来ます。しかしそれは神のわざが現れるためにやって来るのです。あなたを打ちのめすものの真っただ中で、あなたが立ち続けることを学び、神が備えてくださる出口を歩み、そして最後にこう言って出て来るためです。「神は本当にすばらしい。神は私を支えてくださった。神は私を導いてくださった。」
3. まだ働ける日
イエスはさらにこう続けられます。「わたしを遣わされた方のわざを、私たちは、昼のうちに行わなければなりません。夜が来ます。だれも働くことができなくなります」(ヨハネ9:4)。昼とは、地上での人生のことです。夜とは、死のことです。あなたが生きている限り、あなたは福音を伝えることができます。天国では、その必要はもうありません。すべての人がすでに信じているからです。そして、あなたが語りたいと思う相手が生きている限り、その人にとってはまだ昼が続いています。ひとたびその人が去ってしまえば、もはやだれもその人に良い知らせを伝えることはできません。
だからこそイエスは、別の箇所で弟子たちにこう言われます。「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)。イエスがこの地におられる間、イエスご自身が光です。しかしイエスが父のもとに帰られた後は、イエスに属する者たちがその光を運ぶのです。あなたもまた、その一人です。
4. 泥と池、そして目を覚ましていく信仰
イエスは地面に唾をなさり、それで泥を作り、盲人の目にそれを塗り、こう言われます。「行って、シロアム、訳せば『遣わされた者』という池で洗いなさい」(ヨハネ9:6-7)。これはかなり不思議に思えます。なぜこのような演出が必要なのでしょうか。ひと言で済んだはずです。
本文には二つの理由が示されています。まず、この日は安息日でした(14節)。泥を作り、癒やしを行うことは、パリサイ人の伝統によれば禁じられた行為でした。イエスは神の律法を破っておられるのではありません。イエスは彼らの宗教的な伝統をあえて揺さぶっておられるのです。それは彼らを傷つけるためではなく、イエスがどなたであるかに目を開かせるための、意図的な挑発なのです。
次に、盲人をシロアムに送って洗わせることは、彼の信仰に火をともすことでもありました。彼には二つの選択肢がありました。顔に泥を塗られたことに文句を言うか、それとも信頼して行くかです。彼は信頼しました。彼は行きました。そして見える者となって戻って来ました。信仰とキリストの力がかみ合うところに、奇跡が起こるのです。
5. 二人の盲人:認める者と拒む者
物語は、まるで連続ドラマのような一連の尋問へと続きます。近所の人々は信じられません。パリサイ人たちはこの人を、次にその両親を、そして再びこの人を呼び出します。彼らは奇跡をつぶそうとしています。しかし癒やされた盲人は、質問を重ねるごとに信仰を深めていきます。彼は最初にこう言います。「イエスという方が……」(11節)。次に、問い詰められてこう言います。「あの方は預言者です」(17節)。そしてついに、イエスご自身の前でこう言います。「主よ、信じます」。そして彼はひれ伏します(ヨハネ9:38)。
彼は聖書の学びを積んでいたわけではありません。洗練された神学を持っていたわけでもありません。彼にはただ一つの事実がありました。「私は盲目でしたが、今は見えるということです」(ヨハネ9:25)。そしてだれも、この事実をくつがえすことはできません。これこそがキリストを証しするということです。イエスがあなたのためにしてくださったことを、あなたが持っている単純な言葉で語ることです。あとは聖霊が働いてくださいます。
彼のかたわらには、もう一人の盲人がいます。パリサイ人たちです。彼らは霊的に盲目でありながら、自分たちは見えると主張します。「私たちも盲目なのですか」と彼らは尋ねます。イエスは答えられます。「もしあなたがたが盲目であったなら、罪はなかったでしょう。しかし今、あなたがたは『私たちは見える』と言っています。だから、あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:39-41)。
6. 健やかな目とは、自分一人では見えないと認めることです
ここにこのメッセージの核心があります。健やかな目を持つとは、すべてを理解していると主張することではありません。それはこう認めることです。「神の助けがなければ、私は霊的なことを何も見ることができません。」イエスは別の言葉でこう言われます。「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マルコ2:17)。
説教者はとても具体的なたとえを用います。コンタクトレンズなしでは運転できない、と。神との関係は、このめがねのようなものです。あなたがその関係の中にとどまっているとき、あなたはよく見えています。そこから離れると、すべてがぼやけていき、やがてそのぼやけに慣れてしまい、それを普通のことだと思い込んでしまいます。健やかな目は、自分にはめがねが必要だと知っています。自分は完璧だと思い込んでいる目は、決して助けを求めには行きません。
7. バプテスマと本当の謙遜
この同じ論理は、バプテスマにも光を当ててくれます。私たちがバプテスマを受けるのは、ついに完璧になったからではありません。もしそうなら、何度でもやり直さなければならなくなってしまいます。私たちがバプテスマを受けるのは、こう理解したからです。「私にはできません。しかし主よ、あなたは私を変えることがおできになります。私は毎日、絶えずあなたに助けを求めに来ることを誓います。」これは、自分ひとりではっきり見えると主張する心ではなく、正しい心の誓いなのです。
心に留めておきたいこと
- イエスは、自分は見られる価値がないと思っている人をまず見てくださいます。
- 苦しみには必ずしも「犯人」がいるわけではありません。それは時に、神がご自分を現そうとしておられる場所です。
- 神のわざとは、イエス・キリストを信じることです(ヨハネ6:29)。
- 最も力強い証しは神学ではなく、事実です。「私は盲目でしたが、今は見えます。」
- 健やかな目は、自分一人では見えないと認め、神との関係にとどまり続けます。
個人への適用
- だれかが苦しんでいるのを見たとき、あなたの最初の反応は何ですか。犯人を探すことですか、それとも神が何を現そうとしておられるのかを尋ねることですか。
- 今週、「正しく」話そうとせずに、イエスがあなたの人生でしてくださったことを単純に語ることができる相手はだれですか。
- 「大丈夫、私はやれている」と自分に言い聞かせながら、心の奥ではよく見えていないと分かっている領域はありませんか。今日、それを神に告白する準備はありますか。
- あなたの神との関係は、「毎日めがねをかける」ことに近いですか、それとも「ぼやけに慣れてしまう」ことに近いですか。
- もしイエスがこの章の最後にある問いをあなたに投げかけられたなら、「あなたは人の子を信じますか」と。今、あなたは何と答えますか。
引用された聖句
- ヨハネ9:1-41 ・ 中心となる箇所:生まれつきの盲人の癒やし
- ヨハネ6:29 ・ 「神のわざとは、神が遣わした者を信じることです」
- マタイ5:14 ・ 「あなたがたは世の光です」
- マタイ5:3 ・ 「心の貧しい者は幸いです」
- マルコ2:17 ・ 「わたしが来たのは……罪人を招くためです」
- イザヤ35:5 ・ 「その時、盲人の目が開かれる」
よくある質問
苦しみには必ず原因を求めなければならないのですか。
ヨハネ9章でイエスは、どうしても犯人を指名しようとする弟子たちの考え方を退けられます。イエスは、罪がこの世界に結果をもたらすことを否定しておられるわけではありませんが、すべての試練が特定の罪への罰であるわけではないことを思い起こさせてくださいます。多くの場合、本当の問いは「なぜ」ではなく、「これを通して神は何を現そうとしておられるのか」なのです。
このメッセージによれば、「健やかな目を持つ」とはどういう意味ですか。
それは、自分一人では霊的な現実を見ることができないこと、自分が弱い者であること、助けを必要としていることを認め、それゆえに神のもとに駆け寄って助けを受けることです。逆に、「私は見える、大丈夫、だれも必要としていない」と言うことは、病んだ目のしるしです。
聖書をあまりよく知らないのに、どうやって証しをすればよいのですか。
癒やされた盲人のように、こう言えばよいのです。「私が知っているのはただ一つです。私は盲目でしたが、今は見えます。」イエスがあなたのためにしてくださったことを、あなたの持つ単純な言葉で語りなさい。たとえあなたが不器用だと感じていても、聖霊はあなたが分かち合うものを用いてくださいます。事実は、どんな理路整然とした説明よりも力強いのです。
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