はじめに
オーバーフロー・ワーシップは、過越祭を記念してICCモントリオールで開催された賛美の夕べです。SION奉仕チームのサラが、ほふられた小羊を祝う礼拝へと会衆を導きます。これは長い教えではなく、歌によるメッセージ、音楽に乗せられた預言的な勧めです。しかし、そのあふれ出る中で、はっきりとした一つの言葉が繰り返し語られます。過越祭は過去の出来事を思い出すだけのものではなく、新しい季節への転換点であるということです。あなたが十字架でのキリストの勝利を祝っているその間に、今夜このときに、あなたの栄光の季節に入ることができるのです。
メッセージの構成
1. ほふられた小羊と、成し遂げられた十字架のわざを祝う
- 夕べは、シンプルな勧めから始まります。十字架のわざを前にして、私たちは贖われた者をたたえます。贖われた者を祝います。感謝の叫びを上げます。
- サラは絶えず会衆を十字架の前に引き戻します。「闇は、十字架のわざの前に、ほふられた小羊の前に、そして私のために流された血の前に退く。」
- キリストは死に打ち勝たれました。これが、続くすべての土台です。死に打ち勝たれた方の前では、何も抵抗できません。病も、恐れも、あなたがこの場に入るときに抱えていたものも。
- 聖書は、十字架で「すべてが成し遂げられた」と述べています(ヨハネによる福音書19章30節)。この「すべて」の中には、あなたの人生のすべて、あなたの運命のすべて、あなたがまだ求めているもののすべてが含まれています。
- これは飾りのための賛美ではありません。一人の人があなたのために死に、よみがえられたことを断言する賛美です。今夜、あなたが自分自身についてどう思っていても関係ありません。今日は、主があなたを訪れてくださる日なのです。
2. 声を上げ、手を上げ、賛美をあふれさせる
- サラは絶えず声を上げるように呼びかけます。「あなたの声を上げなさい。この雰囲気の中で、声々が上がりますように。」
- 手を上げることは儀式ではなく、敬意を表すしぐさです。「私たちはあなたを敬うために手を上げます。」
- サラはその中で、神の前でのため息の姿勢についても教えます。「父よ、私たちの心を聞いてください、あなたの民のため息を聞いてください」と、ローマの信徒への手紙8章26節に見られる、御霊が言葉にならないうめきをもってとりなしてくださるという精神に沿って語ります。
- 賛美はあふれ出ます。この夕べの名前そのものがそれを語っています。オーバーフローです。観客として来ているクリスチャンたちもいますが、今夜は積極的な参加へと入らなければなりません。「それが、あなたが神にささげられるすべてなのですか。もっと上りなさい。もっと上りなさい。」
- サラは強調します。二人または三人がイエスの名によって集まるところには、イエスがともにいてくださいます(マタイによる福音書18章20節)。この雰囲気は良い状態にあります。目が開かれます。耳が開かれます。
3. 病と疲れから、いのちへ
- この夕べを貫く牧会的なテーマがあります。過越祭とは、いのちが死に打ち勝つことです。「私たちは過越祭を祝っていますが、それは、いのちを祝っているのです。」
- サラは病を抱える人々に直接語りかけます。「もしこの場所にいるあなたが病気なら、手を上げて、『主よ、私に触れてください』と言いなさい。医師が何と言おうと関係ありません。イエスは十字架で死に打ち勝たれました。」
- あなたが祝っているまさにそのとき、あなたは神のいのちを受け取ります。あなたは神のいやしを受け取ります。それは、病の名前によって左右されるものではなく、キリストが支払われたものに基づいているのです。
- サラは、シンプルな明け渡しへと招きます。「私は手を上げます。イエスよ、私に触れてください。」賛美は、あなたといやし主との出会いの場となります。
- この勝利は、一部の選ばれた人だけのものではありません。これこそが過越祭のメッセージの核心です。よみがえられた方に属する者たちにとって、死はもはや最後の言葉ではないのです。
4. あなたの「季節」に入る:一年の始まりとしての過越祭
- サラは、聖書に基づく明確な教えを展開します。出エジプト記12章で、イスラエルの子らがエジプトで奴隷であったとき、神はモーセを遣わし、ご自分の民に過越祭を与えられました。
- 主は、この月をあなたがたにとって一年の最初の月とすると言われました。過越祭は、イスラエルにとって一年の始まりを示すものです。彼らの一年は、そこから始まるのです。
- 民は小羊を食べ、パンを分かち合い、これを祭りの日とすることになっていました。この祝いは任意のものではなく、生活の土台となるものだったのです。
- サラはこうつなげます。「あなたが今祝っているその瞬間に、あなたの一年はそこから始まるべきだと、私はあなたに告げに来ました。」これは単なる霊的な言い回しではありません。神がご自分の民に与えられた、まさにその論理なのです。
- サラは、教会の外にあるいくつかの宗教的伝統でさえ、過越祭の時期に断食と祈りの時を持っていることに注目します。それは、霊的な一年がそこから始まると感じているからです。ましてや、十字架で成し遂げられたわざを知っている私たちはなおさらです。
- そこから、この夕べを通して繰り返される叫びが生まれます。「祭りの日。祭りの日。これは私の季節だ。」
5. 自分自身の人生について預言する
- メッセージの最後の部分は、口を開くようにという招きです。箴言18章21節を引用します。「死も生も舌の力に支配される。」
- サラはまた、枯れた骨の幻を描くエゼキエル書37章も引用します。神ご自身は預言されません。神は預言者にこう言われます。「人の子よ、この骨に預言しなさい。」
- 「なぜ神ご自身は預言されなかったのでしょうか。しかし、神はあなたと私に、預言するようにと言われるのです。」神は、あなたが自分自身の人生について口を開くのを待っておられます。
- サラは具体的な宣言を提案します。「キリストが十字架で勝利されたゆえに、私はこう宣言する。その血が流されたゆえに、私はこう告白する。」
- サラは、申命記28章13節から取られた力強いイメージを展開します。「私は頭であって尾ではない。私は圧倒的な勝利者だ。いつも喜んでいる。」
- サラは具体的な例を挙げます。子どものいない女性は、自分が子を産むと預言することができます。独身の時期を過ごしている人は、転機を預言することができます。栄光の季節は、まず宣言され、その後に受け取られるのです。
心に留めておきたいポイント
- 過越祭とは、死に打ち勝たれたほふられた小羊を祝うことです。これが、この夕べの譲れない土台です。
- 賛美は受け身のものではありません。声を上げ、手を上げ、あふれさせることは、キリストがなさったことに対するあなたの応答です。
- 十字架で勝ち取られたものには、いやしも含まれています。あなたが祝っているまさにそのときに、あなたは受け取るのです。
- 出エジプト記12章によれば、過越の月は一年の最初の月です。あなたの新しい季節は、状況が変わったときにではなく、成し遂げられたわざを祝うときに始まります。
- あなたの人生についての預言は、他の誰かに委ねられるものではありません。神は、エゼキエルに求められたように、あなた自身が口を開くことを求めておられます。
個人的な適用
- あなたが祝うとき、あなたは観客ですか、それとも参加者ですか。神の前で本当に声を上げるための、次の具体的な一歩は何でしょうか。
- 今あなたが抱えている病、疲れ、重荷の中で、いやし主の前にまだはっきりと差し出したことのないものはありますか。
- あなたの栄光の季節が、状況が変わるときではなく、あなたが祝うときに始まるという考えを本気で受け止めるなら、あなたはどうするでしょうか。
- 今日、神はあなたに何について預言するよう求めておられますか。家族、家庭、仕事、体、不妊のことでしょうか。
- 今週、毎朝声に出して宣言できる、御言葉に基づいた具体的な宣言は何でしょうか。
引用された聖句
- 出エジプト記12章 · 過越祭、一年の最初の月
- ヨハネによる福音書19章30節 · 「すべてが成し遂げられた」
- マタイによる福音書18章20節 · 「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」
- ローマの信徒への手紙8章26節 · 御霊が言葉にならないうめきをもってとりなす
- 箴言18章21節 · 「死も生も舌の力に支配される」
- エゼキエル書37章 · 「人の子よ、この骨に預言しなさい」
- 申命記28章13節 · 「主はあなたを頭とし、尾とはされない」
- ローマの信徒への手紙8章37節 · 「私たちは圧倒的な勝利者です」
よくある質問
なぜ過越祭を祝うときに「季節」について語るのですか。
出エジプト記12章で、神はモーセに、過越の月がイスラエルにとって「一年の最初の月」となると告げられます。つまり過越祭は、神の民の一年の始まりを示すのです。サラはこの原則を当てはめます。あなたが過越祭とキリストの成し遂げられたわざを祝っている、まさにそのときに、あなたの季節が始まると宣言しなさい、と。これは単なるスローガンではなく、聖書に根ざした霊的なカレンダーなのです。イスラエルの民は、この祝いを起点として一年全体を生きていました。私たちもまた、過越祭を自分の霊的な一年の出発点とすることを選ぶことができるのです。
この賛美の夕べにおいて「オーバーフロー」とは何を意味するのですか。
オーバーフローとは、あふれ出ることです。サラは繰り返します。「その名前自体がオーバーフローを語っている。今夜、誰かがあふれ出ることになる。」これは、歌の枠を超えて、体にまで、祈りにまで、自分自身の人生への預言にまであふれ出る賛美のことです。賛美は会場の中にとどまりません。健康、解放、家庭の雰囲気にまであふれ出るのです。これはパフォーマンスではなく、応答です。人目にさらされること、聞かれること、関わることを恐れない応答なのです。
なぜ賛美の間に自分自身の人生について預言するのですか。
サラは二つの箇所を引用します。箴言18章21節「死も生も舌の力に支配される」。そしてエゼキエル書37章では、神が預言者にこう言われます。「人の子よ、この枯れた骨に預言しなさい。」神はあなたに代わって預言されるのではありません。神は、あなたご自身が口を開き、十字架がすでに勝ち取ったことをあなたの人生の上に宣言するように求めておられます。これは私の季節だ、私は頭であって尾ではない、私は圧倒的な勝利者だ、と。個人的な預言は信仰の気まぐれではなく、あなたを聖書の延長線上に置く牧会的な命令です。あなたは、神がすでに語られたことを宣言するのです。
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