なぜ神の家への熱心が、絶えずあなたを焼き尽くすべきなのか
ケビン・アンゴ牧師による教え(シリーズ「7時から9時:教えと祈り」)、ICC TVモントリオール
はじめに
肩書きを持つことと、現実を生きることの間には違いがあります。ケビン・アンゴ牧師は、ごく単純な確信からこの教えを語り始めます。あなたがイエスに従う弟子であるとき、大切なのは名簿に記された名前ではなく、あなたの内側を焼き尽くしているものです。繰り返し語られるその言葉が「熱心」です。この熱心とは、調子の良い日にだけ自分で作り出す宗教的な高揚感ではありません。それは神が灯し、あなたを焼き尽くす火であり、神の家が待っている間、あなたがもはやじっと座っていられなくなるまで燃え続けるものです。
詩編69編9節です。「あなたの家を思う熱心が私を焼き尽くし、あなたを嘲る者たちの嘲りが私の上に降りかかっている。」イエスは、宮から商人たちを追い出すときに、この言葉を自分自身のものとして引用されます。それは、行動へと駆り立てる情熱を描いています。そしてこの情熱を、説教者は弟子であるあなた自身にも担ってほしいと願っています。
教えの構成
1. 師に従うとは、「あること」と「行うこと」
説教者はローマの信徒への手紙8章29節を土台に据えます。「神は、あらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに似た者にあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」誰かに従うとは、その人のようになりたいと願い、その人のように行動することです。従うことには二つの次元があります。「あること」と「行うこと」です。そして御言葉によれば、「あること」が「行うこと」に先立ちます。師のようであるようにと召されていることを理解しなければ、あなたは師にならってではなく、自分自身の考えに従って行動することになります。
あなたの運命は、すでに前もって定められています。主がエレミヤに語られたように、あなたが母の胎の中で形づくられる前から、神はあなたを知っておられました。目的はあなたより先に存在しており、その目的とは、御子のかたちに似た者となることです。
2. 神の家への熱心:あなたを超えた情熱
熱心とは、あなたが作り出すものではありません。それは、あなたを焼き尽くし、内側から食い尽くすものです。イエスは、商人たちが父の家を祈りの家以外の何かに変えてしまっているのを見たとき、何もせずにいることができませんでした。父から託された使命があまりにも深く彼に染み込んでいたため、イエスは行動されたのです。
この熱心は、あなたのものではありません。あなたの熱心でもなく、ある牧師の熱心でもなく、ある大主教の熱心でもありません。それは神の家の熱心です。それはあなたを超えています。神は、あなた以上に人々の魂に深い憐れみを持っておられます。そしてその憐れみのゆえに、神はこの重荷を人間に、つまりあなたと私に手渡されるのです。
この熱心があなたを焼き尽くさない限り、あなたには従いたいという思いは生まれません。なぜ私たちは従うのでしょうか。神の家への熱心が私たちを焼き尽くすからです。それは向こうからやって来て、私たちを捕らえ、私たちを取り込みます。そして神の家とは、建物の四つの壁のことではありません。それは、あなたの兄弟であり、あなたの姉妹であり、信じる者たちの群れそのものです。
3. 情熱:受け継がれていく重荷
「情熱」という言葉は、ギリシア語(パトス)では「苦しみ」を意味します。この言葉はまず、十字架で担われた肉体的な苦しみであるキリストの受難を語るために用いられました。その後、歴史の中で、この言葉は内的な苦しみ、精神的な苦しみ、思いにのしかかり、じっとしていることを許さない重荷をも指すようになりました。
この情熱こそが神の重荷です。そして情熱は受け継がれていくものです。あなたひとりですべての魂を救うことはできません。この火が、あなたの周りにいる他の人々をも燃え上がらせる必要があります。だからこそ聖書は「憐れみ」について語ります。それは、他者の苦しみを分かち合い、その重荷を共に担うことです。イエスは群衆を見て、彼らを憐れみ、そして行動されました。癒やし、教え、奇跡を行われました。
あなたは自分を弟子だと言いながら、教会に座り、他者が滅び、苦しんでいるのを見ても、その苦しみを分かち合わないでいることはできません。それはあり得ません。なぜなら、あなたは誰に従っているのでしょうか。あなたは師に従っているのですから。
4. 師にならって行う:油注がれ、遣わされ、装えられる者(ルカによる福音書4章)
弟子であることの第二の次元、それは師にならって行うことです。説教者はルカによる福音書4章18〜19節を開きます。「主の霊が私の上にある。主が私に油を注がれたのは、貧しい人々に福音を告げ知らせるためである。主が私を遣わされたのは、心の打ち砕かれた人々を癒やし、捕らわれ人には解放を、目の見えない人には視力の回復を告げ、抑圧されている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるためである。」
動詞に注意深く目を向けてみましょう。イエスは「油を注がれた」。すなわち、聖別され、取り分けられ、使命を果たすために必要な力を装えられたのです。そしてイエスは「遣わされた」。すなわち、特定の場所へ行き、特定のことを成し遂げる許可を受けたのです。説教者は強調します。神は、あなたを装える前に決してあなたを遣わすことはありません。なぜなら、神はあなたが遣わされる地が敵意に満ちた場であることをご存じだからです。
5. 描かれた使命:誰のために、何のために
ルカによる福音書4章の箇所は、この使命を段階を追って描いています。「貧しい人々に福音を告げる」とは、単にお金に困っている人々だけでなく、キリストを知る恵みを奪われ、いまだに家族や先祖の因縁に縛られている人々のことです。「捕らわれ人に解放を告げる」とは、エフェソの信徒への手紙6章12節が語る目に見えない支配の下で、もはや自分の人生を制御できなくなっている囚われ人たちのことです。「目の見えない人に視力を与える」とは、肉体の視力ではなく、霊的な識別力のことです。なぜなら、「見えているのに実は見えていないと思い込ませるのが、悪魔の巧妙な策略だから」です。
これらすべての人々のもとに、あなたは弟子として遣わされ、希望があることを告げるのです。あなたは聖霊によって、王なる方の御旨を宣言するために遣わされています。あなたは自分の快適な領域にとどまるためにここにいるのではありません。あなたは行くために油を注がれているのです。
6. 弟子であることは、証明されるもの
この教えを貫く一本の糸はこうです。弟子であることは肩書きではなく、一つの姿勢です。それは証明されるものです。師は場所から場所へと歩き、地方や町々を巡って行かれました。あなたは弟子でありながら、いつもその場に座り続けているわけにはいきません。ある家で誰かが苦しんでいると聞いたなら、あなたはそこに行くことができます。あなたの家系の誰かが困難の中にあると聞いたなら、あなたはその人を支え、共に祈るのです。
識別力の欠如はしばしば高慢と恐れから来ます。自分が間違っていたと認める高慢、外へ出て行くことへの恐れです。しかし弟子は師を見つめ、それにならいます。説教者は警告します。この世では、御国とは何の関係もないコーチやメンター、「株式相場に取り憑かれた人々」に人はいとも簡単についていきます。しかし、キリストに従うということになると、それは大きな問題になってしまうのだと。
心に留めておきたいこと
- イエスに従うとは、まず彼のように行う前に、彼のようであることです。「あること」は「行うこと」に先立ちます。ローマの信徒への手紙8章29節はこう告げています。あなたは御子のかたちに似た者となるようにあらかじめ定められています。
- あなたを焼き尽くす熱心は、あなたが作り出したものではありません。それは神から来るものであり、あなたを超えており、神の家、すなわちあなたの兄弟姉妹のために、あなたを動かすものです。
- 情熱は受け継がれていきます。あなたはひとりでこの重荷を担っているのではなく、それを自分だけのものとして留めておいてもいけません。弟子は他者をも燃え上がらせます。
- あなたは遣わされるために油を注がれました。油注ぎは飾りではなく、働くためのものです。それはあなたを動かします。
- 弟子であることは証明されるものです。それは引き出しの中にしまっておく肩書きではなく、あなたの行いの中に見える姿勢です。
自分自身への適用
- 今のあなたはどこに立っているでしょうか。あなたは「弟子」という肩書きに寄りかかっているでしょうか、それとも神の家への熱心が本当にあなたを焼き尽くしているでしょうか。
- あなたがその苦しみを共に担っていることを、今日知っている兄弟、姉妹、あるいは家系の誰かがいるでしょうか。もし誰も思い浮かばないなら、何があなたを妨げているのでしょうか。
- イエスは、告げ知らせ、癒やし、解放し、目を開くために油を注がれました。この四つの使命のうち、主は今、あなたをどれへと動かそうとしておられるでしょうか。
- あなたを快適な領域に留まらせているものは何でしょうか。それは、自分が間違っていたと認める高慢でしょうか、外へ出ることへの恐れでしょうか、それとも神の前で名前を挙げるべき他の何かでしょうか。
- あなたが日々の生活の中で本当に従っているのは誰でしょうか。コーチたちやこの世の声でしょうか、それともキリストに従う者たちでしょうか。来週のあなたの予定表は、それについて何を物語っているでしょうか。
引用された聖句
- 詩編69編9節 · 「あなたの家を思う熱心が私を焼き尽くし、あなたを嘲る者たちの嘲りが私の上に降りかかっている。」
- ローマの信徒への手紙8章29節 · 御子のかたちに似た者となるようにあらかじめ定められている。
- ルカによる福音書4章18〜19節 · 「主の霊が私の上にある。主が私に油を注がれたので……」
- エフェソの信徒への手紙6章10節 · 「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。」
- エフェソの信徒への手紙6章12節 · 目に見えない支配者たちとの戦い。
- ヨハネによる福音書15章 · 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
FAQ
神の家への熱心とは何ですか。
それは単なる宗教的な動機づけや個人的な高揚感ではありません。それは神ご自身から来る情熱であり、あなたを超えるものであり、神の家(すなわち神の子どもたち)が苦しんだり道を外れたりしているときに、あなたが何もせずにはいられなくなるほどに、あなたの内側を焼き尽くすものです。イエスは、宮から商人たちを追い出すことによって、それを生きられました(詩編69編9節、ヨハネによる福音書2章に引用)。
「弟子であること」と「弟子として行うこと」の違いは何ですか。
「あること」は「行うこと」に先立ちます。ローマの信徒への手紙8章29節によれば、神はあなたが何かを成し遂げるよりも前に、あなたを御子のかたちに似た者となるようにあらかじめ定めておられます。師のようであるようにと召されていることを理解しなければ、あなたは自分自身の考えに従って行動することになります。しかし、師の本質があなたを形づくるとき、あなたの行動は自然と師の行動と一致していきます。
自分が本当に使命のための油注ぎを受けているかどうかは、どうすれば分かりますか。
ルカによる福音書4章18〜19節は、イエスが受けた油注ぎ、すなわち告げ知らせ、癒やし、解放し、目を開くという油注ぎを描いています。説教者は、あなたが実際に動き出すまでは、自分が何を受け取っているのか分からないだろうと語ります。油注ぎは飾りのための油注ぎではなく、働くための油注ぎです。実際に外へ出て、誰かのために祈り、御言葉を届けることによって初めて、神がすでにあなたを装えてくださっていたことに気づくのです。
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