バプテスマのヨハネの問いに学ぶ、疑いの中の信仰

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はじめに:確信が揺らぐとき

何かを固く信じていたのに、ふと疑いが生まれてしまう、そんな経験はありませんか。友人が今夜訪ねてくると約束してくれて、あなたはそれを信じていました。ところが嵐が来てしまい、本当に来てくれるのだろうかと不安になります。あるいは、その人がIT関係の仕事をしていると言っていたのに、会うたびに魚の話ばかりする。そんなとき、小さな声がこうささやきます。「この人は本当に、自分が言う通りの人物なのだろうか」と。

こうした問いかけは、誰にとっても身近なものです。そして、日常のさまざまな出来事だけがそれを引き起こすわけではありません。時には、信仰の中にも疑いが忍び込んできます。まさにそれが、獄中にいたバプテスマのヨハネがマタイ11章2〜10節で経験したことです。そして、彼がこの瞬間をどう乗り越えたかは、私たちにとって素晴らしい模範となります。

説教の構成

1. 獄中の一人の男が投げかけた、心を揺さぶる問い

レミ・ルバンは、私たちを一気に本文へと導きます。「ヨハネは獄中でキリストのなさっていることを聞き、二人の弟子を遣わして尋ねさせた。『来たるべき方はあなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか』」(マタイ11:2-3)。

この問いには驚かされます。バプテスマのヨハネは、信仰において初心者ではないからです。彼がイエス様について、すでにヨハネ1章29〜34節でこう宣言していたことを思い出してください。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。……私はこの方が神の子であることを証しした」。これ以上明確な言葉はありません。この言葉を語った人が、なぜ今になって「あなたは本当にあの方ですか」と尋ねるのでしょうか。

2. バプテスマのヨハネがメシアに期待していたこと

彼の問いを理解するには、彼がヨルダン川のほとりで宣べ伝えていたことを読み返す必要があります。マタイ3章7〜12節で、彼はさばきを行う、しかも直ちに行うメシアを告げています。「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はことごとく切り倒され、火に投げ込まれる」。彼はふるい分ける穀物用のシャベルや、消えることのない火について語っています。差し迫ったさばきです。

ところが、ヨハネが獄中からイエス様のなさっていることを見ると、まったく違う光景が広がっています。イエス様はローマを打ち倒しません。悪人をさばくこともありません。癒し、祝福し、教えておられるのです。ヨハネが告げていたことと、目の前でイエス様が行っておられることとの間には、著しい対比があります。

3. 疑いなのか、それとも信仰の行為なのか

すぐにこう結論づけたくなるかもしれません。「バプテスマのヨハネは疑っている、その信仰は揺らいでいる」と。しかし、レミ・ルバンは、この場面を別の角度から見るよう私たちを招きます。もしヨハネがもうイエス様を信じていなかったなら、彼は獄中でひとり、その疑問を胸にしまい込んでいたはずです。ところが彼は、二人の弟子を動かし、イエス様ご自身のもとへ問いに行かせたのです。

これは、信仰を捨てることとはまったく正反対の行動です。苦しみの中、獄中の暗闇の中にあってもなお、答えを源から求めに行こうと決断した人の姿です。彼の信仰は、正しい場所に問いを投げかけるだけの力をまだ持っていたのです。「これは私たちにとって素晴らしい模範です」とレミ・ルバンは強調します。「私たちもまた、イエス様というお方について問いを抱くことがあるのですから」。

4. イエス様の答え:成就していく預言

イエス様は単に「そう、それは私だ」とはお答えになりません。聖書のことばによって答えられるのです。「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者は見え、足の萎えた者は歩き、ツァラアトに冒された者はきよめられ、耳の聞こえない者は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている」(マタイ11:4-5)。

この答えは、二つの預言を織り合わせたものです。イザヤ35章5〜6節(「そのとき、見えない者の目は開かれ、聞こえない者の耳は開けられる」)と、イザヤ61章1〜2節(「主が私に油を注がれたので……貧しい人々に良い知らせを伝えさせるために」)です。

5. すべてを変える細部:イエス様が読まれなかった部分

ここに、レミ・ルバンが中心として強調する点があります。イエス様はイザヤ61章を引用される際、2節の終わりの少し手前で止められます。「私たちの神の復讐の日」という言葉は語られていません。まったく同じことがルカ4章16〜21節、ナザレの会堂でも見られます。イエス様はイザヤ61章を朗読し、同じ箇所で言葉を止め、巻物を巻いて座られたのです。

これは読み忘れではありません。一つのメッセージなのです。イエス様はヨハネに、そしてその弟子たちを通して群衆全体に、こう語っておられます。「今この時、私は前半の部分を成就するために来た。さばくためではなく、救うために」。ヨハネ3章17節が思い起こさせてくれる通りです。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」。

では、イエス様は決してさばかれないということでしょうか。いいえ、そうではありません。使徒17章31節ははっきりとこう述べています。「神は、お立てになった一人の方によって義をもってこの世界をさばく日を決めておられます」。そしてテモテへの手紙第二4章1節は「生きている者と死んだ者とをさばかれる主イエス・キリストが、その現れと御国とにおいて」と語っています。さばきは必ず来ます。しかし、最初の来臨においては、まだその時ではなかったのです。

6. 「私につまずかない者は幸いです」

イエス様は驚くべき言葉でこの答えを締めくくられます。「わたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11:6)。この言葉をよく理解するために、レミ・ルバンはヨハネ7章40〜44節に私たちを導きます。群衆は、イエス様が聖書に告げられているベツレヘムではなく「ガリラヤから出る」という理由で、イエス様を拒みます。しかし実際には、イエス様はベツレヘムでお生まれになっていました。彼らを妨げていたのは、自分たちの思い込みだったのです。

この危険は、私たち誰にとっても身近なものです。自分の個人的な期待が、イエス様という実在のお方を見えなくしてしまうことがあるのです。群衆とは対照的に、バプテスマのヨハネは、源に立ち返って確かめる時間を取りました。彼は、自分が告げていたこととすぐには一致しないことに、つまずくことを拒んだのです。

7. イエス様が群衆の前でヨハネを弁護される

7節から10節で、イエス様は群衆の方を向き、ヨハネについて語られます。「あなたがたは何を見に荒野へ出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。……柔らかな衣を着た人ですか。……預言者ですか。そうです。あなたがたに言いますが、預言者以上の者です」。

そしてイエス様はマラキ3章1節を引用されます。「見よ、わたしはわたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を備える」。疑問を抱いていたにもかかわらず、ヨハネは確かに、メシアの到来のために道を備えるために遣わされた者でした。彼の疑いは、彼を失格にはしませんでした。むしろ、イエス様のもとに答えを求めに行くその信仰こそが、彼を確かなものとしたのです。

覚えておきたいポイント

  • メシアは確かに来られました。その奇跡、死、そして復活が、ご自身に関する預言を成就していることを証ししています。あなたも、ヨハネのように、そのことに完全に安心してよいのです。
  • 疑いは、それがキリストへとあなたを導くならば、信仰の敵ではありません。バプテスマのヨハネは、獄中でひとりでいながらも、その問いの中に閉じこもりませんでした。彼はそれをイエス様のもとに持って行きました。彼の問いは信仰の行為だったのです。
  • 答えはみことばを通して与えられます。イエス様は、劇的なしるしによってヨハネに答えられたのではなく、聖書を引用することによって答えられました。今日もなお、キリストは同じように私たちに答えてくださいます。
  • 今日はまだ、さばきの日ではありません。しかし、それは必ず来ます。イエス様は最初、救うために来られました。そして、預言に残されているすべてを成就するために、再び来られます。
  • 思い込みに気をつけましょう。群衆は、自分たちの期待に合うメシアを求めて、道を誤りました。あなた自身の期待が、聖書の語るイエス様を受け入れる妨げにならないようにしましょう。

個人的な適用

  • 今日、あなたがイエス様について抱いている問いや疑いで、これまで直接ご本人に尋ねたことのないものは何でしょうか。
  • 困難な状況によってあなたの確信が揺らぐとき、あなたの最初の反応はどのようなものですか。黙り込む、誰かに話す、それとも祈りとみことばを通してキリストのもとに行く、そのどれでしょうか。
  • 自分でも気づかないうちに、イエス様に対して、そのままの姿で受け入れる妨げとなるような期待を抱いていないでしょうか。
  • あなたが日々聖書を読むことは、バプテスマのヨハネのように、自分の信仰がキリストの語られたこと、行われたことの上に本当に立っているかを確かめる助けとなっていますか。
  • 神様のどのような預言や約束が、あなたの人生において成就するのを待ち望んでいますか。そして、その期待はあなたの忍耐をどのように支えていますか。

引用聖句

よくある質問

バプテスマのヨハネは本当にイエス様を疑ったのですか。

マタイ11章3節の問いは確かに心を揺さぶるものですが、レミ・ルバンは、そこに信仰を捨てた姿ではなく、苦しみから生まれた問いかけを見るべきだと提案します。もしヨハネがもうイエス様を信じていなかったなら、弟子たちを動かしてまで答えを源に求めには行かなかったでしょう。その行動そのものが、信仰の行為なのです。

なぜイエス様はイザヤ61章の預言を最後まで読まれなかったのですか。

イザヤ61章2節は「恵みの年」と「私たちの神の復讐の日」の両方について語っています。イエス様は、ヨハネへの答えにおいても、ナザレでの朗読(ルカ4章)においても、意図的に後半の部分の手前で止められます。最初の来臨において成就されるのは恵みの年であって、さばきの日ではありません。さばきの日は、再び来られるときに実現します。

自分自身がイエス様について疑いを抱いているとき、どうすればよいのでしょうか。

この説教は、二つの態度を示しています。一つは、何もせずに疑いの中にとどまること。もう一つは、バプテスマのヨハネのように、祈りとみことばを通して、自分の問いをキリストのもとに持って行くことです。ヨハネに対してそうされたように、そのとき目の前で成就していく預言によって答えてくださるのは、イエス様ご自身です。

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