荒野の真ん中、棒の先に掲げられた一匹の青銅の蛇。それから千五百年後、イエス様はニコデモにご自身のことを語るときに、この出来事を引用されます。なぜでしょうか。モーセが民数記21章で行ったことは、まさにイエス様が十字架で成し遂げられることを予告していたからです。
はじめに : イエス様ご自身が語る不思議な出来事
民数記21章の出来事は、荒野での旅が四十年に及んだ後のことです。イスラエルの民はカナンの地の入り口までもう遠くありません。ミリアムとアロンはすでに亡くなっていました。モーセに導かれ、民は約束の地を前にしてモアブの平野へと向かいます。まさに最後の道のりです。
それでも民は、神様とモーセに対する不平の言葉を見つけ出してしまいます。すると主は炎の蛇を送られ、多くの人が死にました。民は悔い改めます。神様はモーセに青銅の蛇を作り、それを棒の上に掲げるよう命じられます。それを仰ぎ見る者はみな、いのちを得るのです。
この出来事が今日のあなたにとって決定的な意味を持つのは、イエス様ご自身がこれをどう用いられたかにあります。イエス様はニコデモにこう言われました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ 3:14-15)。
つまり、青銅の蛇は旧約聖書の単なる興味深いエピソードではありません。それは十字架を指し示す預言的なしるしなのです。ここでは、民の罪、その裁き、悔い改め、そして神様の解決という四つの流れに沿って、この箇所をたどっていきましょう。
メッセージの流れ
1. 民の罪(民数記21:4-5)
民は神様とモーセに逆らって語ります。紅海が分かれるのを見、マラの苦い水が甘くされるのを見、モーセが手を上げている間アマレクに勝利するのを見てきた彼らなら、心が信頼へと変えられていてもよさそうなものです。ところが、そうはなりませんでした。彼らの心はむしろ頑なになり、忍耐を失っていったのです。
だからこそ、忍耐は神様の子どもにとって大切な資質なのです。ヤコブ 5:7はこう語ります。「愛する皆さん、主が帰って来られる日まで、忍耐強く待ちなさい。それは、農夫が畑の実りを気長に待つのに似ています。」今の時代は、待つことがますます苦手になっています。それでも聖書は、あなたに忍耐を求めています。種をまいた日に刈り入れることはできないのです。
民は口を悪く用いました。これは決して軽い問題ではありません。私たちの言葉には確かな力があります。「軽率なことばは剣のように人を傷つけ、知恵のあることばは人を癒やします。」(箴言 12:18)あなたの言葉は、平安や励まし、祝福をもたらすこともできれば、剣のように人を傷つけ、苦い思いを残すこともできるのです。
この民は、エジプトで430年間も奴隷でした。今は自由の身ですが、彼らはその恵みをもう見えなくしてしまっています。神様の日々の恵みに飽き飽きしているのです。神様が毎日与えてくださるパン、マナのことを、彼らは「こんなみすぼらしい食べ物」と呼びます。しかしイエス様はこう言われます。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。」(ヨハネ 6:33)マナは、キリストを指し示すしるしなのです。
彼らはまた、「水もない」と言います。しかしこれも正確ではありません。コリント人への手紙第一 10:4にはこうあります。「みな、いっしょについて来る霊の岩から出る、霊の水を飲みました。その岩とはキリストです。」民は霊的に目が見えなくなっていたのです。マナも見えず、岩も見えなくなっていました。これこそ悪魔の働きです。悪魔は今もなお、あなたの人生にある神様の祝福を見えなくさせようとしているのです。
イエス様はこう警告されます。「わたしはあなたがたに言います。人はさばきの日に、口にした無益なことばについて申し開きをしなければなりません。」(マタイ 12:36)いいかげんな言葉を口にすると、自分自身にのろいを招くことになるのです。
民は自分を律することができず、神様を第一にしていませんでした。勝利の人生は、雨の日でも練習を欠かさないスポーツ選手のように、日々の訓練から生まれます。ダビデとヨセフは、誘惑に対して異なる反応を見せました。屋上にいたダビデは備えができておらず、バテ・シェバとの罪に陥りました。一方ヨセフは、神様に近く目を覚ましていたので、ポティファルの妻の前から逃げ出しました。この二人の違いは、日々の霊的な訓練にあったのです。
2. 裁き : 死をもたらす毒(民数記21:6)
主は民に炎の蛇を送り、彼らをかませられました。この蛇には毒がありました。聖書において毒は、罪を表すしるしです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神が与えてくださる贈り物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙 6:23)
罪は目に見えない毒です。それを放っておけば、あなたを霊的な死へと導きます。この現実を軽く見ることはできません。神様は聖なる方であり義なる方であって、決して悪と交わることがないからです。しかし神様は、あなたの救いのためにすでに備えをしてくださっています。
罪を心の中に居座らせてしまうクリスチャンには、問題が生じます。血のついた凍った刃物をなめる狼のたとえのようなものです。狼は自分の舌が切れていることに気づかず、やがて自らの血を失って死んでしまいます。罪もこれと同じように働きます。楽しんでいるつもりが、内側からあなたを蝕んでいくのです。
預言者サムエルの時代、民は妥協に慣れきってしまっていました。偶像が家々の中にまで入り込んでいたのです。「もしあなたがたが心を尽くして主に立ち返るのなら、あなたがたのうちにある異国の神々やアシュタロテの像を取り除き、心を主に向けて、ただ主にのみ仕えなさい。」(サムエル記第一 7:3)聖書はこれを霊的な姦淫と呼びます。神様は熱心な神であり、ご自分の栄光を分け与えることはなさいません。神様のものでないものは、あなたの家の中に置く場所がないのです。
3. 民の悔い改め(民数記21:7)
民はモーセのところに来て、自分たちの罪を認めます。「私たちは主とあなたに逆らって語り、罪を犯しました。主に祈って、この蛇を私たちから取り除いてください。」これこそ、罪を犯したすべての人にとって欠かせない段階、悔い改めです。
彼らの心は打たれました。彼らは赦しを求めます。神様は赦したいと願っておられますが、そこには誠実な歩み寄りが必要です。「神へのいけにえは、砕かれたたましいです。神よ、あなたは砕かれた悔いた心を軽んじられません。」(詩篇 51:17)神様は、あなたの意思に反して赦されることはありません。悔い改めがなければ、赦しもないのです。
あなたはまた、罪が神様の目にどれほど重大なものかを悟る必要があります。私たちは生まれつき、それを見ることができません。心を目覚めさせてくださるのは聖霊です。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の人の目を開かせます。」(ヨハネ16:8)この重大さが分かって初めて、悔い改めは本物になります。
モーセは、自分に逆らって語った民のために祈ります。彼は恨みを抱きませんでした。これはあなたにとっても学びです。あなたも、自分を傷つけた人を赦す機会に出会うことでしょう。そしてよく心に留めてください。民が非難していた当の人物こそ、神様が彼らを祝福するために用いられた人物だったのです。今あなたが裁いているその人が、いつかあなた自身を祝福する神様の器になるかもしれません。
4. 神様の解決策 : 掲げられた青銅の蛇(民数記21:8-9)
主はモーセにこう指示されます。「あなたは炎の蛇を作り、それを旗ざおの上に掲げなさい。かまれた者はみな、それを見上げれば生きる。」モーセは青銅の蛇を作り、それを棒の上に掲げます。そして蛇にかまれた者は誰でも、その青銅の蛇を見上げれば生きたのです。
この解決策は、人間から来るものではありません。神様から来るものです。罪はあまりにも重大であり、人間の手による治療法では決して癒やすことができません。薬局に行っても、罪に効く薬は見つかりません。赦しに必要なすべては、神様の御言葉の中にあるのです。
罪は目に見えません。まるで内側で外からは見えないまま体を蝕んでいくがんのようです。そしてそれに対処しなければ、永遠の死へと至ります。
神様の解決策は驚くほど単純です。「見上げれば生きる。」民は何かに値する必要も、代価を払う必要も、理解する必要もありませんでした。ただ信じて従い、掲げられた蛇に目を上げるだけでよかったのです。これは今日も変わらぬ真理です。誰も強制されません。ただ神様の言われることを信じ、従いさえすればよいのです。
5. 十字架との対応 :「人の子もまた上げられなければなりません」(ヨハネ3:14)
なぜイエス様は、ご自身について語るためにこの箇所を引用されたのでしょうか。この対応関係が、実に印象的だからです。木の棒に掲げられた蛇、木の十字架に掲げられたキリスト。十字架の上で、イエス様は神様と人との間に立たれます。「神はただひとりであり、また神と人との間の仲介者もただひとりです。それは人としてこられたキリスト・イエスです。」(テモテへの手紙第一 2:5)ほかに求めてはいけません。ほかの解決策を探してはいけません。あなたを神様のもとへと導いてくださるイエス・キリストのもとに来てください。
救われるための条件はただ一つ、信じることです。すでに働きは成し遂げられました。イエス様はあなたの罪を消し去るために十字架で死んでくださったのです。しかし、すべての人が救われているわけではありません。本文はこう告げています。「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」信仰なしには救いはありません。救いとは、キリストによってすでに成し遂げられた業(すべての人に差し出されているもの)であると同時に、イエス様を主、救い主として信じるという個人的な決断でもあるのです。かまれた者が青銅の蛇を見上げて癒やされたように、あなたも十字架に掲げられたイエス様を見上げるとき、赦されるのです。
イエス様が蛇のイメージ、普段は悪魔、アダムとエバを誘惑した「昔からの蛇」を思い起こさせるイメージを引用されたことに、驚くかもしれません。神の子がどうして蛇に例えられるのでしょうか。パウロはこう答えます。「神はこの方を、私たちの罪を負わせて罪ある者とされました。それは、この方によって私たちが神の義をいただくためです。」(コリント人への手紙第二 5:21)十字架の上で、イエス様はあなたの罪を負い、それを贖うために「罪とされた」のです。そして私たちの罪が消し去られるとき、神様の義が私たちに移されます。だからこそ聖書はクリスチャンを「聖徒」と呼びます。それは彼らが完全な人間だからではなく、イエス様の血によって義とされているからです。
6. 注意 : 祝福が迷信に変わるとき(列王記第二 18:4)
民にいのちをもたらしたこの青銅の蛇は、その後悪い結末を迎えます。七百年後、ヒゼキヤ王の時代にこう記されています。「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの子らはその日まで、これに香をたいていたからである。人々はこれをネフシュタンと呼んでいた。」(列王記第二 18:4)
つまり、祝福がいつしか偶像へと変わってしまったのです。民は祝福を与える神様ではなく、祝福された物そのものを求めるようになっていました。ここには注意が必要です。神様からの大きな祝福でさえ、あなたが祝福の与え主との生きた交わりを保っていなければ、時を経て迷信へと変わってしまうことがあるのです。聖霊によって絶えず新しくされるように祈り、形だけの宗教へと滑り落ちないようにしましょう。
覚えておきたいポイント
- 青銅の蛇は十字架を予告しています。これは旧約聖書の単なる興味深いエピソードではありません。イエス様ご自身が、十字架での自らの姿を示すしるしとしてこれを引用されました(ヨハネ3:14)。
- 不平は決して軽いものではありません。蛇にかまれた民は、その前に言葉で神様に「かみついて」いたのです。あなたの言葉は、祝福することも、剣のように人を傷つけることもできます。
- 罪は目に見えない毒です。外からは見えなくても、対処しなければあなたを蝕み、霊的な死へと導きます。
- 赦しには悔い改めが必要です。神様は赦したいと願っておられますが、そこには誠実な歩み寄り(認め、へりくだり、恵みを求めること)が必要です。
- 「見上げれば生きる。」救いは、自分の功績ではなく、信仰というシンプルな行為によって受け取るものです。かまれた者が目を上げたように、あなたもイエス様を見上げるのです。
- 祝福は迷信へと変質することがあります。物や手段に執着せず、祝福を与えてくださる神様ご自身に結びついていましょう。
あなたへの適用
- 今、あなたはどんなことで不平を漏らしていますか。もう見えなくなっている祝福を一つ探し出し、5分間、それを神様に言葉にして伝えてみましょう。
- 「目に見えない」からといって、放置している罪はありませんか。それを名指しし、誠実な悔い改めの祈りをもって主のもとに持って行きましょう。
- 誰かの言葉や態度によって傷つけられたことはありませんか。恨みを抱き続けるのではなく、モーセのように、その人のために祈る備えはできていますか。
- ダビデのように不意を突かれるのではなく、ヨセフのように「備えができている」者となるために、今週どんな日々の訓練(祈り、御言葉、交わり)を始めたいですか。
- 祝福、奉仕、過去の経験の中に、いつの間にか偶像にしてしまいそうなものはありませんか。贈り物ではなく、贈り主である神様ご自身に立ち返るには、どうすればよいでしょうか。
引用された聖句
- 民数記 21:4-9 · 炎の蛇と、棒の上に掲げられた青銅の蛇
- ヨハネ 3:14-15 ·「モーセが蛇を上げたように……人の子もまた上げられなければなりません」
- ローマ人への手紙 6:23 · 罪から来る報酬は死である
- コリント人への手紙第二 5:21 · 神は私たちのために、この方を罪とされた
- ヨハネ 6:33 · 神のパンは天から下る
- コリント人への手紙第一 10:4 · 彼らについて来た霊の岩、それはキリストであった
- ヤコブ 5:7 · 主が帰って来られる日まで忍耐強く待ちなさい
- 箴言 12:18 · 知恵のあることばは人を癒やす
- マタイ 12:36 · 無益なことばについて申し開きをする
- サムエル記第一 7:3 · 異国の神々をあなたがたのうちから取り除きなさい
- 詩篇 51:17 · 神へのいけにえは砕かれたたましいである
- 列王記第二 18:4 · ヒゼキヤがネフシュタンとなった青銅の蛇を打ち砕く
よくある質問
刻んだ像が禁じられているのに、なぜ神様はモーセに蛇を作らせたのですか。
律法が禁じているのは、礼拝の対象とするための刻んだ像です(出エジプト記20:4)。ここで神様が命じられたのは、特定の目的、すなわちご自分の救いを指し示す目に見えるしるしとして用いるための、一度限りの物の制作でした。それは礼拝すべき対象ではなく、信仰の目を向けるための一点だったのです。それが決して礼拝の対象として意図されていなかった証拠に、七百年後に民がそれに香をたき始めると、ヒゼキヤ王はためらうことなくそれを打ち砕きました(列王記第二 18:4)。
なぜイエス様は、通常は悪しき者の象徴である蛇にご自身をたとえられたのですか。
十字架の上で、めまいがするほどの出来事が起こったからです。一度も罪を犯したことのない方が、「私たちのために罪とされた」のです(コリント人への手紙第二 5:21)。イエス様は私たちの罪、私たちの毒を、ご自身の上に負われました。掲げられた蛇のイメージは、イエス様が悪い方だということを意味しているのではありません。それは、私たちがイエス様を見上げることで癒やされるために、イエス様が私たちの悪を引き受けてくださったということを意味しているのです。
十字架に掲げられたイエス様を「見上げる」とは、具体的にどういうことですか。
それは十字架像をじっと見つめることでも、何かの儀式を行うことでもありません。それは、イエス様の死があなたの罪の代価を払ってくださったと信じ、自分の人生をイエス様にゆだねることです。荒野でかまれた人に解毒剤も、薬も、ささげるべきいけにえもなく、ただ神様の言われることを信じて目を上げるしかなかったように、あなたの救いも信仰によって受け取るものです。それは単純で、無償であり、今日この時からあなたの手の届くところにあります。
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