はじめに
ある友人が病気になりました。その家族はイエスに知らせます。ところがイエスは動きません。今いる場所にさらに二日とどまり、ようやくベタニアに着いたときには、ラザロはすでに四日前に死んでいました。墓石はもう置かれています。マルタによれば、すでに臭いも始まっています。人間的に見れば、すべては終わっています。
3月22日の日曜日、パリ・グルネルの教会で、Narcisse Ipoteはヨハネ11章を開きました。この章に聖書自身がつけている見出しは、と彼は言います、実に厳しいものです。「イエスの友の死」。それでも冒頭の数節から、イエスは違う見方を示しています。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものである。」
このメッセージは、あなたをとてもシンプルな問いへと連れ戻します。神があなたの人生で遅れているように見えるとき、あなたは自分の信仰をどうしますか。もしその「遅れ」が、あなたが思っているものとは違うとしたら?
メッセージの構成
1. 神の沈黙は決して神の不在ではない
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です。」二人の姉妹は、この短くも重いメッセージを送ります。彼女たちは何も要求しません。ただ事実を伝えるだけです。それで十分だと知っているからです。ところがイエスはとどまります。待たれます。日々を過ぎ去るままにされます。
Narcisse Ipoteは率直に問いかけます。私たちも同じように、朝も夜も、日ごとに祈っています。「主よ、主よ、主よ。」それでも何も変わらない。失業は続く。病気は治らない。家庭の争いは居座る。あなたは主が遅れているように感じます。
しかし、その遅れは愛の欠如ではありません。それはあなたの理解を超えた大きな計画なのです。神の沈黙は、決して神の不在を意味しません。キリストはラザロが病気であることを知っておられました。この家族を深く愛しておられることも知っておられました。それでも走って駆けつけることはなさいませんでした。緊急性に屈することはなさらなかったのです。
2. イエスが手遅れのように見えるとき
墓の中で四日。当時のユダヤ文化では、これは魂が体を完全に離れたことを意味しました。人間的な希望はすべて絶たれています。まさにこの瞬間に、イエスは到着されます。
マルタは走り出てイエスを迎え、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」説教者はこの言葉の美しさを強調します。それは正直な信仰であり、失望の入り混じった信仰です。真実な信仰ですが、限界を伴っています。マルタは信じています。しかし「もし」と「もう遅い」という条件つきで信じているのです。
これはあなたのことでもあるのではないでしょうか。神はいやすことがおできになる、でも私には無理。神は道を開いてくださる、でも今回は違う。神は働かれる、でも私のために働いてくださるだろうか。あなたの信仰はしばしば、人間的な現実主義によって。あなたが見えるもの、あなたが計算するもの、あなたが可能だと思うものによって。阻まれています。
3. ニューカレドニアのエピソード
ここでNarcisse Ipoteは個人的な体験を語ります。2002年、結婚したばかりの彼は妻とアビジャンに住んでいました。ある時、ニューカレドニアに住む人と出会います。あるアイデアが芽生えます。二人は言い合いました。「主に何か特別なことをお願いしよう。あそこに移り住む恵みをお願いしよう。」
二人は毎日祈ります。朝も夜も。最初に開かれた機会はナイジェリアのラゴスでした。「ラゴスとニューカレドニアはまったく違う場所です。」それでも二人はそこへ行きます。それからモルディブ。「主が私たちの祈りに答えてくださった」と二人は思いました、「まるで主が地理を知らないかのように。」それからシンガポールで四年間。「もうこれは完全に終わったな、と思いました。」
そしてある日、妻がこう言います。「ニューカレドニアにチャンスがあります。行きたいですか。」彼の最初の反応はこうでした。「主は答えてくださった、でも遅すぎる。」妻は答えます。「いいえ、私たちはずっとこのために祈ってきました。主はちょうど良いとき、主ご自身の時に答えてくださったのです。」
説教者はここから、会衆に笑いを誘う言葉を引き出します。「主はアマゾンではありません。主はウーバーではありません。」あなたは配達予定時刻の表示された注文のように神に注文することはできません。神の時は、あなたの時ではないのです。
4. 「わたしは復活であり、命である」
マルタの前で、イエスは福音書の中でも最も大いなる宣言のひとつを語られます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。あなたはこれを信じるか。」
Narcisse Ipoteはそのニュアンスを強調します。イエスは「わたしは復活を与える」とは言われません。「わたしは復活である」と言われるのです。解決策を提示されるのではありません。ご自身を解決そのものとして示されるのです。
そして、ここにクリスチャン生活の核心があります。今日の問いは、「私の状況は変わりうるか」ではありません。「すべてを変えることのできる方を、私は信じているか」なのです。これは同じ信仰ではありません。一方は望む結果に信頼を置きます。もう一方は人格に信頼を置きます。聖書的な信仰は後者です。
5. イエスは涙を流された:神はあなたの痛みに共感される
二語だけ。聖書の中で最も短い節です。短いですが、深いものです。イエスは完全に神であられますが、同時に完全に人でもあられます。人間としての状態を最後まで担われました。苦しむとはどういうことかをご存じです。死とはどういうことかをご存じです。喪失を感じられます。不条理を感じられます。
神はあなたの状況に無関心ではありません。あなたが泣くとき、神は「大げさだ」と言わんばかりに上から見下ろすことはなさいません。神はあなたと共に泣かれます。それこそが、墓の前で、あなたを安心させるべきものです。
6. 「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」
「石を取りのけなさい。」イエスは命じられます。マルタは抵抗します。「主よ、もう四日たっていますから、においます。」つまり、これは本当に終わったこと、何をしても無駄だということです。イエスはこう答えられます。「信じるなら、神の栄光を見ると、あなたに言わなかったか。」
Narcisse Ipoteは、この根本的な逆転に光を当てます。私たちの論理はこう言います。まず見て、それから信じる。イエスはこう言われます。まず信じて、それから見る。見るために信じるのではなく、信じるために見るのです。すべてを変えるニュアンスがここにあります。
今あなたが置かれている状況。病気、失業、行き詰まり、家庭の争い。においても、この言葉は変わりません。信じるなら、あなたは神の栄光を見るのです。
7. 救われている、しかしまだ縛られている
ラザロは墓から出てきます。生きて。しかし、まだ縛られたままです。手足は亜麻布で巻かれ、顔は布で覆われています。イエスはそこでこう言われます。「彼を解いて、行かせなさい。」
Narcisse Ipoteはここに力強いイメージを見出します。多くのクリスチャンがこの状態にあります。イエス・キリストにあって救われていながら、まだ縛られています。恐れに縛られ、習慣に縛られ、傷に縛られています。前に進むことを妨げる目に見えない鎖に縛られています。
神はあなたに命を与えるだけを望んでおられるのではありません。あなたを自由にしたいと望んでおられます。恐れから自由に、傷から自由に、キリストがすでにあなたの人生に入ってこられたのに、あなたをなお捕らえているすべてのものから自由に。悪魔のほうは、あなたがキリストにあるこの自由と喜びを生きることを望んでいません。
覚えておきたいポイント
- 神の沈黙はその不在ではありません。それはしばしば、あなたの理解を超えた大きな計画が働いている場所です。
- イエスは決して遅れて来られません。神の栄光が最もはっきりと見えるとき、その時こそがちょうど良い時なのです。
- 信仰は望む結果に置かれるのではなく、復活であり命である方、イエスという人格に置かれます。
- 私たちは見るために信じるのではなく、信じるために見るのです。信仰は現れに先立ちます。
- 救われるだけでは十分ではありません。イエスはあなたをまだ縛っているものからも解き放ちたいと願っておられます。
個人への適用
- 今、どんな状況で「イエスが遅れている」と感じていますか。その待つ時間の中で、あなたの心には何が起こっていますか。
- あなたは、望む結果(いやし、開かれた道、伴侶、仕事)に信仰を置いていますか、それともイエスご自身に信仰を置いていますか。今週、これはあなたにとって具体的にどんな違いをもたらしますか。
- あなたはマルタのように、「終わりの日には」信じていても、「今」は信じていない部分がどこにありますか。あきらめてしまった祈りの中で、もう一度取り上げられるものはありますか。
- 状況が閉ざされているように見える今、イエスはどんな「石」をあなたに取りのけるよう求めておられますか。
- あなたは救われていながら、まだ縛られていますか。あなたをまだ捕らえている恐れ、傷、習慣をひとつ具体的に挙げ、このように祈ってイエスの前に差し出してください。「主よ、私を解いて、行かせてください。」
引用された聖句
- ヨハネ 11:1-44 · ラザロの死と復活。
- ヨハネ 11:4 · 「この病気は死に至らない。それは神の栄光のためであり……」
- ヨハネ 11:21-22 · 「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」
- ヨハネ 11:25-26 · 「わたしは復活であり、命である。あなたはこれを信じるか。」
- ヨハネ 11:35 · 「イエスは涙を流された。」
- ヨハネ 11:40 · 「信じるなら神の栄光を見ると、あなたに言わなかったか。」
- ヨハネ 11:44 · 「彼を解いて、行かせなさい。」
よくある質問
なぜイエスはラザロが死ぬのを待ってからベタニアに行かれたのですか?
イエスご自身がこう言われています。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものである。」その遅れは愛の欠如ではなく、人間の理解を超えた大きな計画です。神の沈黙は、決して神の不在を意味しません。神は、ご自分の栄光が周りの人々と弟子たちの信仰にとって最も明確に見える瞬間を待っておられるのです。
「信じるなら、神の栄光を見る」とはどういう意味ですか?
イエスは私たちの論理を逆転させます。私たちはまず見て、それから信じたいと思います。しかしイエスは逆のことを言われます。信仰は現れに先立つのです。信じるとは、状況が変わる前から、すべてを変えることのできる方に信頼を置くことです。それは結果の確信ではなく、人格への信頼です。すなわち、ご自身が復活であり命であるイエスへの信頼です。
なぜイエスはラザロを生き返らせた後、彼を解いてやるように言われたのですか?
ラザロは生き返って出てきますが、まだ墓の布に縛られたままでした。これは多くの信者の姿を表しています。キリストにあって救われていても、恐れや傷、習慣にまだ縛られているのです。イエスは私たちに命を与えるだけでなく、自由にしたいと願っておられます。「彼を解いて、行かせなさい。」救いはすでに与えられていますが、解放は歩みなのです。
おわりに
もしかすると今朝、あなたはこの物語の中に自分自身を見出したかもしれません。マルタのように、こう言ったかもしれません。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら……」あなたの状況は、ラザロのそれに似ているかもしれません。病気、閉ざされた扉、終わりのない待ち時間、疲れ果てた心。
Narcisse Ipoteは、心に留めておきたい一言でメッセージを締めくくります。「あなたが『死』と呼ぶものを、主は『眠り』と呼ばれる。」イエスは言われました。「わたしたちの友ラザロは眠っている。わたしは彼を起こしに行く。」あなたが自分の人生で終わったと考えているものを、主はもしかしたら「眠り」と呼んでおられるのかもしれません。
イエスが語っておられる限り、まだ終わってはいません。墓の前で、イエスは叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」そしてラザロは出て来ました。最初の一歩を踏み出したのはラザロではありません。ラザロを呼ばれたのはイエスです。今日、イエスはあなたの名を呼んでおられます。落胆から出て来なさい。目に見えない鎖から出て来なさい。あなたの「遅れ」から出て来なさい。
問いはとてもシンプルなまま残ります。あなたはこれを信じますか。
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