はじめに:予定していなかった食事
何週間も前から準備される食事もあれば、突然やってくる食事もあります。立ち寄った友人、孤立している隣人、たまたま出会って食卓に招いた人。今回のメッセージで、マット・マルヴァンヌは、もてなしがごく自然だった家庭で育った経験を語っています。彼の家は「幸せの家」と呼ばれ、いつでも椅子を一脚足すことをためらいませんでした。そして彼は、さらに即興的なある食事の場面へと私たちを導きます。それは、異邦人の地デカポリスで、イエス様がパン七つと魚数匹で4000人以上を養われた場面です。
この箇所はマタイ15:32-39とマルコ8:1-9で読むことができます。これは5000人のためにパン五つと魚二匹を増やされた出来事(ユダヤ人の群衆に向けられたもの)とは異なります。これはそれとは別の、もっと後に、異邦人の地で起こった奇跡です。そしてこの違いが、私たちがこの箇所から受け取れるものを大きく変えます。
メッセージの構成
1. 群衆を憐れまれる神
「わたしはこの群衆がかわいそうだ」とイエス様は言われます。彼らはすでに三日間イエス様と一緒にいて、食べる物がありません。もしこのまま何も食べさせずに帰らせれば、途中で倒れてしまうでしょう。イエス様は誰かに尋ねられるのを待ちません。ご自分でご覧になり、気づかれ、心を動かされるのです。
この憐れみは、聖書に慣れ親しんだ民に向けられたものではありません。ここはガリラヤ湖の東にあるデカポリス、大部分が異邦人の地域です(マルコ7:31)。イエス様は、すでに聖書を知っている人たちのためだけに来られたのではありません。その憐れみは、宗教的・文化的な境界線を越えて広がります。このことは、教会に一度も足を運んだことのない、あなたの周りの人々への見方を揺さぶるはずです。
2. 「パンはいくつありますか」
大きな必要を前にして、イエス様は弟子たちに必要の大きさを測るようには求められません。彼らが持っているものを測るように求められます。「七つです」と弟子たちは答えます。「それと小さな魚が少し」と。あなたの手の中にあるものは、必要の大きさと比べると、いつも取るに足らないものに見えます。しかしイエス様は、あなたに「十分な量」を求めておられるのではありません。あなたが持っているものを、ご自分のところに持って来るようにと求めておられるのです。
大切なのは、あなたの目に見えるものの大きさではなく、あなたが手に握っているものです。決めるのは、目の前にある山の高さではなく、あなたがイエス様の手に委ねるものです。なぜなら、神にとって不可能なことは一つもないからです(ルカ1:37)。
3. 感謝し、裂き、分け与える
イエス様は七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげ、それらを裂いて、弟子たちに渡し、群衆に配らせました。ここには覚えておきたい順番があります。まず感謝、次に裂かれること、そして分け与えることです。私たちは、たとえ少しであっても、持っているものについて感謝します。そして、その少しが自分の手の中で裂かれ、砕かれることを受け入れます。そしてそれを人へと渡していきます。
あなたも、群衆を一人で養う必要はありません。あなたは、その鎖の中の一つの輪にすぎません。弟子たちは配り、イエス様が増やしてくださいました。あなたの責任は、持っているものを差し出すこと。増やすことは、イエス様の側の責任です。
4. 神を物語る余り
「みんなは食べて満腹しました。そして残ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになりました。」七つのかごです。あなたが持っているものを神にお委ねするとき、神はぎりぎり足りるようにはなさいません。あふれるほど豊かに、さらに分かち合えるほどに与えてくださいます。この余りは些細なことではありません。それは、この食事に神が刻まれたしるしなのです。
5. 十字架を指し示す食事
マルヴァンヌはこう強調します。人類を救うのに1000人のイエス様は必要ではありませんでした。必要だったのはただお一人です。十字架でただ一度裂かれたただ一つのパン、それがあなたのため、そして群衆のために十分だったのです。この増殖の奇跡は、私たちが取るに足りないと思っているもの、まず何より、価値がないと思い込んでいる自分の命そのものを神にお渡しするたびに、神がなしてくださることの一つの姿にすぎません。
心に留めたいポイント
- イエス様は群衆を憐れんでくださいます。たとえ、いいえ、むしろ、彼らが聖書を知らないときにこそ。
- 大切なのは必要の大きさではなく、あなたが手に握っていて、それをイエス様の手に委ねられるかどうかです。
- まず感謝し、その少しが裂かれることを受け入れ、それから分け与えましょう。増やすのはイエス様の仕事です。
- 神はぎりぎり足りるようにはなさいません。次のために、いつも余りのかごを用意してくださいます。
- 自然なもてなし、開かれた食卓、もう一脚の椅子。これは本物の奉仕です。
あなたへの適用
- 今週、あなたの周りで、イエス様が空腹のまま帰らせることを拒まれた、あの群衆のような人は誰でしょうか。
- 時間、食卓、傾聴、お金、能力など、あなたが具体的に手にしていながら、「これでは少なすぎる」と思って抱え込んでいるものは何でしょうか。
- あなたはまず感謝することから始めていますか、それとも足りないことへの不満から始めていますか。
- 最後に、あなたと食事をする予定のなかった誰かを招いたのはいつでしたか。
- イエス様が「今持っているもので始めなさい」と言っておられるのに、あなたが「もっとあれば」と待ち続けている領域はないでしょうか。
引用された聖句
- マタイ15:32-39・七つのパンの増加
- マルコ8:1-9・マルコによる同じ記事
- マルコ7:31・異邦人の地デカポリスでのイエス様
- ルカ1:37・神にとって不可能なことは一つもない
よくある質問
これは、パン五つと魚二匹の話と同じ出来事ですか。
いいえ、違います。マルヴァンヌもメッセージの中でそう説明しています。5000人のための増加(パン五つ、魚二匹、ユダヤ人の群衆)は別の奇跡です。こちらはデカポリスで、4000人、パン七つ、そして大部分が異邦人の群衆に向けて起こった出来事です。
自分が持っているものが本当に取るに足りないと感じるとき、どうすればいいですか。
それはまさに弟子たちが抱いた問いです。イエス様の答えは、まずその取るに足りないものをご自分のもとに持って来て、感謝することです。自分の力でそれを増やすのではなく、それをイエス様の手に委ねるのです。
もてなしは本当に霊的なテーマなのですか。
はい、そうです。マルヴァンヌは、父親が街に出て一人ぼっちの人たちを探し出し、クリスマスの食卓に招いていたことを語っています。食卓を開くことは、単なる心のゆとりの表れではありません。それは、イエス様が群衆に対して抱かれる憐れみを、とても具体的な形で目に見えるようにする方法なのです。
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