はじめに
ユダは三年間、イエス様に従っていました。バプテスマを受け、福音を宣べ伝え、人々が信仰に導かれるのを目の当たりにし、キリストは彼を通して奇跡さえ行われました。外側から見れば、彼は弟子と呼ばれていました。それでも、彼は最後まで留まることができませんでした。
この出来事は、あなた自身に、そしてクリスチャンを名乗るすべての人に関わる問いを投げかけます。本当にイエス様の弟子として生きている人と、名前だけの人とを、どう見分けたらよいのでしょうか。この問いにイエス様が答えておられるのが、ヨハネ15章1〜17節です。十字架を前にした最後の教えであり、弟子たちとゲツセマネの園へ向かう道すがら語られた言葉です。
弟子になることは良いことです。でも、弟子であり続けることはもっと大切です。そして、すべてはこの「とどまる」ことにかかっています。
説教の流れ
1.本当の弟子の第一のしるし:実を結ぶこと(ヨハネ15章1〜8節)
イエス様はまず、シンプルなたとえから始められます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」イエス様はこの点に何度も立ち返り、深めていき、次の中心的な言葉へと導いていかれます。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハネ15章8節、口語訳を参考に)。
この一節は「なぜ」という問いに答えてくれます。なぜあなたはこの地上にいるのでしょうか。神様に栄光を帰すためです。では、どのようにして神様は栄光をお受けになるのでしょうか。あなたが本当にイエス様の弟子となっていく姿を通してです。あなたを弟子だと証しするのは、時々の小さな実ではありません。「多くの実」なのです。
木はその実によって見分けられます。葉っぱだけを見て、あるいは真冬に、リンゴの木と梨の木とマロニエの木を見分けようとしても難しいものです。実がその木を明らかにします。クリスチャンも同じです。キリスト教信仰は決して個人的な、隠されたものではありません。もし周りの人があなたに何の違いも見出せないなら、それは実に関する問題があるということです。
イエス様はその実が何であるかリストを示してはおられません。この言葉はあえて幅広く残されています。それでも、目に見えるべきことをよく表す三つの大きな特徴があります。
- キリストとともに歩む生活。個人的な敬虔さ、開かれた聖書、規則正しい祈り。御言葉は不要なものを切り取る剪定ばさみのように働きます(ヨハネ15章2〜3節)。誰も困難な時や疑いの瞬間を免れることはできませんが、クリスチャンは自分の人生を振り返るとき、そこに継続的な成長を見出せるはずです。
- 公の礼拝。イエス様の弟子は、彼を愛していることを堂々と表します。だからこそ教会の集まりは公のものなのです。神の民と決して集わないクリスチャンには、実に関する問題があります。集会は選択肢の一つではなく、優先すべきことであるはずです。
- 具体的な奉仕。キリスト教信仰は、よいヨーグルトのようなものです。内側で働き、外側に現れます。クリスチャンは仕えます。自分が持っているすべてのものと、自分自身のすべてを用いて、世界がイエス様を知るために働きます。難しい状況の中でも、平安と喜びと赦しをもたらします。職場や家族、近所を変えていきます。
そしてイエス様は、その先にあることを隠しはなさいません。実を結ばない枝は「取り除かれ」ます(ヨハネ15章2節)。これは強く、心をざわつかせる言葉です。だからこそ3節で、イエス様はそこにいる人々にすぐに安心を与えられます。「あなたがたは、わたしが語った言葉によって、すでにきよくされています。」イエス様はまず、部屋を出て行ったばかりのユダのことを考えておられます。しかし同時に、数時間後にご自分を見捨てることになるすべての人々のことも考えておられ、それでも彼らを見捨ててはいません。「一度罪を犯したからイエス様に見放される」という話ではありません。長期にわたって何も実を結ばないクリスチャンには、本当に問い直すべきことがある、ということなのです。
2.第二のしるし:キリストにとどまること(ヨハネ15章4〜7節)
ぶどうの木のたとえの後に、一つの命令が続きます。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたにとどまります」(ヨハネ15章4節)。枝は幹から切り離されて、単独では生きられません。水を吸い上げ、栄養分を取り込み、樹液を作って枝へと送り上げるのは、ぶどうの木の根なのです。この依存関係がなければ、枝は何も生み出せません。
とどまるとは、まさにこのことです。依存することです。キリストをあなたの家とし、そこに留まり、あちこちに気移りしないことです。イエス様は明確に言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません」(ヨハネ15章5節)。「少し難しくなる」のではありません。「何もできない」のです。
私たちの自然な反応は、この逆です。私たちはイエス様にこう言いがちです。「大丈夫です、私は自分の人生のこの部分は自分でなんとかできます。規律も才能もあります。大きな罪や大きな困難のときだけ、あなたを呼びます。」私たちの文化も同じ方向を後押しします。人生とは自立へと向かう長い歩みだと語られます。親元を離れ、自立し、あまり人に頼りたくないと考えるようになります。
キリストは私たちに、根本的な方向転換を求めておられます。成熟したクリスチャンとは、人生がうまくいっているから祈りをあまり必要としない人のことではありません。自分では何もできないと知っているからこそ、自分が行うすべてのことにイエス様を関わらせる人のことです。
ここに、ユダと他の十一人の違いがあります。ユダはとどまらないことを選びました。彼は食卓を立ち去りました。幹から切り離された枝は少しずつ枯れていき、やがて火に投げ込まれるだけになります(ヨハネ15章6節)。これは神様による理不尽な罰ではありません。命の源にとどまり続けないという選択が招く、自然な結果なのです。
3.第三のしるし:イエス様に従うこと(ヨハネ15章9〜11節)
では具体的に、どうやってとどまるのでしょうか。イエス様は続けて言われます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまっていなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにとどまるでしょう。それはちょうど、わたしが父のいましめを守ってその愛のうちにとどまっているのと同じです」(ヨハネ15章9〜10節)。
イエス様にとって、愛の言葉とは、まず賛美のときに手を挙げることではありません。それは従順です。私たちはしばしば逆に考えます。まずイエス様への愛を感じられて初めて、従うことができると。しかしイエス様は逆のことを言われます。従うことによってこそ、その愛をより深く味わえるようになるのです。
一つのたとえで考えてみましょう。イエス様があなたの家の扉をたたき、こう言われる場面を思い浮かべてください。「わたしと一緒に住みなさい。ここに鍵があります。家は丘の上にあり、大きな庭があり、日当たりも素晴らしい。見てごらんなさい、本当に美しい場所です。わたしはここにいます。扉は開いています。食卓の用意もできています。」イエス様の愛は決して動きません。イエス様はいつもその家の中におられます。本当に問われているのは、あなたがそこにとどまるのか、それとも外に出て行ってしまうのか、ということです。神様が遠く感じられるとき、多くの場合、離れて行ったのは神様ではありません。外に飛び出して行ったのは私たちの方であり、それなのに私たちは「主よ、なぜ私を見捨てられたのですか」と平気で言ってしまうのです。
イエス様があなたへの愛の基準として何を示しておられるかに注目してください。「父がわたしを愛されたように。」三位一体の間にある愛、最も聖く、最も完全で、最も忍耐深く、最も大きく、最も無条件な愛。イエス様があなたに対して抱いておられるのは、まさにこの愛なのです。だからこそイエス様はこう続けられます。「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15章11節)。このように愛されたいと願わない人がいるでしょうか。裁きもなく、条件もなく、扉はいつも開かれている、そんな愛を。
そうであれば、従うことはもはや脅しではなくなります。イエス様の論理はこうではありません。「従わないなら、わたしは怒る。」そうではなく、こうです。「わたしに従うなら、あなたはこの世界には決して与えられない愛を味わうことになる。」
4.第四のしるし:キリストが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うこと(ヨハネ15章12〜17節)
従うと言っても、何に従うのでしょうか。イエス様は中心となる例を挙げ、それを対句構造で挟み込まれます。「わたしのいましめは、これです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)。そして五節ほど後にこう言われます。「これらのことをあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためです」(ヨハネ15章17節)。
もしキリスト教信仰全体を一つの動詞で言い表すなら、それは愛することです。そしてイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉で、その意味を具体的に示しておられます。
- 犠牲的な愛。「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はありません」(ヨハネ15章13節)。愛することには代償が伴います。時間、エネルギー、時にはお金も。キリストのように愛するとは、相手が同じように返してくれなくても愛し続けることです。
- 友としての愛。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません……わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15章15節)。イエス様はあなたを「奴隷」とも「取るに足りない存在」とも呼びません。あなたを友と呼んでくださいます。しかもこの友情は、私たちのそれのように会話や共通点を積み重ねて築かれたものではありません。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15章16節)。これは逆向きのスカウトです。イエス様の方から、あなたを迎えに来られたのです。
- 意図的な愛。キリストのように愛するとは、単に悪をもって悪に報いないということだけではありません。それは、たとえ相応しさがなくても、共通点がなくても、相手のいる場所まで出向いていく愛です。あなたが「良い人」になる前から、イエス様はあなたを選んでくださっています。
- 宣教的な愛。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを立てたのは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためです」(ヨハネ15章16節)。キリストが私たちを愛してくださるのは、私たちが今度は他の人を愛せるように整えられるためです。誰かを愛するということは、その人が別の誰かを愛せるようにすることでもあります。
この章の円環が完成します。本当の弟子は実を結びます。実を結ぶのは、キリストにとどまっているからです。キリストにとどまるのは、キリストに従っているからです。キリストに従うのは、キリストが愛してくださったように愛しているからです。そしてその溢れ出る愛こそが、父に栄光を帰す実そのものを生み出すのです。
覚えておきたいポイント
- 本当の弟子は、目に見える実によって見分けられます。キリストとともに歩む生活、公の礼拝、他者への具体的な奉仕です。
- キリストへの依存がなければ、あなたは何もできません。成熟したクリスチャンとは、より自立した人ではなく、より依存する人のことです。
- イエス様の愛にとどまるのは、従うことによってです。従順は喜びを奪うものではなく、むしろ喜びを解き放つものです。
- 中心となる戒めは、キリストのように愛することです。犠牲的に、友として、意図をもって、そして送り出すために。
- ユダは警告であり、数時間後に逃げ出すことになる十一人の弟子たちは希望です。大切なのは完璧であることではなく、とどまる場所へ戻ってくることです。
自分への適用
- 周りの人は、あなたのうちにキリストを指し示す何か(平安、喜び、赦し)を見出しているでしょうか。それとも、あなたの信仰は見えなくなってしまっていますか。
- あなたの人生のどの部分について、イエス様に「大丈夫、自分でなんとかします」と言い続けていますか。もし明日の朝からそこにイエス様を招き入れたら、何が変わるでしょうか。
- イエス様があなたに求めておられると分かっているのに、何週間も従うことを先延ばしにしていることは何ですか。
- 今週、あなたの周りで、犠牲的で意図的な、「迎えに行く」愛を必要としている人は誰でしょうか。最初の具体的な一歩として何ができますか。
- 今、自分の実を振り返ってみて、何が足りないでしょうか。答えは「もっと頑張ること」ではなく、「とどまる場所へ戻ること」ではないでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ15章1〜17節・まことのぶどうの木と愛の戒め
- ヨハネ15章8節・「多くの実を結ぶとき」
- ヨハネ14章・ぶどうの木のたとえに先立つ、聖霊の約束
よくある質問
しばらく「実を結べない」時期があると、本当は救われていないということでしょうか。
必ずしもそうではありません。イエス様は数時間後にご自分を見捨てることになる弟子たちに、これらのことを語っておられます。それでも彼らを見捨ててはいません。問題は一時的なつまずきではなく、キリストとのつながりを断ってしまい、長期にわたって何も実を結ばない生き方です。もし今、乾いた時期の中にいるなら、問うべきは「自分は救われていないのだろうか」ではなく、「自分はとどまっているだろうか。イエス様が最後に語られたことに従っているだろうか」ということです。
「とどまる」とは、今週具体的にどういうことでしょうか。
とてもシンプルな三つのことです。御言葉に自分を働きかけてもらうこと(ヨハネ15章7節)、自分の力に頼るのではなく日常の決断や課題にイエス様を関わらせること、そして今まさにイエス様が待っておられると分かっている点で従うことです。これは霊的なパフォーマンスではありません。自動操縦を置き換える、積極的な依存です。
自分を失うことなく「キリストが私たちを愛してくださったように」愛するにはどうすればよいでしょうか。
イエス様ご自身も自分を失うことはなかったことを思い出しましょう。イエス様は父の愛にとどまりながら愛されました(ヨハネ15章10節)。キリスト者の愛は犠牲を伴いますが、それは養われるものであり、自分の力から生み出すものではありません。まずとどまっていなければ、難しい配偶者や、感謝を示さない同僚や、警戒心の強い隣人を愛することはできません。実を結ぶ力を枝に与えるのは幹であって、枝が一人で無理をして生み出すものではありません。
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