見てはいけないはずの光景
武装したローマの一隊。祭司長たちとパリサイ人たちが送り込んだ番兵たち。逃げようとする容疑者に備えて、たいまつ、ランタン、剣まで用意されています。すべての準備は整っていました。計画を練り上げたのはユダです。彼はイエス様がどこにいるか正確に知っていました。ケデロンの谷にあるこの園は、過越の祭りのたびにキリストが毎年泊まる場所だったからです。
ところが、この夜ゲツセマネで起きたことは、警備隊の予想とはまったく違うものでした。容疑者のほうから、逮捕しに来た者たちに自分から歩み寄っていったのです。茂みに隠れることも、姿を消そうとすることもありません。質問をするのも、誰を自由にして誰を捕らえさせるかを決めるのも、イエス様ご自身です。ヨハネ18章1〜12節が私たちに見せてくれるのは、十字架へと向かうイエス様の姿です。ただし、犠牲者としてではありません。小川に落ちて流されていく一枚の葉のようではなく、完全に主導権を握っておられるのです。
もし今あなたが、神様は今もあなたの人生の手綱を握っておられるのだろうかと問いかけているなら、この箇所はあなたに語りかけるものを持っています。ご自身の逮捕さえ主導しておられたこのイエス様こそ、あなたの恐れも、祈りも、そして失敗さえも、その御手の中に握っていてくださる方だからです。
三つのポイント
1. 未来を知っておられる神様:だからといってその責任を負われるわけではない
ヨハネは4節から強調しています。「イエスは自分の身に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、彼らのところに進み出て」。イエス様は何ひとつ驚いておられません。前の章ではすでに、ユダを除いて弟子たちの誰一人失われないという約束を語っておられました。私たちの神様は本当にすべてをご存じです。実際に起こること、起こり得たこと、そして決して起こらないことまで。
けれども気をつけてください。未来を知っているということは、そこで起こるすべてに責任を負うということではありません。電話のたとえを考えてみましょう。もし説教者が話の最後に「これから携帯電話を床に投げます」と言い、実際にそうしたとしても、あなたは「知っていたのだから弁償してほしい」とは言わないはずです。神様はユダが何をするかご存じでした。しかしそれを無理強いしたわけではありません。それどころか、最後の最後まで、イエス様はユダに愛を示し、上座に座らせ、パンを与えられました。ユダは自分で選んだのです。彼には本当に責任があります。そして神様は、本当にすべてをご存じでした。
この区別がすべてを変えます。神様は、火をつけておいて自分でそれを消し、拍手を浴びる放火魔のような消防士ではありません。赦すために罪を引き起こすような方ではないのです。
2. 「わたしがそれである」:この一言で一隊が倒れる
6節を見てください。イエス様が「わたしがそれである」と言われると、一隊はうしろに引き下がり、地に倒れます。イエス様の姿を怖がったからではありません。彼らはついさっき、自分の目でイエス様を見ていたのです。この言葉が、ただの言葉ではなかったからです。
燃える柴の前でモーセが神様のお名前を尋ねた場面を思い出してください。神様はヘブライ語でこう答えられました。「わたしはある、という者である」。一人称・現在形の「ある」という動詞です。多くの日本語訳聖書が神様のお名前を「主」あるいは「ヤハウェ」と訳しているのはそのためです。昨日も、今日も、明日も存在し続ける方、という意味です。「わたしがそれである」と言われたとき、イエス様は文字どおり神様のお名前を口にされたのです。そしてこの名前はあまりにも力強く、武装したローマの一隊が地に倒れ込んでしまうほどでした。憤慨したユダヤ人たちだけではありません。武器を持ち、たいまつとランタンを構えた歴戦の兵士たちです。ひと言で、彼らは倒れてしまうのです。
ピリピ人への手紙2章は、これを別の言葉で語っています。イエス様は自ら(無理やりではなく、ご自分から)へりくだり、十字架の死にまで従われました。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ」。知っているということはすばらしいことです。しかしできるということは、もっとすばらしいのです。イエス様はその両方をお持ちなのです。
3. 友の失敗を通してさえ勝利される神様
チェスで毎回必ず勝つ方法は二つあります。一つは、盤の両側を自分で操ること。もう一つは、あまりにも強く、あまりにも賢いために、相手がどんな手を打っても、その一手をそのまま相手に返してしまうことです。私たちの神様は後者です。勝利するために悪を作り出す必要はありません。敵の力そのものを、敵自身に向けて返す力をお持ちなのです。
この箇所の対比が、それをはっきりと示しています。神様の御心を拒む者たち(祭司長たちや一隊)は、知らないうちにその御心を成し遂げています。彼らはイエス様を十字架へと導いているのです。そして、イエス様を愛し、その御心を行いたいと願っている者(ペテロ)が、突然その妨げになってしまいます。シモン・ペテロは剣を抜き、大祭司のしもべマルコスに打ちかかり、右耳を切り落としてしまいます。しもべです。弱い立場の者です。山上の説教を三年間聞き続けてきたはずのペテロが、福音全体をひっくり返してしまうのです。復讐、自己防衛、悪に悪をもって報いること。
そしてイエス様は、この上なくきっぱりと(11節のギリシャ語は、否定を表す最も強い言葉です)こう言われます。「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯を、わたしが飲まないでいられようか。」この杯とは、ぶどう酒でも聖餐でもありません。旧約聖書が語る、積み重なった神様の怒りのイメージであり、イエス様が十字架でそれを飲み干されるのです。イエス様は徹底して決意しておられます。ペテロがどんな見せ場を作ろうとも、そこから一ミリもぶれることはありません。
覚えておきたいこと
- イエス様は決して不意を突かれることがありません。これから起こることをご存じで、ご自分から逮捕しに来た者たちに歩み寄り、誰を自由にするかもご自身で決めておられます。
- イエス様の御名は、あなたを脅かすどんな力よりも強いのです。「わたしがそれである」というたった一言で、一隊全体が地に倒れました。
- 神様は人間の罪に責任を負う方ではありませんが、すべてをひっくり返す力をお持ちです。神の御子の死という、最大の不義さえも、あなたの救いの場所となりました。
- あなたの愚かさは、神様のご計画を妨げません。ペテロのように、あなたがどんなことをしても、イエス様が約束を果たされるのを止めることはできません。
- 不従順によってあなたが失うもの、それはあなたの救いではなく、傷ついた心です。神様は、それでもなお、目的地にたどり着かれます。
自分に問いかけてみよう
- これからのことを考えるとき、あなたの心の中でより大きな場所を占めているのは、恐れですか、それとも、神様がすでにその時をその御手の中に握っておられるという確信ですか。
- あなたはどんなところでペテロに似ていますか。あまりに早く剣を抜いてしまうところ、イエス様よりも先に動いてしまうところ、待つことに耐えられず自分の解決策を押しつけてしまうところ。
- どんな試練の中で、あなたは静かに、自分の罪や自分の心、あるいは自分の置かれた状況のほうが神様より強いと思い込んでしまっていましたか。
- 結果が出なかったからと引き出しにしまい込んだ祈りで、今日改めて、すべてを知りすべてをなし得る神様の前に差し出すべきものはありませんか。
- まるでイエス様がもう一度赦し、もう一度回復させることなどできないかのように、いまだに背負っている過ちはありませんか。
引用された聖句
- ヨハネ 18:1-12 · ゲツセマネでの逮捕
- ヨハネ 17:12 · 「あなたがわたしに下さった者」
- 出エジプト記 3:14 · 「わたしはある、という者である」
- ピリピ人への手紙 2:5-11 · すべての名にまさる名
- 使徒の働き 2:22-24 · 「神があらかじめお立てになったご計画とご予見のとおりに」
よくある質問
もし神様がユダの裏切りをあらかじめ知っておられたのなら、その裏切りの責任も神様にあるのではありませんか。
いいえ、違います。未来を知ることと、それを引き起こすことはまったく別のことです。神様はユダが何をするか知っておられましたが、選んだのはユダ自身です。最後の瞬間まで、イエス様はユダに愛を示し、上座に座らせ、パンを差し出されました。神様の主権と人間の責任は、聖書のこの箇所の中で共に存在しているのです。
イエス様が「わたしがそれである」と言われたとき、なぜ番兵たちは地に倒れたのですか。
この言葉が、出エジプト記3章でモーセに神様が名乗られた「わたしはある」という御名を、そのまま用いたものだからです。これは単なる自己紹介ではなく、神様の御名そのものを呼び出す行為でした。ローマの一隊が引き下がったのは、一人の人間を恐れたからではなく、この御名の重みの前にひれ伏したからです。
もし重い罪を犯してしまったら、救いを失ってしまうのでしょうか。
この問いに答えるのが、神様の主権です。もし罪を犯すことで救いを失ってしまうのなら、私たちは皆とうの昔にそれを失っていたはずです。神様は主権をお持ちであり、イエス・キリストにあってあなたのすべての罪の赦しを約束してくださっているからこそ、あなたは確信を持ってこう言うことができます。「私は救われている。私は赦されている。私は自分の行き先を知っている」と。不従順によってあなたが危険にさらすのは救いではなく、ペテロのように、傷ついた心なのです。
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