はじめに
イースターが終わったあと、あまり声に出して聞けない問いが残ります。信じるために、まだ神様からのしるしが必要なのでしょうか。弟子たちは復活されたイエス様を実際に見ました。彼らには証拠があったのです。けれども今日のあなたは、もしかしたらトマスのようかもしれません。あの夜そこにいなかった人、釘の跡を見なければ信じないと言った人です。このメッセージはヨハネ20:19-30を通して、この問いを真剣に受け止めます。まず復活がキリスト教信仰の絶対的な中心であることを確認し、次にイエス様とトマスの出会いを丁寧に見ていきます。そして最後に良い知らせで締めくくります。あなたが探し求めているしるしは、神様がすでに与えてくださっているのです。
メッセージの構成
1. 復活:私たちの信仰の中心
- 語り手は、喜びに満ちながらも身が引き締まる思いだと語り始めます。なぜなら、これは聖書の中で最も素晴らしいテーマであり、信仰の中心であるイエス・キリストの復活を扱うからです。
- イースターに、私たちは喜びました。イエス様が乱暴に扱われ、辱められ、無実であるのに有罪とされたのを見てきました。その死によって苦しみは終わります。しかし何より、イエス様はよみがえられました。すべてを変えるのはこのことです。
- この復活は、信じるのが難しい出来事です。一度死んだ人がよみがえるというのは不思議なことです。それでもパウロははっきりとこう書いています。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしいものです」(コリント人への手紙第一 15:14)。キリスト教信仰全体が、空の墓とともに立ち、あるいは倒れるのです。
- 復活がなければ、教会で行うすべてのこと、賛美も、交わりも、祈りも、意味を失います。復活があるからこそ、すべてに意味が与えられます。
2. 閉じられた部屋の真ん中に来られるイエス様
- ヨハネ20:19「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけて集まっていた。そこにイエスが来られ、真ん中に立って、『あなたがたに平安あれ』と言われた。」
- 弟子たちは閉じこもっていました。恐れていたのです。彼らの心もまた、失望と疑いで固く閉ざされていました。それでもイエス様は来られます。閉じられた戸も、恐れも、イエス様を止めることはできません。
- 最初の言葉は「あなたがたに平安あれ」でした。逃げたことへの叱責でも、裏切りを思い出させる言葉でもありません。平安です。これは復活の直接の実りです。イエス様が生きておられるからこそ、ご自分でその平安を弟子たちにもたらしてくださるのです。
- イエス様は手とわき腹を見せられます。復活された方は、まさに十字架につけられた方でした。傷跡は消されていません。それは幽霊でも別人でもなく、まさにイエス様ご自身であることの証拠です。その死と復活は切り離せないものです。
- こうして弟子たちは「主を見て喜んだ」のです(ヨハネ20:20)。恐れは退き、復活された方の臨在がすべてをひっくり返します。
3. イエス様が遣わされたように、あなたも遣わされる
- ヨハネ20:21「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす。」
- イエス様は、反逆した人間を父なる神様と和解させるために地上に来られました。その使命を、死と復活によって成し遂げられたのです。今、その使命を弟子たちに託されます。父と子が共に聖霊を送り、三位一体の神ご自身が、失われた者たちを家に連れ戻すために弟子たちを遣わされます。
- これはマタイ28:18-20と同じ派遣です。「わたしには天においても地においても、いっさいの権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
- 全能の神様は、信じているあなたを、失われた人々に語りかけるために用いると決めてくださいました。違いを生むのはあなたのカリスマ性ではなく、あなたのうちにある神様の臨在と、その御名によって語る言葉です。
- 語り手は自身の経験を分かち合います。今週、心配していた人に会うためにフランスを横断しました。何を話せばよいか分からず、所属する家庭集会に祈りを頼みました。その人は自分が生きていた偽りに気づき、本当の問題は自分の罪と神様からの隔たりにあると認めました。感謝しつつも少し戸惑いながら帰路につきました。その人はまだキリストを選んではいないからです。愛をもって真理を語ることは、たとえリスクがあっても最も正しいことです。
4. 聖霊を受けなさい:使命は一人で果たすものではない
- ヨハネ20:22「そう言って、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」
- この聖句については議論があります。弟子たちはこの瞬間に聖霊を受けたのか、それともこれは後のペンテコステで起こることの予告なのか。語り手はここで結論を出さず、イエス様がご自分が去らなければ聖霊は来られないと言われたことに触れます(ヨハネ16:7)。
- いずれにせよ、はっきりしていることが一つあります。この箇所は二度の聖霊のバプテスマを語っているのではないということです。回心は一度きりであり、そのとき聖霊が信じる者のうちに住まわれます。イエス様が復活されたと信じるあなたのうちに、聖霊は生きておられます。これは約束です。
- 23節「だれの罪でも、あなたがたが赦すなら、その罪は赦されます。だれの罪でも、あなたがたがそのまま留めるなら、そのまま留められます。」イエス様は弟子たちに神様の役割を与えたのではありません。真理を告げ知らせる役割を与えられたのです。主のもとに来る人は赦され、拒む人は罪の下にとどまります。私たちの役目は口を開いて福音を伝えることであり、残りは神様にゆだねられています。
5. トマス:疑い深い者の中の疑い深い者
- ヨハネ20:24-25「十二弟子のひとりで、ディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らといっしょにいなかった。そこで、ほかの弟子たちが彼に、『私たちは主を見た』と言うと、彼は彼らに言った。『私は、その手に釘のあとを見、私の指を釘のあとに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。』」
- トマスは最初の出会いに居合わせませんでした。彼は条件を出します。見ること、触れること、確かめることです。まる八日が過ぎます。仲間たちの一致した証しがあってもなお、信じることを拒み続けた八日間です。
- 語り手はこの人間的な頑なさを、ある簡単な実験で説明します。バケツの周りにひもを一周巻きつけたとします。そこに一メートル足すと、ひもはバケツから約十五センチ離れます。今度は地球を一周するひも、四万キロを超える長さのひもを考えてみましょう。同じ一メートルを足すと、ひもは地表からどれくらい離れるでしょうか。答えはやはり十五センチです。単純な数式がそれを証明します。証明があっても、人はそれを信じたがらないものなのです。
- 教訓はこうです。私たちは皆、何かを信じることを選んでいます。信じないと決めることも、何もないと信じることに他なりません。それはイエス様を信じることより、理性的でも賢明でもないのです。
- ヨハネがこの出来事を語るのは、復活を受け入れることがどれほど難しいかを知っているからです。トマスとは、私たち自身です。
6.「疑わないで、信じなさい」
- ヨハネ20:26-27「八日ののち、弟子たちはまた家の中にいた。トマスも彼らといっしょにいた。戸には鍵がかけてあったが、イエスが来られ、真ん中に立って、『あなたがたに平安あれ』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』」
- またしても戸には鍵がかけられていました。またしてもイエス様は来られます。トマスの心は完全に閉ざされていましたが、それでもイエス様は来てくださいます。何一つ責められません。むしろトマスの出した条件に、そのまま応じてくださいます。イエス様は私たち一人ひとりを名前で知っておられ、それぞれの信仰があるその場所まで、迎えに来てくださるのです。
- ギリシア語の原文の言葉は、私たちの訳よりも強い響きを持っています。「信じないでいることをやめて、信じなさい」。それは、不信仰から抜け出し、信仰へと入るようにという招きです。
- 28節、トマスは「私の主、私の神よ」と答えます。弟子がイエス様にこのように語りかけたのは、これが初めてです。疑い深い者の中の疑い深い者が、復活の主を見て、その神性を告白するのです。復活が、イエス様の語られたすべてが真実であること、そしてイエス様が神であることをも証明しているからです。
- 29節「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」イエス様はトマスをからかっているのではありません。その告白を認め、その告白を土台として、見ずに信じるすべての人への祝福を宣言されます。見ることのなかったあなたにも、弟子たちと同じ平安、同じ喜びが与えられるのです。
7. 十分なしるし:それは復活
- トマスは自分のしるしを得ました。では私たちには、しるしを求める権利があるでしょうか。あります。ただし、私たちが求めるしるしではありません。そのしるしの名は、イエス様の復活です。そして、それはすでに与えられています。
- ヨハネ20:30-31「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によっていのちを得るためである。」
- ヨハネは取捨選択をしました。ほかにも語れることは千とあったでしょう。それでも、彼が福音書に記したことは、あなたがイエス様をメシア、神の子と信じるために十分なのです。最も重要なしるし、それはイエス様の死と復活です。
- キリスト教信仰は、漠然とした何かへの曖昧な信頼ではありません。中身のある信仰です。一人の人格であるイエス様、その方が成し遂げられたこと、そしてその復活です。もしあなたが信仰を持っていると思っていても、イエス様が復活されたことを信じていないなら、あなたはまだ自分の罪の重さの下にいます。
- この信仰の結果は、その名による命です。それはイエス様ご自身が定義された永遠の命です。「唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ること」(ヨハネ17:3参照)。
心に留めたいこと
- 復活は信仰の絶対的な中心です。復活がなければ福音は崩れ、復活があればすべてが成り立ちます。
- 閉じられた戸は、イエス様を止めません。イエス様は閉ざされた心の中にまで来てくださり、責めることなく平安を携えて来られます。
- 復活の主は、ご自分の民を遣わされます。違いを生むのは、あなたの雄弁さではなく、聖霊によってあなたのうちにある神様の臨在です。
- 疑うことは終わりではありません。イエス様はトマスのような人を迎えに来られ、信じるために必要なものを、まさにその人に与えてくださいます。
- しるしはすでに与えられています。神様が福音の中に記してくださったこと以外に、待つ必要はありません。イエス様は死なれ、よみがえられ、今も生きておられます。
あなた自身への問いかけ
- 今、あなたの心の中で閉じられている戸はどこにありますか。恐れでしょうか、失望でしょうか、それとも日々の慣れでしょうか。復活の主にその真ん中に来ていただくよう、招いたことがありますか。
- 神様がすでに空の墓と聖書の証しを与えてくださっているのに、あなたはまだ何か特別なしるしを待っていませんか。
- トマスのように、あなたは今日、信じるための条件を神様に突きつけていませんか。自分の条件ではなく、イエス様の応え方に委ねる用意がありますか。
- 今週、イエス様はあなたを誰のもとへ遣わし、愛をもって真理を語るように招いておられますか。祈りの中で、誰の名を主の前に携えていく用意がありますか。
- もし今日、トマスのように「私の主、私の神よ」と告白するなら、それはあなたの今週の生活に、具体的にどんな変化をもたらすでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ 20:19-31 ・ 復活されたイエス様が弟子たちとトマスに現れる
- コリント人への手紙第一 15:14 ・「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」
- マタイ 28:18-20 ・「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」
- ヨハネ 16:7 ・「わたしが去って行くことは、あなたがたの益となります」
- ローマ人への手紙 8:26 ・ 御霊が私たちの弱さを助けてくださる
- ヨハネ 14:6 ・「わたしが道であり、真理であり、いのちです」
- ヨハネ 17:3 ・「永遠のいのちとは、彼らがあなたを知ることです」
よくある質問
信じるために、まだ神様からのしるしが必要でしょうか。
いいえ、必要ありません。神様はすでにそのしるしを与えてくださいました。それはイエス・キリストの復活です。ヨハネは福音書の終わりで、イエス様はほかにも多くのしるしを行われたけれど、この書に記されていることは、あなたがイエス様をメシア、神の子と信じ、信じることによって命を得るために十分だと書いています(ヨハネ20:30-31)。十分なしるし、それは空の墓と生きておられる復活の主です。
トマスのように疑ってしまうのは、いけないことでしょうか。
いいえ、いけないことではありません。トマスはほかの弟子たちの証しを聞いたあとも、まる八日間疑い続けましたが、イエス様は彼を退けませんでした。戸が閉じたその場所へわざわざ来てくださり、こう言われました。「疑わないで、信じなさい」(ヨハネ20:27)。あなたの居場所も、その疑問を抱えたまま、復活の主の食卓にあります。大切なのは疑いにとどまることではなく、キリストのもとに来て、答えをいただくことです。
復活は、今日の私の生活を具体的にどう変えるのでしょうか。
三つのことが変わります。まず、もしキリストが復活していないなら、あなたの信仰はむなしく、あなたはまだ自分の罪の重さを背負ったままです(コリント人への手紙第一 15:14)。復活は、イエス様の言葉が真実であり、その死があなたのために代価を払ったことを証明しています。次に、イエス様はあなたを遣わされます。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)。最後に、イエス様はその名によって命を与えてくださいます(ヨハネ20:31)。聖霊による、父なる神様との平安と喜び、生きた関係です。
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