アモリーさんは23歳です。クリスチャンでない家庭に育ち、イエス様について本当の意味で聞いたことはありませんでした。彼は自分のことを「見なければ信じない」現実的なタイプだと言います。それでも今から1年ちょっと前、彼の人生は大きく変わりました。これは、彼が教会の前で分かち合った証しです。
痛みの上に築かれた鎧
イエス様と出会う前、アモリーさんは自分をひどく過小評価していました。いつも人の後ろに下がり、目立ちたくない、話したくないと思っていたのです。「私はとても内にこもった人間でした」と彼は言います。心の中に重荷を抱えながらも、周りの人たちの負担にならないようにと、決して打ち明けることをしませんでした。
この習慣がはっきりと根づいたのは、祖父を亡くしたときでした。周囲からは「お前は男だろう、強くいろ、泣くな、みんなのために頑張れ」といった、重くのしかかる言葉を繰り返し聞かされました。そこから彼は鎧を築き上げ、何も言わずに前へ進み、人のために強くあり続け、自分の傷は内側にため込んでいかなければならないと思い込むようになったのです。
その結果、人を信頼することがひどく難しくなり、自分にも他人にも実現不可能な期待を抱くようになり、少しの失敗ですぐに友情を手放してしまうようになりました。彼が心の底から必要としていたのは、差し伸べられた一つの手でした。裁くことなく、彼が渡すのを恐れていた重荷に押しつぶされることもなく、そばにいてくれる手です。
教会への最初の一歩
今から2年ほど前、アモリーさんはあるクリスチャンの家族と出会い、その家族が彼の信仰の最初の一歩に寄り添ってくれました。彼は初めて礼拝に出席しますが、簡単なことではありませんでした。どうしてそのように誰かを礼拝できるのか、あまり理解できなかったのです。彼はただ付き添いのために教会に来ていただけで、本当の意味で関心を持ってはいませんでした。生来の現実主義に忠実な彼にとって、見たことも経験したこともないものは、存在しないも同然だったのです。
ある考えが何度も彼の頭をよぎりました。「イエスは世界のためにこれをしてくれた。でも、なぜ私のためにそうしてくれるのか。私にはその資格がない。私はクリスチャンですらないし、ここにいる権利すらないのに。」
すべてを変えた夢
ある晩、そのクリスチャンの家族のもとに滞在していたとき、イエス様はとても具体的な形で彼にご自分を現されました。一つの夢を通してです。
アモリーさんは、イエス様の最後の晩餐を思わせる場面の中にいました。十二人の弟子たちとではなく、身近な人々、友人たちと一緒です。夢の中ではすべてがとてもはっきりしていましたが、一つだけ違う点がありました。何も聞こえないのです。人々が話しているのは見えるのに、音がまったく届いてこないのです。食事が終わり、皆が帰ろうとしたとき、イエス様が彼に声をかけました。イエス様は彼にほほ笑みかけ、深い平安を漂わせながら、彼の手に一冊の聖書を渡してくださったのです。
印象的なことに、夢の中でイエス様の顔は、ドラマ「The Chosen」でイエス役を演じる俳優、ジョナサン・ルーミーの顔でした。しかし、アモリーさんはその俳優を一度も見たことがありませんでした。彼がその俳優を知るのは、そのあとのことでした。
翌日、彼はこの夢のことを心の隅に押しやろうとし、単に周りのクリスチャンの雰囲気に流されただけだと自分に言い聞かせようとしました。ですが数週間経っても、その夢は同じくらい鮮明に、同じくらい強く彼の心に残り続けたのです。
牧師との出会いと信仰の一歩
その後まもなく、エレオノールさん、ナイラさん、ギヨームさんのバプテスマが、彼の中で何かを揺り動かしました。彼は深く、誰かに話したい、自分の疑問をぶつけたいという思いに駆られます。彼は牧師のカンタンさんに会いに行くことを決めました。彼を迎え入れてくれた家族に話すことは、気まずくなったり傷つけたりするのではという恐れから、なかなかできなかったのです。
その歩みは長いものでした。「カンタンも証言できると思いますが、いくつかの点では、かなり堂々巡りをしました」と彼は認めます。しかし、その道のりはやがて実を結びます。
9月半ばの、ある普通の日曜日のことでした。カンタンさんが説教をしていました。聖餐の前に、いつもより一言多く付け加えたのです。その一言によって、アモリーさんはこう理解しました。「そうだ、あなたも主を受け入れることができる。主はあなたのためにも、この犠牲を払ってくださったのだ」と。彼は立ち上がり、聖餐にあずかりました。
その夜、彼は主との長い祈りの時間を過ごしました。多くのこと、多くの罪について赦しを願いました。そして、信じられないほどの平安を心の中に感じたのです。それは外側の状況によるものではなく、内側から湧いてくる平安でした。何かが彼の中で変わり始めていました。
信仰の一歩の後にやってきた試練
アモリーさんは、その後2週間、信じられないほど素晴らしい日々を過ごしました。主の臨在を存分に感じ、心からの喜びに満たされていたのです。彼はこう思いました。「もう大丈夫だ、すべてがかみ合ってきた、いよいよ始まったんだ。」
しかし、試練はすぐにやってきました。10月の初め、彼は仕事の契約が更新されないことを知らされます。そこから1か月半、無職の期間が続きました。
彼は疑いを抱きました。神様に問いかけたのです。「主よ、私は信仰の一歩を踏み出し、私の人生と心をあなたにお委ねしました。それなのに、なぜこのタイミングでこんなことを私の人生に置かれるのですか。理解できません。」時には落胆することもありました。それでも、その理解できない状況の中でも、彼は神様を手放しませんでした。祈り続けました。言葉にならないときも、大きな怒りを覚えるときも、涙とともに祈るときもありました。
1か月半後、新しい仕事という新しい扉が開かれました。振り返ってみると、アモリーさんは神様が決して彼を見捨てていなかったことに気づきます。むしろ神様は、自分の力に頼らず、自分が人生をコントロールできると思い込まず、別の仕方で神様を信頼することを彼に教えていたのです。
バプテスマと内なる戦い
バプテスマを迎える前の2週間は、特に大変な時期でした。アモリーさんは激しい内なる戦いを経験しました。とうに乗り越えたと思っていたはずのいくつかの戦いが、以前よりも強い形で戻ってきたのです。
彼はこう表現します。イエス様に従うということは、戦いがなくなることを意味しません。むしろその逆です。ですが、違うのは、もう一人ではないということです。初めて、彼はイエス様とともにこれらの戦いに立ち向かうのです。「イエス様と歩むということは、自分の力に頼ることではなく、イエス様に頼ることを学ぶことです。」
イエス様が彼の中で変えてくださったこと
イエス様と出会って以来、アモリーさんの人生は大きく変わりました。かつては決して話そうとしなかった彼が、今では教会全体の前で心を開いて語っています。彼は日々、自分が平安と喜びを持てることを発見しています。以前より心を開き、笑顔が増え、社交的になってきました。
彼は神様の愛が、自分の考え方や生き方を変えていくのを感じています。怒りは少なくなり、忍耐は増していきました。自分の力によってではなく、神様が与えてくださる恵みによって、本当の意味での自己肯定感を築き始めています。「変わっているのは私だけではありません。私の中でイエス様が働いてくださっているのです。」
彼を特に支えている一つのみことばがあります。ルカ 1:37「神には、なんでもできないことはありません。」アモリーさんはこのみことばにしっかりとつかまっています。彼はこのすべてを、想像すらしていなかったからです。今こうして会衆の前に立ち、自分の信仰について語っていること自体が、彼にとっては「神には、なんでもできないことはない」という確かな証拠なのです。
覚えておきたいポイント
- 信仰は必ずしも明確な神学から始まるわけではなく、時には一つの出会い、一つの夢、一つの言葉、思いがけない瞬間から始まります。
- 「自分にはその資格がない」「ここにいる権利すらない」と感じてしまうことは、よくある障害です。しかし十字架は、まさにその資格のない者のためにあるのです。
- 信仰の一歩を踏み出しても、試練が消えるわけではありません。変わるのは、それを通り抜ける人自身です。もはや一人ではなくなるのです。
- 神様に頼るということは、受け身になることではなく、自分ですべてをコントロールできるという幻想を手放すことです。
- 変化は少しずつ起こります。心を開くこと、平安、忍耐、そして恵みに根ざした自己肯定感が育っていくのです。
さらに考えてみよう
- あなたにも、つらい出来事以来、身にまとってきた鎧がありますか。そこに神様はどのように触れたいと思っておられるでしょうか。
- アモリーさんが語る、裁くことのない「差し伸べられた手」は、あなたにとって誰でしたか、あるいは誰になり得るでしょうか。
- 信仰の一歩を踏み出した直後に試練がやってきたとき、あなたはどう反応しますか。怒り、疑い、沈黙、それとも祈りでしょうか。
- イエス様が信頼するようにと招いておられるのに、あなたが今もコントロールし続けようとしている人生の領域はどこでしょうか。
- もしあなたが、神様があなたの人生をどのように変えてくださったかを語るとしたら、何から話し始めますか。
引用された聖句
- ルカ 1:37「神には、なんでもできないことはありません。」
よくある質問
神様は今日でも本当に夢を通して語られるのですか。
アモリーさんの証しは、神様が夢を用いて、特にまだご自分を知らない人にご自身を現されることがあると示しています。ただし聖書は、識別のための基準として書かれたみことばを常に大切にしています。本物の夢は、神様がすでに語られたことに決して矛盾しません。アモリーさんの場合、この夢がきっかけとなって聖書を開き、牧師を訪ね、イエス様の犠牲を受け入れるに至りました。
キリストを信じる決断の直後に、なぜしばしば試練がやってくるのでしょうか。
アモリーさんもそれを経験しました。2週間の喜びに満ちた日々のあと、失業、そしてバプテスマ直前の内なる戦いです。信仰があるからといって、困難から守られるわけではありません。変わるのは、信じる者がもう一人ではなく、イエス様とともにそれを通り抜けていくという点です。試練は学びの場となります。自分の力に頼るのではなく、神様に頼ることを学ぶ場です。
「自分はまだクリスチャンとして十分ではない」と感じて教会に来られないとき、どうすればよいでしょうか。
アモリーさんもまさにそう思っていました。「ここにいる権利すらない」と。教会は完璧な人たちのクラブではなく、ありのままの自分で来る場所です。彼のように、友人に付き添うために来て、牧師に疑問をぶつけ、耳を傾け、あとはイエス様に委ねることができます。
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