マノロさんは26歳です。彼はクリスチャンではない家庭に生まれました。食卓で宗教の話などまず出ないような家庭です。彼は、どんな子どもも経験すべきではないことを経験してきました。それでも、ある夜、一つの橋の上で、彼の人生は一変しました。これは、彼が教会の前で分かち合った証しです。
裏切りに満ちた子ども時代
マノロさんは、宗教が禁句とされる家庭で育ちました。その話をすると、両親はからかいや冗談で返してきます。ルールははっきりしていました。「その話はやめなさい。さもないと食卓から出て行ってもらうよ」というものです。それでも彼は、幼いころ、学校でカテキズム(教理)の授業を受けたいと自分から願い出ました。好奇心にあふれ、心を開いて学び始めたのです。
数か月後、思いもよらないことが起こりました。授業を担当していた神父が、マノロさんを含む何人かの子どもたちに性的な虐待を行ったのです。「私の中で何かが壊れました、砕けてしまったんです」と彼は静かに語ります。それ以来、彼は宗教を憎むようになりました。「もし神様がそういうことのためにいるのでないなら、なぜ神様を愛さなければならないのか。結局、教会の人間がこんなことを平気でしてくるのに」と彼は思ったのです。
家庭では、暴力が続いていました。アルコール依存症だった継父は、母親を殴り、マノロさんも殴りました。継父はマノロさんの背中を灰皿代わりに使っていたのです。母親はその暴力のせいで、お腹の子どもを失いました。マノロさんは、こう問い続けました。「もし神様がいるなら、なぜ私はこんな目に遭っているのか。なぜ神様は、母と私をこの地獄から救い出してくれないのか」と。
神を拒み続けた歳月
年月が経つにつれ、彼はますます神を拒むようになりました。悪さを重ね、誰の言うことも聞かず、しょっちゅう喧嘩をしました。自分のルールで生きていたのです。神父、継父、自分を裏切り拒んだすべての人に対して、激しい憎しみが心に根を張りました。彼らには不幸しか願わなかったのです。
それでも彼は、問い続けていました。神様に向き直ろうとするたびに、なぜ神様は自分のためにそこにいたことなど一度もないように感じるのか、と。この問いは彼を離しませんでした。
すべてが変わったイースターの夜
ある日、彼は「もう少し健全で、もう少しクリスチャンらしい」友人たちと付き合い始めました。ある女友達に教会へ誘われ、彼は気乗りしないまま、彼女を喜ばせるためだけに足を運びました。それはイースターの夕べのことでした。丁寧に飾られた会場、いつもと違う雰囲気がそこにはありました。マノロさんは何も期待していませんでした。「どうせ、そんなもの存在しないんだから」と。
帰ろうとしたその時、賛美が始まりました。すると、すべてが違って感じられたのです。「賛美の歌が、私を引き止めてくれました。座らせてくれました。耳を傾けさせてくれたんです。」これが、彼の心に灯をともした瞬間でした。それから彼は、日曜日ごとに教会へ戻りたいと思うようになったのです。
橋の夜
教会に通い始めた最初の数週間は、つらいものでした。マノロさんは暗い考えに囚われ、自ら命を絶ちたいという思いに何度も襲われました。自分にはここにいる資格もなければ、この地上に生きる価値もないように感じていたのです。そしてまだ、神様は彼の人生にしっかりと根を下ろしてはいませんでした。
ある夜、彼は家族について、つらい事実を知ることになります。教会に行きたいという彼に、母親は反発し、口論になりました。母親は、そんなことをしても無駄だ、いっそ家族から縁を切られたほうがいいと言い放ちました。彼は、暗い思いに心を支配されるままにしました。部屋にあった手近なリュックを一つつかみ、家を出ました。頭にあったのは、皆に別れを告げて終わりにするということだけでした。
彼は止まることなく歩き続け、最初に見つけた橋に登りました。飛び降りようとしたその瞬間、「まるで誰かに後ろへ押し戻されたような」感覚を覚えたのです。彼は倒れ、頭を強く打ちました。「痛かったけれど、それでよかったんです。」
なぜあんなふうに引き戻されたのか、彼にはわかりませんでした。飛び降りるつもりだったのに、そうはならなかったからです。リュックを開けてみると、その中身に気づきました。聖書と福音書が入っていたのです。わざと入れたわけではありませんでした。彼はその橋の上で一時間、泣き続けました。そして、聖書を読み始めました。祈り始めました。そして、自分が今ここにいられるのはこの方のおかげだと、感謝を捧げ始めたのです。
神様の御手に委ねられた人生
その夜のあと、マノロさんは一つのことだけを自分に誓いました。もっと良い人間になろう、と。なぜなら、神様がいなければ、自分は今ここにいなかったから。そして、それが自分にできる、神様に栄光をお返しする方法だと思ったからです。
それ以来、彼は平安の中にいます。「ある種の重荷から解放された感じがするんです。」彼は以前、体も心もすっかり調子を崩していました。今では、自分自身に対しても、人と話すことに対しても、以前よりずっと楽に感じられるようになりました。とても内気で、以前なら決して人前で話す勇気などなかった彼が、今はこうして自分の思いを語れるようになったのです。
彼にはいつも寄り添う一つの問いがあります。「神様なら、私の立場でどうされるだろうか。」迷いを感じるとき、彼はこの問いを自分に投げかけ、耳を澄ませます。「この問いは、物事を客観的に見る助けになりますし、何より自分自身との平安を保つ助けになるんです。」
解放としての赦し
マノロさんは今、誇りを持ってこう言えます。継父に対しても、あの神父に対しても、自分を傷つけたすべての人に対しても、もう憎しみはありません、と。忘れたわけではありません。ただ、主にその舵取りを委ねることにしたのです。「私は彼らを嫌っています。でも、それを裁くのは私の役目ではないんです。ただ、次に進めるように助けてください。この重荷から解放されるように助けてください、と祈るんです。」
最近、彼の心に残る出来事がありました。かつて一年半も自宅に住まわせてあげた親友が、ある日を境に彼を人生から完全に切り捨て、そのせいで友人関係の輪すべてを失うことになったのです。その友人が、何事もなかったかのように連絡をよこし、荷物を取りに戻ってきました。マノロさんの心は、きっぱり関係を断ちたい思いと、冷静でいたい思いの間で揺れました。彼は自分にこう問いかけました。神様なら、私の立場でどうされるだろうか、と。長く祈りました。すると恐れと憎しみは、行動する力に変わったのです。彼に会わなければ、話さなければ、この重荷を手放さなければ、と。友人はやって来て、荷物を受け取り、二人は言葉を交わしました。祈りがなければ、とマノロさんは言います。「きっと間違ったことをしてしまっていたと思います。」
開かれていく人生という夢
神様に舵取りを委ねるようになってから、マノロさんはこれほど単純な人生を送ったことはないと言います。彼は、十年以上も追い続けてきた一つの夢をつい先ごろ叶えました。パリに住んでディズニーでダンサーとして働くという夢です。何度も何度も不合格が続いた末に、彼は最近オーディションを受け、その場で採用されたのです。
「人生のある時期、私は消えてしまいたいと思っていました。でも今は、こうしたすべてのおかげで、ただ一つの願いしかありません。それは、生きることです。」
迷いの中にいる人たちへ伝えたいこと
これから信仰の道を歩もうとしていて、迷いや恐れ、不安を抱えている人たちへ、彼はこう助言します。「決して手放さないでください。」道のりは長く感じられ、丸太のように行く手をふさぐものもあり、遠回りだらけかもしれません。でも、その先にある結果には、それだけの価値があるのです。「その先で、癒やされます。より良い自分になります。より強くなれます。」
彼はまた、孤独を感じている人たちにも言葉をかけます。彼自身、周りにはほとんど誰もいません。とても親しい一人の友人がいるだけです。家族はすべて失いました。それでも彼は、今こう言えます。教会の中に、もう一つの家族を見つけたのです、と。「行けるときは、できるだけ日曜日には来てください。」最初の数週間は緊張のあまり誰とも話せなかった彼が、今では、その週の出来事を語れる相手がいることに励まされ、意欲を持って教会へ通っています。
彼はこの祈りで締めくくります。「父よ、私を救い出し、正しい道へ連れ戻してくださって、ありがとうございます。私は、これからの人生の一日一日、あなたに栄光をお返しするために、できる限りのことをしていきます。そして、パリでのこれからの冒険の中で、かつての私と同じような境遇にいる人たちを助けることができたらと願っています。なぜなら、確かに、それだけの価値があることなのですから。」
心に留めたいポイント
- 教会の人間から受けた傷は、神様があなたに語られる言葉ではありません。マノロさんも、この二つを切り離すまでに何年もかかりました。
- 言葉では届かないものを、賛美が届けてくれることがあります。彼を座らせ、耳を傾けさせたのは、一つの賛美の歌でした。
- 神様は、最悪の淵に立つ人を、そこで止めてくださることがあります。たまたま手にしたリュック、その中の一冊の聖書、そして説明のつかない引き戻し。
- 「神様なら、私の立場でどうされるだろうか」という問いは、単なる信心深い決まり文句ではありません。迷いの中で決断を下すための、具体的な道具なのです。
- 赦すことは、忘れることではありません。正しく裁かれる方に、舵取りを委ねることです。
- 家族を失った人にとって、教会は第二の家族になり得ます。
さらに深く考えるために
- あなたが今なお神様に向き直ることを妨げている裏切りはありますか。それを誰かに話すとしたら、誰に話せますか。
- 迷いや怒りを感じるとき、あなたの最初の反応はどちらですか。すぐに行動することですか、それとも、マノロさんがかつての友人を前にしたときのように、時間をかけて祈ることですか。
- あなたが今なお抱えている憎しみは何ですか。それを一度きり、神様の御手に委ねたら、何が起こると思いますか。
- もし孤独を感じているなら、教会に行き、そこで人とつながるために、手帳に書き込める次の日曜日はいつですか。
- あなた自身にとっての「橋の夜」を、神様はすでに一緒に通り抜けてくださったでしょうか。今日それを、誰かを助けるためにどう語れますか。
この証しに響き合う聖句
- 詩篇 34:18 ・「主は心の打ち砕かれた者に近く、たましいの砕かれた者を救われる。」
- ローマ 8:28 ・「神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された者たちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
- マタイ 11:28 ・「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
よくある質問
教会の人間に傷つけられたとき、どうすれば神様を信じられますか。
それはまさに、マノロさんが通らなければならなかった道です。答えは、理屈から生まれるものではありません。出会いから生まれるのです。イースターの夕べの賛美は、神学では成し得なかったことを、彼の心の中で成し遂げました。傷つけた人物と、その人物が代表しているつもりだった方とを切り離す作業は、時間のかかるものであり、多くの場合、安心して過ごせる教会の中で、健全な信仰を持つほかのクリスチャンたちとともにいるときに、少しずつ進んでいくものです。
赦すことで、起きたことがなかったことになるのですか。
いいえ、そうではありません。マノロさんは、継父やあの神父にされたことを忘れてはいません。彼はただ、もう憎しみを抱き続けないことを選んだだけです。「私は彼らを嫌っています。でも、それを裁くのは私の役目ではないんです。」彼にとって赦しとは、その重荷を神様に委ね、自分自身を解放することであって、悪がなかったことにすることではありません。
マノロさんのように暗い考えに囚われたとき、どうすればいいですか。
一人で抱え込まないでください。マノロさんもあの橋の上で一人でした。彼を引き止めたのは神様であり、たまたまリュックに入っていた一冊の聖書が、彼を座らせるきっかけになりました。今、彼はこう勧めます。教会に来てください、周りに人を置いてください、信仰を持つ人たちにそばにいてもらってください、と。もしあなたが、マノロさんが経験したのと同じような状況にあるなら、できるだけ早く、牧師や信頼できるクリスチャンの友人に話してください。緊急のときは、地域のいのちの電話や相談窓口にすぐに連絡してください。
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