はじめに
お金では買えないものがあります。ある日本人のビジネスマンが、東南アジアのある大富豪の家を訪れたときのことを語ってくれました。大理石の床、目もくらむような高い天井、息をのむほどの豪華さ。そして壁の一つに、こんな言葉が刺繍されたタペストリーが掛けられていました。「お金はベッドを買えても、眠りは買えない。薬を買えても、健康は買えない。家を買えても、あたたかな家庭は買えない。多くのものを買えても、愛だけは買えない。」私たちが本当の意味で求めているものは、心の奥底では、お金では買えないのです。
ヨハネの第一の手紙4章13節から21節で、使徒ヨハネはこの「愛」という言葉を、わずか数節の間に三十回以上も繰り返しています。彼が語っているのは、あいまいな感情でも、フィリア(友情)でも、エロース(引かれる思い)でもありません。彼が語っているのはアガペー、すなわち神から来る、無償の愛です。それは、イエスを十字架にまで押し出した愛です。明治の時代、ある日本人の翻訳者は「I love you」を「私はあなたのために死ねます」と訳しました。それは決して大げさではありません。それこそまさに、神があなたのためにしてくださったことなのです。
では、あなたは今日、このキリストの愛の中をどのように生きていますか。この箇所からは三つのことが浮かび上がります。聖霊があなたの心に神の愛を教えてくださること、あなたがこの愛にとどまることを学ぶこと、そしてこの愛があなたを内側から外側まで変えていくことです。
説教の構成
1. 聖霊があなたの心に神の愛を教えてくださる
「神は御霊のうちから私たちに与えてくださったことにより、私たちが神におり、神が私たちにおられることを知るのです」(第一ヨハネ4:13)。だれも、聖霊の働きなしにイエスを主と告白することはできません(第一コリント12:3)。イエスの御名によって祈ること、信じること、難しい相手を愛すること、自分を傷つける兄弟を受け入れること。これらはどれも、あなたの内に住んでくださる聖霊なしには不可能なのです。
ヨハネは、グノーシス主義という偽りの教えに直面していたエペソのクリスチャンたちに宛ててこの手紙を書いていました。グノーシス主義は霊と肉体を分離させる誤った教えで、この教えによれば、イエスは本当の肉体を持たず、その苦しみと死は見せかけにすぎず、信者は自分の霊さえ「清く」保っていれば肉体的にはどんな生活を送ってもよいとされていました。ヨハネはこの嘘を打ち崩します。イエスは本当に人となられ、本当にマリアから生まれ、本当に十字架で私たちの罪を担われ、本当によみがえられたのです。この真理を告白できるようにしてくださるのは神の御霊であり、この告白こそが、あなたが神のものであることを証しするのです(2節)。
見分けることが必要です。すべての「霊」が神から来るわけではありません。今日でも、福音ではないものが福音として差し出されることがあります。本物の御霊のしるしとはこうです。それはいつも、あなたをイエス・キリストの十字架へと連れ戻すのです。
2. 十字架の愛にとどまりなさい
「私たちは、神が私たちに対して抱いておられる愛を知り、それを信じています。神は愛です。愛にとどまる者は神にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(第一ヨハネ4:16)。「とどまる」という動詞が何度も繰り返されます。イエスご自身、すでにヨハネ15章でこの言葉を使っておられました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしの愛にとどまりなさい。」
キリストの愛にとどまるとは、正直にこう認めることです。「私は罪人だ。それでもイエスは私のために死んでくださった。よみがえってくださった。私に永遠のいのちを与えてくださり、その御霊は今も私を変え続けてくださっている。」あなたが天国に行けるのは、あなたが良いクリスチャンだからでも、あなたが努力しているからでも、良い行いを積み重ねているからでもありません。あなたが天国に行けるのは、毎日十字架のもとにひざまずき、キリストがそこで勝ち取ってくださったものを受け取り続けるからです。
反対方向への逸脱にも気をつけてください。「すべてを捧げよ、すべてを犠牲にせよ、さもなければ救われない」とあなたを押しつぶすカルトや宗教体系は、行いによる義の虜にあなたをとどめてしまいます。十字架を伴わない熱心さは、真理の証しにはなりません。ヒトラーもまた、自分の思想に熱心だったのです。そして、21世紀にはもっと巧妙な逸脱があることにも注意してください。聖書とみことばを振りかざして、他者を支配し、コントロールし、辱めることです。それは十字架から来るものではありません。十字架はいつも愛することへと導くのであり、決して人を押しつぶすことへとは導きません。
3. 完全な愛は恐れを締め出し、あなたを変えていく
「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴うからです。恐れる者は、愛において全うされていないのです」(第一ヨハネ4:18)。あなたが古い傷や、将来への恐れ、癒やされていない罪悪感を抱えているとき、その恐れはあなたの言葉ににじみ出ます。それはあなた自身を貶めるだけでなく、他者を攻撃し、自分を少しでも大きく感じるために周りの人を押しつぶすことへとあなたを駆り立ててしまいます。
神の愛はこの根っこに働きかけます。あなたがありのままの姿で受け入れられ、赦され、癒やされ、そして死への恐れさえもイエスの復活によって打ち破られたことを理解するとき、あなたの内で何かが緩みます。ある余裕が生まれます。ゆとりが現れます。それは傲慢さではありません。それは、愛されているという謙虚な信頼なのです。
この手紙の著者であるヨハネを見てください。イエスは彼と兄弟ヤコブに「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」というあだ名をつけられました(マルコ3:17)。短気で、衝動的で、すぐに激高するたちでした。ある日、サマリア人たちがイエスを受け入れなかったとき、ヨハネはイエスにこう尋ねました。「主よ、私たちが天から火を呼び下して彼らを焼き滅ぼすことをお望みですか。」イエスは彼らを厳しくたしなめられました(ルカ9:51-55)。それがこのヨハネだったのです。そして、その同じヨハネが、生涯の終わりにこう書いています。「愛する者たち。互いに愛し合いましょう。」この根本的な変化こそ、キリストの愛にとどまり続けた人生における、御霊の御業なのです。
だからこそヨハネはこう結論づけます。「もし、だれかが『私は神を愛している』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者に、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか」(第一ヨハネ4:20)。受けた愛は、与える愛によって証明されます。例外はありません。
覚えておきたいポイント
- 聖霊なしには、あなたはイエスを主と告白することも、本当に愛することもできません。キリスト者の愛は、あなたの努力からではなく、神からの贈り物として始まります。
- キリストの愛にとどまるとは、毎日、赦された罪人として十字架に立ち返ることです。あなたの行いによって天国での席を勝ち取ることではありません。
- 本物の福音はあなたを自由にします。あなたを押しつぶし、コントロールし、恐れの中に生きさせる宗教は、十字架を裏切っています。
- 完全な愛は恐れを締め出します。あなたが愛されていると知るとき、あなたは自分を安心させるために他者を貶める必要がなくなります。
- 見えない神を愛することは、見える兄弟を愛することによって証明されます。「雷の子」と呼ばれたヨハネは、その生きた証しです。
個人への適用
- あなたの内にある「ボアネルゲス」とは何でしょうか。あなたの素早い反応、怒り、裁く思いは、あなたが御霊にさらに変えていただく必要があることをどこで示していますか。
- あなたは自分の努力、奉仕、良い行いによって救いを勝ち取ろうとしていますか、それとも受け取る子どものように十字架へと立ち返っていますか。
- あなたの周りに、あなたが遠ざけたい、裁きたい、あるいは排除したいと感じる「サマリア人」のような人はいますか。キリストの愛は、その人へのあなたのまなざしをどのように変えるでしょうか。
- 将来への恐れ、裁きへの恐れ、拒絶への恐れ、死への恐れのうち、今週、神の完全な愛があなたの内から締め出すべきものはどれでしょうか。
- あなたは具体的に、だれに、どんな言葉や訪問、差し出す赦しを通して、神から受けた愛を示しますか。
引用聖句
- 第一ヨハネ4:13-21・神は愛です
- 第一コリント12:3・御霊によってイエスを告白する
- ヨハネ15:1-11・わたしの愛にとどまりなさい
- マルコ3:17・ボアネルゲス、雷の子ら
- ルカ9:51-55・ヨハネは天から火を呼び下そうとした
よくある質問
「キリストの愛にとどまる」とはどういう意味ですか。
それは維持すべき感情ではなく、日々の姿勢です。十字架に立ち返ること、自分が赦された罪人であることを認めること、イエスがあなたのために勝ち取ってくださったものを受け取りながら一日を生き、それがあなたの話し方、仕え方、愛し方を変えていくのに任せることです。
なぜヨハネは、イエスが「肉体をもって」来られたことをこれほど強調するのですか。
グノーシス主義という偽りの教えが、エペソの教会に入り込んでいたからです。それは肉体には意味がなく、イエスは本当には苦しまれなかったと主張していました。受肉を否定することは、十字架と復活からその力を奪い取ることになります。ヨハネは、神の愛が本物の肉体、本物の十字架、本物の勝利の中に現された、と思い起こさせているのです。
完全な愛は、本当に恐れを締め出すことができるのですか。
あなたがありのままで受け入れられ、赦され、死でさえもはやあなたを神から引き離せないと知るとき、あなたはもはや自分を守り、正当化し、あるいは安心のために他者を貶める必要がなくなります。罰への恐れは退き、その場所に、あなたの愛し方全体にあふれ出る平安が訪れるのです。
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