聖書 — 口語訳 (1955)
ローマ人への手紙 9
概要
ローマ人への手紙9章は、イスラエルの行く末を論じる三つの章の始まりです。パウロは、自分の民の不信仰に深い悲しみを表し、神の言葉は無駄になったのかと問います。彼は、約束は肉による子孫ではなく、神の主権的な選びに基づいていると答え、イサク、ヤコブ、パロを例に挙げます。神の自由とあわれみを語り、救いを諸国民に開き、異邦人は信仰によって義を得たが、イスラエルはつまずきの石につまずいたと結論します。
この章の5つの区分
1わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。
2すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。
3実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。
4彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
5また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。
6しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
7また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
8すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
9約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。
10そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。
11まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
12わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
13「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。
14では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
15神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
16ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
17聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
18だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
19そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
20ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
21陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
22もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
23かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
24神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。
25それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
26あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。
27また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。
28主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。
29さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに 子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。
30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。
31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。
33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。
鍵となる聖句
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。
パウロには絶えざる痛みがあり、兄弟たちのために、自分がキリストから離されてもよいとさえ願います。選びを論じる前に、信じない人々のために、砕かれた心で語っています。
しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
神の言葉は無駄になりませんでした。イスラエルから出た者がみな、真のイスラエルではないからです。約束は、血筋だけではなく、神の選びに従います。
神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
神は、あわれもうと思う者をあわれまれます。救いは、人の意志や努力ではなく、神のあわれみによります。この選びと人間の責任との関係は、キリスト教の諸伝統で理解が異なります。
ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
陶器師のたとえによって、パウロは、被造物が創造者に説明を求める立場にないことを思い起こさせます。本文は、神の主権の前に謙遜になるよう招いています。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。
キリストは、人がつまずくことも、寄りかかることもできるシオンの石です。この方を信じる者は失望させられません。義に至らせるのは行いではなく、信仰です。
この章に登場する人物
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説教が語っていること
ローマ人への手紙9章についてよくある質問
ローマ人への手紙9章6節の、イスラエルから出た者がみなイスラエルなのではない、とはどういう意味ですか
パウロは、神の約束は無駄になっていないと説明します。約束は、アブラハムの肉の子孫だけに基づいたことがないからです。約束は、イシマエルではなくイサク、エサウではなくヤコブというように、神の選びに従います。神の真の民は、血筋だけでなく、約束と信仰によって集められます。
ローマ人への手紙9章は、神が誰を救うかを選ぶと教えていますか
パウロは、神が望む者をあわれまれ、救いは人の努力によらないと述べます。キリスト教の諸伝統は意見が分かれ、個人の選びと見る人もいれば、民の選びと救いの手段である信仰の選びと見る人もいます。救いが神の恵みから来ることは、みなが認めています。
ローマ人への手紙9章21節の陶器師のたとえは何を意味しますか
パウロは、旧約聖書から、粘土を形づくる陶器師の姿を借りて、創造者の自由を強調します。被造物には、文句を言う権利がありません。このたとえは神の前での謙遜への招きですが、神の善意に反する議論ではありません。パウロは同じ箇所で神の善意も思い起こさせています。
ローマ人への手紙 9を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。