はじめに
この日曜日、オランダの多くのプロテスタント教会は「イスラエルの日曜日」を覚えています。フリエ・エヴァンゲリーセ・ヘメーンテ・カンペン(Vrije Evangelische Gemeente Kampen)では、ワーペンフェルトから来たペーター・ハルトカンプ(Peter Hartkamp)牧師がメッセージを語ります。開かれたのはローマ人への手紙9章と11章です。パウロが自分の同胞について語り、異邦人から出た信者の立場についても語る箇所です。
説教者は、ひとつの現実から出発します。長年、クリスチャンたちはイスラエルをどう見るべきかについて議論を重ねてきました。教会がイスラエルに取って代わったと考える人もいます。反対に、イスラエルへの愛のあまり、現在の国家のすることをすべて認めてしまう人や、救いには二つの道があると信じる人もいます。この二つの考え方は教会の中に併存していて、「ときには同じ会衆の中にさえ」あるのです。
ねらいは単純です。神のみことばと、神がご自分の民とともに歩まれた道を正しく受け止めること。そのうえで、教会が神の古い民への愛をどうすればいちばんよく示せるのかを、誠実に問うことです。その途中で、説教者は人々がしばしば恐れる「選び」ということばにも光を当てます。
メッセージの流れ
1. イスラエルを見る二つの見方
- 一つ目は置換神学で、「教会がイスラエルに取って代わった」という考え方です。この場合、イスラエルに与えられた約束は教会に当てはめられ、戒めの部分だけがイスラエルに残されます。バプテスマが割礼の代わりになり、日曜日が安息日の代わりになります。
- 第二次世界大戦以降、イスラエルへの新しい関心が生まれました。なぜこの民はこれほど苦しんだのか。1948年にイスラエル国家が、聖書の歴史の舞台そのものの地に戻ってきたことは何を意味するのか。多くの人が聖書を違った目で読み始めました。イスラエルへの約束の中には取り消されないと思われるものがあり、教会がそれを単純に自分のものとすることはできないのです。
- もう一方の極端には、二つの道を信じる人々がいます。イスラエルはアブラハムとの契約と律法を守ることで救われ、教会はキリストを信じる信仰で救われる、というものです。この人たちにとって、ユダヤ人にイエスのことを語るのは思い上がりです。キリスト教の西洋が長年ユダヤ人を迫害してきたことを思えば、なおさらだと言います。
- ペーター・ハルトカンプは、イスラエルが「私たちの兄」であることを認めます。しかし、彼は聖書のテキストに語らせようとします。
2. 自分の民のためのパウロの悲しみ
- パウロは「大きな悲しみ」と「絶えず痛み」を抱いています。多くの同胞がイエスにある救いを知らないからです。同胞のためなら、自分がのろわれて、キリストから離されてもよいとさえ思っています(ローマ9章2〜3節)。
- 彼の願いは、同胞が救われることです(ローマ10章1節)。ですからパウロは二つの道という教えを信じていません。肉による同胞のユダヤ人も、救いのためにメシアであるイエスに頼らなければならないのです。
- 金の子牛の事件の後のモーセにも、同じ姿勢が見られます。「今もし彼らの罪をゆるされますならば、しからずは、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」(出エジプト記32章32節)。
- それでも、モーセもパウロも、自分の民から大きな苦しみを受けました。パウロは、イエスの弟子となったユダヤ人からさえ批判されました。割礼を求めずに、ユダヤ人でない人々に福音を伝えたからです。
3. 神がイスラエルに与えられたすべてのもの
- パウロは驚きます。これほど多くのものを神から受けた民が、どうしてメシアを認めなかったのでしょうか。彼は、子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束を挙げています(ローマ9章4〜5節)。
- 契約とは、アブラハムとの契約、それがイサクとヤコブに確認され、シナイで更新され、さらにダビデ王とその家と結ばれた契約のことです。
- 律法とは、ヘブライ語で「トーラー」、つまり「教え」を意味することばです。私たちは「律法」ということばを否定的に聞きがちですが、これは命のための律法です。説教者は清めの規定を例に挙げます。ペストが流行したとき、決まった時に手を洗っていたユダヤ人は感染が少なく、そのために非難されました。「神のこうした生活の規則は、ただ健全なものなのです。」
- 礼拝は、幕屋で、後には神殿で行われ、民が聖なる神に近づくことを可能にしました。そこではすべてが神のゆるしを語っていました。いけにえも、贖いの血もそうです。
- そして最後に約束です。イスラエルが一つの民として存在することと、平和の君であるメシアが来ること。ところがこのメシアが来たとき、民の一部は彼を退けました。では、神のことばは効力を失ったのでしょうか。
4. アブラハムの子孫であるだけでは足りず、バプテスマを受けただけでも足りない
- 「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく」(ローマ9章6節)。当時、多くの人は、アブラハムの子孫でありさえすれば神のものであると考えていました。
- バプテスマのヨハネもすでに語っています。「われわれの父にはアブラハムがある」と言ってはならない、神はこれらの石からでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ、と(マタイ3章9節)。
- 説教者はここから教会への警告を引き出します。アブラハムの子孫であることが自動的なものでないなら、教会に属していることも同じく自動的ではありません。バプテスマに頼る人もいます。
- バプテスマには価値があります。そこで神は、私たちをご自分の子として迎えたいと語っておられるからです。「しかし、このバプテスマがあなたを救うのではありません。あなたは信仰によって救われるのです。」神の提供には、信仰による応答が求められます。それがなければ、信じなかったイスラエルの人々と同じ危険に陥ります。
5. 選ばれたのは、何かのためであって、滅びるためではない
- 選びはデリケートな主題です。いくつかの聖句から、神は誰が救われ誰が救われないかをあらかじめ決めておられると考えるクリスチャンがいます。そのために、選びは恐れを呼ぶ主題になり、触れずにおきたい主題になり、あるいは「自分は選ばれているのか、いないのか」と一生問い続けさせる主題になってしまいました。しかし、聖書は違った仕方でこれを語っています。
- 最初の例は、アブラハムの息子たちです。ハガルから生まれたイシマエル、次にイサク、そしてサラの死後に、ケトラの子たち、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシバク、シュアハです(創世記25章1〜2節)。全部で8人の息子がいましたが、約束の子はイサクだけです。
- だからといって、神はほかの子たちを退けられたのでしょうか。「そうは思いません。」神がイサクとともに特別な道を選ばれたのは、ほかの人々もそこにあずかれるようにするためです。「神のご計画は救いです。いつも。」アブラハムの子孫によって、すべての国民が祝福されるのです(創世記22章18節)。
- 「あなたは、何かのために選ばれている」のです。アブラハムは、イスラエルとすべての信じる者の父となるために、サラは母となるために、イサクはイシマエルに代わって約束の子となるために選ばれました。
- 二つ目の例は、ヤコブとエサウです。二人が生まれる前に、神は「兄は弟に仕えるであろう」と定められました(ローマ9章12節)。人間の決まりでは、系図はエサウを通るはずでしたが、神は別の仕方で選ばれました。神にはそうする自由があります。エサウは永遠に退けられたのではありません。ヤコブの救いにあずかることもできたのです。
6. エサウとパロ、そして頑なになる心
- 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎み」ということばは、双子が生まれたときにリベカに告げられたものではありません。何世紀もあとに書かれたマラキ書からの引用です(マラキ1章2〜3節)。
- そのころには、ヤコブとエサウは二つの民、イスラエルとエドムになっていました。イスラエルは重い罪を犯して捕囚を経験しました。エサウが兄弟を憎んだように、エドムはイスラエルの神のもとに救いを求めることを拒んでいました。
- 神はイスラエルを連れ戻し、神殿を再建させました。一方エドムは、高ぶって、自分たちで自分たちの廃墟を建て直そうと言いました(マラキ1章4節)。ですから、エドムが退けられたのは正しいことであり、神の気まぐれな選びなどではありません。「神がエサウの心を頑なにされたのではありません。エサウ自身がそうしたのです。」
- パロについても同じです。最初の五つの災いのあいだ、自分の心を頑なにしたのはパロ自身だったと、説教者は説明します。五度にわたって、彼は民を去らせる機会を与えられていました。ついに神は、パロを彼自身の考えの結果に引き渡されましたが、そこに不正なところは少しもありませんでした。
7. オリーブの木:接ぎ木されたのであって、取って代わったのではない
- 神は、栽培されたオリーブの木の枝のいくつかを切り取り、その代わりに野生のオリーブの枝、すなわち異邦人から出た信者たちを接ぎ木されました(ローマ11章17節)。
- 「ですから、教会はイスラエルの地位を取ったのではなく、神がイスラエルに約束された救いにあずかっているのです。」それゆえ、教会は決してイスラエルの上に立ってはなりません。「あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(ローマ11章18節)。
- 枝は不信仰のために切り取られ、私たちは信仰によって接ぎ木されました。切り取られた枝も、信仰に立ち返るなら、再び接ぎ木されます(ローマ11章23〜24節)。これこそ、パウロが強く望んで見たいと願っていることです。
- イスラエルは倒れるためにつまずいたのではありません。その倒れたことが異邦人の救いとなり、それによってイスラエルがねたみを起こすようになったのです(ローマ11章11節)。目的は変わりません。神は救いたいと願っておられます。
8. イスラエルを愛するとは、イスラエルにイエスを語ること
- 説教者にとって、「イスラエルに福音を伝えないことは、一種の反ユダヤ主義になる」のです。多くを負っているこの民に仕え、メシアであるイエスの名に愛をもって触れてもらうことこそ、まさに愛の行いです。
- 私たちはイスラエルと多くのものを共有しています。この民は私たちに神のみことばを伝えてくれました。私たちの聖書の四分の三を占める旧約聖書は、ユダヤ人信者の聖書でもあります。
- 私たちの救い主は、血筋によればユダ族のダビデの子です。子ども向けの聖書では、イエスとマリアがヨーロッパ人の顔で描かれていることがあります。しかしマリアはミリアムという名のユダヤ人の少女であり、イエスはユダヤ人の男性でした。「私たちは、一人のユダヤ人に救いを負っているのです。」
- 神はアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、イスラエルを選ばれ、主イエスを選ばれました。この道によって救いが可能になり、教会はそれを世界に、ユダヤ人にもギリシャ人にも伝えることができます。
- 説教者は、ユダヤの民がイエスこそ自分たちのメシアになりたいと願っておられることを知るように祈ろう、と招いて結びます。神は、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに至ることを望んでおられるからです(ペテロの手紙第二3章9節)。
押さえておきたいポイント
- この箇所で、選びは救われる者と滅びる者の振り分けではありません。神は使命のために人を選ばれ、その目的はいつも救いです。
- 「エサウを憎み」はマラキ書のことばで、神を求めることを拒んだ民、エドムに向けられています。生まれる前に決められた拒絶ではありません。
- 教会はイスラエルに取って代わったのではありません。オリーブの木に接ぎ木され、その救いにあずかっています。教会をささえているのは根です。
- 子孫であることも、バプテスマも、教会に属していることも、自動的に人を救うものではありません。神の提供は、信仰による応答を待っています。
- イスラエルを愛するとは、愛をもってイスラエルにメシアであるイエスを知らせることでもあります。
個人への適用
- 「選び」ということばを、これまで恐ろしく感じたことはありますか。神がまず救うため、そして使命を託すために選ばれるのだとしたら、あなたにとって何が変わるでしょうか。
- あなたは気づかないうちに、生きた信仰ではなく、自分のバプテスマや育ち、教会での立場に頼っていませんか。
- 聖書を伝えてくれ、あなたの救い主がそこから出られたイスラエルへの感謝を、どのように養っていけますか。
- あなたの中に、霊的な高ぶり、つまり自分を他の人の上に置く思いはありませんか。「根があなたをささえている」というたとえは、それを正してくれます。
- 身近な人の中で、パウロと同じ悲しみと願いを抱き、その人がイエスを知るように祈れる相手は誰でしょうか。
引用された聖書箇所
- ローマ人への手紙9章1〜18節
- ローマ人への手紙11章17〜24節
- ローマ人への手紙10章1節
- ローマ人への手紙11章11節
- 出エジプト記32章31〜32節
- マタイによる福音書3章9節
- 創世記25章1〜2節
- 創世記22章18節
- マラキ書1章2〜4節
- ペテロの手紙第二3章9節
よくある質問
ローマ9章の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とは、どういう意味ですか。
ペーター・ハルトカンプは、パウロがマラキ書を引用していることを指摘します。マラキ書は双子の誕生から何世紀もあとに書かれたもので、そのときヤコブとエサウはすでに二つの民、イスラエルとエドムになっていました。エドムはイスラエルの神のもとに救いを求めることを拒んでいました。ですからこの拒絶は当然の報いであり、エサウが生まれる前に神が行った恣意的な選びから来たものではありません。
選びとは、神が誰が救われるかをあらかじめ決めたということですか。
説教者によれば、この箇所では、救われるために選ばれる、あるいは滅びるために選ばれるということはなく、人は何かのために選ばれます。アブラハムはイスラエルとすべての信じる者の父となるために、サラは母となるために、イサクは約束の子となるために選ばれました。神の目的はいつも救いであり、拒絶ではありません。
教会はイスラエルに取って代わったのですか。
いいえ。ローマ11章によれば、異邦人から出た信者は、栽培されたオリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの枝です。教会はイスラエルの地位を取るのではなく、イスラエルに約束された救いにあずかっています。ですから教会はイスラエルの上に立ってはなりません。根をささえているのは教会ではなく、教会をささえているのが根なのです。