御国に入りなさい:クリスチャンの喜び、祈り、感謝(テサロニケ第一5:16~18)
福岡アガペ教会、2025年12月7日主日礼拝でのジュディット伝道師によるメッセージ。日本語で語られたメッセージのフランス語訳を、フランス語圏の読者のために牧会的な語り口で再構成したものです。
はじめに:泣きながら、同時に喜ぶこと
ハレルヤ。主のお名前がほめたたえられますように。12月1日月曜日、私たち福岡アガペ教会の家族が心から愛してきたシャロン・コーベット姉妹が、主イエスのもとに召されました。ご家族による葬儀はすでに終わり、今日は午後2時から、私たちの教会で納骨の礼拝をささげます。不思議なことに、今日もまた12月7日です。2018年のこの日、私の姉が葬られたのもちょうどこの日でした。このように、愛する人を私たちより先に天へと送り出すたびに、ことばにするのがとても難しい感情に包まれます。
もちろん、この肉なる世界で愛していた人を失った悲しみがあります。しかし同時に、彼らがついに、あれほど憧れていた御国に入ったことを知る、計り知れない喜びもあります。心は、涙と賛美の間を行ったり来たりし、正直に言えば、それはとても疲れることです。それでも、涙のひとつひとつの終わりに、いつも何かがこみ上げてきます。感謝、恵みの大きさへの驚き、そして主のお名前をたたえたいという抑えきれない思いです。こうして、私の涙の一つひとつは締めくくられていきます。
今日は、この緊張のただ中で、みことばを開いていきたいと思います。短い箇所ですので、ご一緒に読んでみましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16~18)
この命令は三つの動詞に集約されています。喜ぶこと、祈ること、感謝すること。いつも。絶えず。すべてのことについて。棺のかたわらに立たされているようなときに、クリスチャンはどうしてこれを生きることができるのでしょうか。その答えは、ひとつのことばの中にすべて含まれています。それは「御国」です。御国に入りなさい。これこそイエスが私たちに繰り返し語られることであり、これから私たちがご一緒に思い巡らしていくことです。
メッセージの流れ
1. 希望とともに泣くこと:クリスチャンの涙は絶望の涙ではない
そうです、私たちは泣きます。私自身、今このときも泣いています。しかし私の涙は絶望の涙ではありません。コーベット先生のため、私の姉のため、先に旅立った父のために、私はそれぞれの歩みの終わりに立つ彼らを思い、心の中でこう語りかけます。「よくやりましたね。本当によく走り抜きましたね。おめでとう。」彼らはその巡礼の旅を走り終えました。神の御手が彼らの生涯全体を導き、守ってくださいました。そして今、この肉体を離れ、彼らは永遠に御父のもとで安らいでいます。
あの栄光に満ちた御国で、主とともに、とこしえに、もはや心配も、悲しみも、苦しみも、痛みもありません。ただ神の完全な愛と喜びだけがあります。それを思うと、私の胸ははちきれそうな喜びで満たされます。これこそ、キリストにある兄弟姉妹の死を前にしたクリスチャンの感情です。確かに入り混じったものですが、そこでは恵みが最後のことばを持つのです。
クリスマスには、私たちはよく「荒野の果てにも」の賛美歌を歌いますが、日本では「あめにはさかえ」を歌います。毎年、私の心を締めつけるのは第三節です。「地に生まれし者よ、終わりなきいのちを与えられし者よ、今日生まれた方をたたえよ。」神の御ひとり子は、この世に遣わされ、ちりから造られ、いつかそのちりに帰る者たちのすべての罪を負われました。イエスは私たちに終わりのないいのちを与えるために、十字架で死なれました。そして三日目によみがえり、私たちのために天の御国に住まいを備えに行かれました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。だからこそ、私たちの涙は、最後には必ず賛美へと変えられていくのです。
2. いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する
テサロニケ人への手紙の箇所に戻りましょう。「いつも喜んでいなさい。」これは、そうであるふりをしなさいという命令ではありません。それが可能なのは、私たちが神がどのような方であるかを知っており、永遠のいのちが私たちに約束されているからです。「絶えず祈りなさい。」私たちは主のみこころを絶えず祈り求めることができます。イエスとともにこう祈りながら。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」なぜなら私たちは、神が善い方であることを信じ、また知っているからです。
「すべてのことについて感謝しなさい。」たとえ神のなさることが理解できないときでも、深い悲しみの中にあってさえ、私たちは感謝することができます。なぜなら、神は善い方であり、永遠のいのちが私たちに約束されているからです。この体はやがて朽ちてちりに帰る定めにあっても、私たちをちりから引き上げてくださった方は、決して尽きることのないいのちを私たちに与えてくださいます。だからこそ、感謝があふれ出るのです。
「草は枯れ、花はしぼむ。まことに、人は草にすぎない。しかし、私たちの神のことばはとこしえに立つ」(イザヤ40:6~8)。私たちはちりにすぎません。それでも……。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩篇8:4~5)。恵みのあまりの大きさを前にして、ただひとつの問いだけが湧き上がってきます。「なぜですか。なぜここまでしてくださるのですか。」そして私たちの心はあふれます。
思い起こしてください。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。それなのに、そのうちの一羽でも、あなたがたの父のお許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえ、一本残らず数えられています。ですから、恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:29~31)。恐れる理由は何もありません。イエスの前で自分を告白する者を、イエスもまた御父の前で告白してくださいます。「わたしはあなたを知っている」と。これこそ、荒波のただ中にあってもたらされる平安の源です。
3. 狭い道と霊的な戦い
このクリスチャンの喜びは、おとぎ話の舞台の中で演じられるものではありません。この世は今、空中の権威を持つ君の支配下にあります(エペソ2:1~2)。悪魔は、ほえたけるししのように、だれかをむさぼり食おうと、うろつき歩いています(ペテロ第一5:8)。イエスを信じることによって神の子どもとされたあなたは、罪と、自分の肉と、自分自身の意志と、悪魔と戦っていかなければなりません。狭い門を通り、細い道を歩まなければなりません。
御霊の内なる声を聞くこと、それに従って選び取ること、みことばに従順であること、行いによって信仰を生きること。これこそが弟子の生き方です。しかし安心してください。勝利はあなたのものではなく、主のものです。「あなたがたには、この世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)。あなたが自分の感情や自分の考え、自分の方法にではなく、主に身を委ねるとき、戦うのは主ご自身であり、主は「勝利以上のもの」を与えてくださいます。「それは人にはできないことですが、神には、すべてのことが可能だからです」(マルコ10:27)。
4. 救いを盗ませてはならない
イエスは言われます。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼすためにやって来るだけです」(ヨハネ10:10)。悪魔は本当に盗み、殺し、滅ぼします。ですから、「サタンはもう存在しない」とか、「イエスを信じたのだから永遠のいのちを得た、もう何もする必要はない」といったスローガンに眠らされないでください。まさにあなたが永遠のいのちを受けたからこそ、サタンはあなたを標的にするのです。悪魔はししのように、あなたをむさぼり食おうと、あなたの周りをうろつき回っています。
だからこそ、最後まで堅く立ち続け、永遠の救いをしっかりとつかみ、みことばをしっかりとつかみ、みことばのとおりに生き、「賞を得るために走る者」のように走らなければなりません。真のクリスチャンの死、聖徒の死は、実は報いなのです。誰もが「良い」死を迎えるわけではありません。弟子にとって死ぬこととは、主がこう言ってくださるのを聞くことです。「よくやった、良いしもべよ。休みなさい。わたしのところに来なさい。」これは特権です。天の御国の市民として迎え入れられるという特権なのです。
5. 御国に入ること:門、そして実
ただ漠然とした思いや、あいまいな感情によって、聖書を都合よくねじ曲げ、安心できる部分だけを残して、自分は救われていると思い込むだけでは十分ではありません。以前お話ししたある人物のことを思い出します。バプテスマを受けた後、教会のバプテスマ槽の中で自分に火を放とうとした人です。このような行為は御国に入ることにはならず、むしろその逆です。
イエスが神のひとり子であると心で信じ、口で告白し、バプテスマを受けること。これは永遠のいのちの「入口」です。それは絶対に必要なことです。しかし、それはあくまで「入口」なのです。ひとたび神の子どもとされたなら、心の思い、口のことば、そして生きた信仰とみことばへの従順によって、それにふさわしい実を結んでいかなければなりません。そうでなければ、イエスが言われるように、その枝は切り取られ、火に投げ込まれてしまうのです。
神がまだ私たちを御もとに召しておられないがゆえに、今ここに集められている私たちには、なお、この世界で果たすべき務めがあります。受けるべき訓練があり、担うべき主の御業があり、戦うべき戦いがあります。罪と戦い、肉と戦い、悪魔と戦い、神を愛し、あなたの隣人を自分自身のように愛し、その愛を行いに表し、みことばに忠実であること。そして私たち一人ひとりが(例外なく)御国にまで至ること。
イエスの命令ははっきりしています。「御国に入りなさい。必ず御国に入りなさい。」この地上での戦いは、主ご自身の戦いです。あなたが身を委ね、主に従うとき、主は「勝利以上のもの」を与えてくださいます。主はすでに世に勝っておられます。この方に従った信仰の先達たちはみな御国に入り、私たちもまた彼らの後に続いて入り、天で愛する者たちと再会し、イエスとともにとこしえに生きることになるのです。
要点まとめ
- キリストにある兄弟の死を前にしたクリスチャンの喜びは、否認ではありません。それは確かな希望です。私たちは泣き、そして賛美するのです。
- 「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する」ことが可能なのは、神が善い方であり、永遠のいのちが約束されているからにほかなりません(テサロニケ第一5:16~18)。
- 信仰の道は狭い道です。戦いは現実のものですが、勝利はあなたのものではなく、主のものです(ヨハネ16:33、マルコ10:27)。
- 悪魔はあなたの救いを盗もうとします。最後までみことばを堅く握りしめることは、本物の命令です(ヨハネ10:10、ペテロ第一5:8)。
- バプテスマと信仰告白は永遠のいのちへの入口であって、ゴールではありません。実を結んでいかなければなりません(ヨハネ15章)。
あなた自身への問いかけ
- 今日、あなたが抱えている「涙」とは何ですか。ジュディット伝道師のように、その涙を神への感謝へと結びつけることができますか。
- テサロニケ第一5章の三つの動詞、喜ぶこと、祈ること、感謝することを、今週、具体的にどの領域で実践できますか。
- 今、あなたが主にではなく、自分自身に頼って戦っている領域はどこですか。どうすればその戦いを主にお委ねできますか。
- あなたの人生は、バプテスマの後、実を結んでいますか。それとも入口で止まったままですか。今、御霊はどんな「実」をあなたの内に結ばせようとしていますか。
- 盗人にそれを奪わせないために、今日、あなたがしっかりとつかむべき、みことばの約束はありますか。
引用聖句
- テサロニケ第一5:16~18 ・いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい
- ヨハネ3:16 ・神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された
- イザヤ40:6~8 ・私たちの神のことばはとこしえに立つ
- 詩篇8:4~5 ・人とは何ものなのでしょう、あなたが心に留められるとは
- マタイ10:29~31 ・雀たち、数えられた髪の毛
- エペソ2:1~2 ・空中の権威を持つ君
- ペテロ第一5:8 ・悪魔はほえたけるししのようにうろつき歩く
- ヨハネ16:33 ・わたしはすでに世に勝ちました
- マルコ10:27 ・神には、すべてのことが可能である
- ヨハネ10:10 ・サタンは盗み、殺し、滅ぼすために来る
- 伝道者の書3:11 ・神はすべてを時にかなって美しく造られた
- コリント第一13:12 ・今は鏡にぼんやり映るものを見ている
よくある質問
大切な人を失ったばかりなのに、どうして「いつも喜ぶ」ことができるのですか。
聖書は悲しみを隠すようには求めていません。ジュディット伝道師自身も、涙を流していると語っています。クリスチャンの喜びは涙を打ち消すものではなく、涙を通り抜けていくものです。それは、キリストにある人がすでに御国に入っており、あなたにも永遠のいのちが約束されているという確信から来るものです。この希望こそが、それぞれの涙の終わりに感謝をこみ上げさせるのです。
イエスを信じるだけで十分ですか、それとも他に何か「行う」必要がありますか。
救いは信仰によって受け取る賜物です(エペソ2:8~9)。しかし、生きた信仰は必ず実を結びます(ヤコブ2:26)。バプテスマと信仰告白は永遠のいのちへの入口です。そこから、歩み、戦い、従い、愛していかなければなりません。これは救いに何かを付け加えることではなく、受けた救いを生きるということです。
悪魔は本当に私の救いを奪うことができるのですか。
このメッセージは警戒の必要性を強調しています。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼし」(ヨハネ10:10)、ししのようにうろつき回っています(ペテロ第一5:8)。しかし、悪魔は、毎日みことばを「しっかりとつかみ」、従順の内に歩む者に対しては何もすることができません。安全は、ある日にチェックした一つの項目にあるのではなく、最後まで忍耐し続けることにあるのです。
今週のための祈り
主よ、あなたは善い神です。今日、私は涙の中にあっても、あなたにあって喜ぶことを選び取ります。私の戦いをあなたにお委ねします。それは私には重すぎるものですが、あなたにはふさわしいものです。あなたのみことばをしっかりとつかみ、ふさわしい場所で実を結び、眠り込むことのないよう、私を助けてください。私を、最後まであなたの御国に入る者としてください。イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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