はじめに
牧師は、ひとつの打ち明け話から始めます。自分は変化に気づかないタイプの人間だというのです。娘が自分の髪を切ってくれた時はさすがに気づきます。長かった髪が短くなれば、それは誰の目にも明らかだからです。しかし妻が髪型を変えた時(明るくしたり、そろえたり、軽くしたりしても)は、ほとんど気づきません。そしてある日、妻が美容院から帰って来た瞬間は、何の前触れもなくやって来ます。牧師はそれを笑い話として語りながらも、そこから正直な問いを引き出します。自分は変化に敏感なのだろうか、それとも見過ごしているのだろうか、と。もうひとつの話があります。2019年、韓国で、彼は学生たちとサッカーをしました。日本で十二年間サッカーをしてきた彼は、ルールを分かっているつもりでした。ところが、2016年にキックオフのルールが変わっていたことを、彼は知りませんでした。その結果、彼はチームメイトを「助けよう」として隣に走って行きましたが、実はそのチームメイトはすでに一人でキックオフできるようになっていたのです。韓国の人たちは、礼儀正しく、しかし少し気まずそうに彼を見ていました。まるで、ただボールに触りたいだけで走り回る二十七歳の男を見るかのように。この二つの話が伝えたいことは、とてもシンプルです。世界は私たちの周りで変化しており、誰も私たちに許可を求めには来ないということです。今日、ルカ5:33〜39を通して、イエス様はまさにこのことについて語りたいと願っておられます。大きな変化がすでに起こり、恵みがもたらされました。そしてイエス様は、あなたにその変化に注意を払い、それを古い枠にはめ込もうとするのではなく、自分の心を備えて受け取るようにと招いておられるのです。
メッセージの構成
1. ルカ5章を貫くテーマ:古いものが新しくなる
- 教会は、ここ数週間にわたってルカ5章を読み進めてきました。この章はペテロの物語から始まります。イエス様は彼に深みに漕ぎ出すよう求められ、奇跡的な大漁が起こり、ペテロは自分の罪を告白し、新しい奉仕へと召し出されます。
- 続いて、ツァラアトに冒された人が登場します。誰も彼に触れることができませんでしたが、イエス様は彼に触れ、きよめてくださいます。汚れがきよさへと変えられるのです。
- 続いて、中風の人です。イエス様はまず罪の赦しを宣言され、その後、いやしが続きます。
- 続いて、取税人レビ(後のマタイ)です。イエス様は、収税所に座っている彼にまなざしを向け、彼を召し出し、弟子とされます。
- この章全体を貫く、ひとつの共通したテーマがあります。それは、古いものが新しくなるということです。誰一人として、これらの人々が恵みを受け取ることになるとは想像していませんでした。イエス様は彼らのもとに来て、触れ、赦し、選ばれます。33節の問いは、まさにこの文脈の中に置かれているのです。
2. パリサイ人たちの問いと、イエス様の答え:花婿がここにいる
- レビの家で、盛大な宴会が催されます。パリサイ人たちと律法学者たちは不満をこぼします。なぜ罪人たちと一緒に食事をするのか、と。そして彼らはさらに詰め寄ります。ヨハネの弟子たちはたびたび断食し、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしている(ルカ5:33)。彼らの非難は明白です。あなたの弟子たちは信心深さが足りない、というものです。
- 旧約聖書において、神様が命じられた断食は年に一度だけでした。それ以外は、時代とともに加えられていったものです。捕囚にまつわる断食や、ラビたちの伝統がそれにあたります。パリサイ人たちは週に二度断食していました。彼らにとって、本物の弟子であるかどうかは、こうした目に見えるしるしによって判断されるものだったのです。
- これは、今日でも変わらぬ落とし穴です。人々を霊的な「実績」によって格付けしてしまうという罠です。今日でも、ある牧師は「目覚めている」、別の牧師は「眠っている」と言われることがあります。説教者自身も、「牧師先生は目覚めていますね」と言われたことがあると告白し、いったい誰が、どんな基準で判断しているのかと問いかけます。私たちは、そのような評価者にはならないようにしましょう。
- イエス様は、ルカ5:34〜35でこう答えられます。「花婿が一緒にいる間、花婿の友人たちに断食させることができるだろうか。花婿が取り去られる日が来る。その日には彼らも断食するようになる。」
- この答えには、二つの重要な点があります。まず、イエス様はご自身を花婿と呼んでおられますが、これは旧約聖書において神様のためだけに用いられる呼び方です(イザヤ62章、ホセア2章)。それを聞いているパリサイ人たちにとって、これは衝撃的な宣言です。次に、イエス様は断食が廃止されたわけではないことを示しておられます。断食にもふさわしい時が来るのです。しかし花婿がそこにいる間は、誰にも断食を強いることはありません。本物の断食とは、恵みに応答する心から生まれるものであって、チェックリストの項目のようなものではないのです。
3. 古い衣と新しいぶどう酒:同じ招きを語る二つのたとえ
- イエス様は続けて、二つのイメージを語られます(ルカ5:36〜38)。新しい衣から布切れを取って、古い衣の継ぎにする人はいません。新しいものを台無しにしてしまいますし、その布切れは古いものに合いません。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人もいません。皮袋は破れ、ぶどう酒は流れ出し、皮袋も無駄になってしまいます。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきものなのです。
- 古い衣と古い皮袋とは、古いあり方を表しています。律法を中心とした信心深さ、硬直化した儀式、「こうあるべきだ」という固定観念です。この枠組みは乾ききっており、しなやかさを失っています。
- 新しい布と新しいぶどう酒とは、福音の恵み、キリストにある新しい契約を表しています。それは生きており、発酵し、あふれ出るものです。
- イエス様は、ここで二つのことを同時に語っておられます。ひとつは、恵みを古い宗教に縫い付けることはできない、それは破れてしまうということです。もうひとつは、恵みを硬直した心に注ぐことはできない、それははじけてしまうということです。あなたには新しい皮袋、すなわちしなやかで新しくされた心が必要です。それは、神様が今日注いでくださるものを受け止めることができる心です。
- 説教者は、このメッセージの題を言い換えます。「変化に備えなさい」というのも良いのですが、「すでに起こった変化に気づきなさい」と言うほうが、もしかしたらより正確かもしれません。恵みの時代は、すでに始まっているのです。問題は待つことではなく、気づくことなのです。
4. 受け取るための新しい心:エゼキエル36章と朝ごとのマナ
- この、しなやかな心を、私たちは自分でつくり出すことはできません。それを与えてくださるのは神様です。エゼキエル36:26にはこうあります。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」新しい皮袋とは、神様があなたの胸の内に据えてくださるものなのです。
- あなたがイエス様と出会った時、この奇跡が起こりました。コリント人への手紙第二5:17にあるとおり、あなたは新しく造られた者となったのです。古いものは過ぎ去り、新しいものがすでに来ているのです。
- そして、一度限り受け取ったこの恵みは、毎朝新しくされます。荒野のマナのように、それは今日という日のためにあるのです。説教者は、ここを強調します。イエス様は十字架の上で死なれました。それだけで十分です。それにもかかわらず、イエス様は毎日、恵みの上に恵みを加え続けてくださり、今朝あなたに必要なものを与えてくださるのです。
5. 古いぶどう酒のわな:「古いほうがよい」
- 39節は、これまで語られてきたことと矛盾しているように見えます。「古いぶどう酒を飲んだ後では、だれも新しいものを望みません。『古いほうがよい』と言うのです。」すべてが新しくなると語った後で、なぜイエス様はこの一言を加えられたのでしょうか。
- それは、イエス様があなたの心をよくご存じだからです。イエス様は、あなたが新しくされた後でも、なお古いものに戻りたいという誘惑を受けることを知っておられます。以前の習慣、お気に入りの罪、自己中心的な生き方、あなたの反応を支配し続ける古い傷。これは、人間の本質を偽りなく描いたものです。
- 私たちは時々「以前のほうがよかった」と言います。それは穏やかな懐かしさではなく、私たちを縛り付けていたものへの後退です。この古い皮袋は、まだ心のどこかに残っているのです。
- しかしイエス様は、この現実に立ち止まったままではおられません。イエス様はあなたの弱さをご存じの上で、それでもなお、新しいぶどう酒を注ぎ続けてくださいます。これこそが恵みです。イエス様は、あなたがきよくなったから救われたのではありません。あなたがなお弱いままであることを知りながら、あなたを救われたのです。そして今日もイエス様は、あなたにこう問いかけておられます。「今朝わたしが与えるものを受け取るために、新しい皮袋をわたしに差し出してくれないか。」
覚えておきたいポイント
- ルカ5章は、ペテロ、ツァラアトに冒された人、中風の人、レビと、一つひとつのエピソードを通して、イエス様の御手によって古いものが新しくされていく様子を描いています。
- イエス様はご自身を花婿と呼んでおられます(ルカ5:34〜35)。これは旧約聖書において神様のための呼び名です。イエス様の臨在は、強いられた悲しみではなく、祝いの時です。
- 新しいぶどう酒には新しい皮袋が必要です。恵みを古い宗教に貼り付けることも、硬直した心に注ぎ込むこともできません。
- 新しい皮袋を与えてくださるのは神様です(エゼキエル36:26)。石の心が取り除かれ、肉の心があなたに与えられます。それはあなたが自分でつくり出すものではありません。
- 恵みは、マナのように毎朝新しくされます。このメッセージの題の意味も変わってきます。「変化に備えなさい」というより、「すでに与えられている変化に気づきなさい」ということなのです。
- 古いぶどう酒は、なお魅力を保ち続けます。自分がどこで後戻りしたい誘惑を感じているのかを冷静に見つめ、それを、新しいぶどう酒を注ぎ続けてくださるイエス様にゆだねましょう。
自分への適用
- 今日、あなたの人生の中で、自分でも気づいている「古い皮袋」とは何でしょうか。硬直した信仰の習慣でしょうか、「こうあるべきだ」という固定観念でしょうか、それともパリサイ人のように他の人を裁く思いでしょうか。
- イエス様に枠組みそのものを新しくしていただくことなく、恵みを古い生き方に貼り付けようとしている部分はありませんか。それは何でしょうか。
- あなたは、神様の恵みを毎朝新しくされるものとして感じていますか。それとも、一度受け取って、次第に減っていく蓄えのようなものとして感じていますか。
- 実際にはあなたを縛り付けていた現実について、「以前のほうがよかった」という声が、あなたの内側でどこに響いていますか。今日、そのことについて、イエス様に何と伝えたいですか。
- すでに起こっている変化に気づくために、今週あなたが取れるシンプルな行動は何でしょうか。御言葉を読むこと、祈ること、仕えること、赦すこと、重荷を明け渡すことなど。
引用された聖句
- ルカ5:33〜39(新改訳)
- ルカ5:1〜11・ペテロ(新改訳)
- ルカ5:12〜16・ツァラアトに冒された人(新改訳)
- ルカ5:17〜26・中風の人(新改訳)
- ルカ5:27〜32・レビ(新改訳)
- エゼキエル36:26(新改訳)
- コリント第二5:17(新改訳)
よくある質問
新しいぶどう酒と新しい皮袋というイメージで、イエス様は何を伝えようとしておられるのですか。
新しいぶどう酒は、福音の恵み、イエス様がもたらしてくださった新しい契約を表しています。古い皮袋は、律法や宗教的な習慣、あるいは古い生き方に縛られ、乾ききって硬直した心を表しています。そのような心は、新しいぶどう酒の圧力に耐えられず、はじけてしまいます。ですからイエス様は、恵みを古い枠にはめ込もうとせずに受け入れることのできる、しなやかな心を求めておられるのです。
なぜイエス様の弟子たちは、バプテスマのヨハネの弟子たちのように断食しなかったのですか。
花婿であるイエス様が、彼らと共におられたからです。旧約聖書において断食は、嘆き、悔い改め、嘆願と結びついたものでした。しかしイエス様は、ご自身を花婿と呼んでおられます。これは神様のための呼び名です。イエス様の臨在は、嘆きではなく祝いの時です。弟子たちの断食が廃止されたわけではありませんが、それは恵みに対する自由で自発的な応答であり続けるべきであって、強いられた宗教的な実績であってはならないのです。
自分の心がまだ古い皮袋のままかどうかは、どうすれば分かりますか。
自分が硬直してしまっている部分を見つけましょう。「こうしなければならない」「昔からずっとこうだった」「以前のほうがよかった」といった思いです。また、パリサイ人がイエス様の弟子たちを裁いたように、宗教的な基準から他の人を裁いていないかどうかも確認しましょう。最後に、密かに以前の生き方や、以前の罪、自己中心的な思いに戻っていないかどうかを吟味しましょう。あなたが新しい恵みに抵抗している場所にこそ、まだイエス様にゆだねるべき古い皮袋が残っているのです。
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