はじめに
その日曜日、Joshua Reiniger 牧師は、FEG Bern(自由福音教会)での最後のメッセージの一つを語りました。正式な離任は翌週に迫っていました。「ここを離れるのは、私にとって本当に簡単なことではありません」と打ち明けます。そして、いつも時間を超過する説教者がようやくいなくなるので、この別れを私よりも気楽に受け止める人もいるでしょう、とユーモアを添えました。
別れには、どこか寂しさや喪失感が残るものです。彼が選んだ聖書の箇所も別れについて語っていますが、その性質はまったく異なります。ヨハネの福音書14章1〜14節、イエスが弟子たちに告げた別れの言葉です。そこには弟子たちの人間らしさが表れていると同時に、「慰めに満ち、希望に満ち、励ましに満ちた」イエスの言葉があります。
メッセージの題は「未来を恐れない」というシンプルなものです。説教者によれば、イエスはここで弟子たちに「恐れに対する小さなセラピー」を与えています。理由は三つあります。イエスはすべてを備えてくださること、イエスは道を知っておられること、そしてイエスは弟子たちを独りにしないことです。
メッセージの流れ
1. 揺さぶられた弟子たちの心
- 背景として、弟子たちは過越の祭りをイエスと祝ったばかりで、これが最後だと告げられます。14章には、イエスが去っていくほうが弟子たちにとって良い理由が集められています。
- その少し前、イエスは歓呼の声の中、棕櫚の枝で覆われた道を通ってエルサレムに入城されました。そのあとに続いたのは、心をかき乱す言葉でした。十二人の一人による裏切り、ペテロの否認、そして皆のつまずきです。
- 弟子たちは、信じてきたものすべてが「空中に溶けていく」ように感じています。イエスのためにあらゆるものを捨ててきたのに、そのイエスが自分たちを見捨てようとしているように見えるのです。
- まさにそのときイエスは言われます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」原文の言葉は、地震のような揺さぶりを思わせます。「心を震わせたままにしてはいけない」という意味合いです。
- イエスは抽象的な理論から語っておられるのではありません。13章21節では、ユダについて話しながら、ご自身が心を騒がせておられます。揺さぶられた心がどのようなものか、イエスはご存じなのです。
2. クリスチャンも恐れと無縁ではない
- 「新しく生まれたクリスチャンでさえ、恐れと無縁ではありません。」特に、人生が思い描いていた方向とまったく違う方へ進むときがそうです。足元が崩れ、どこへ向かっているのか分からなくなります。
- 恐れる理由には事欠きません。増える犯罪、悪化する経済、身近に迫る戦争(イランとの対立、広がるおそれのあるロシアとウクライナの戦争)、厳しい診断、職場での不安、深い孤独などです。
- イエスは、同じ章の終わりでも同じ言葉を繰り返されます。「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)。
- これは心理的なテクニックや、ポジティブ思考ではありません。キリストと事実に対する、現実の信頼です。キリストとの関係が深まり、その主権、全能、全知、遍在、愛といった御性質を知れば知るほど、心は穏やかになります。
- 「神を本当に知ることは、人生の心配や苦しみ、恐れに対する最良のセラピーです。」説教者はさらに、私たちはときに、起こりうることを実際に起こることよりも悪く想像してしまいがちだと付け加えます。
3. 恐れなくてよい。イエスがすべてを備えてくださるから
- 「わたしの父の家には、すみかが多くある。……あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」そしてイエスは、再び来て、ご自分の民を迎えてくださると約束されます。
- 説教者は、理想の家を思い描くよう促します。海辺の別荘、居間から湖が見える田舎の家、すてきな暖炉、座り心地のよいソファ。イエスが私たちを連れて行こうとしておられる場所は、いつまでもそこにいたくなる場所です。
- けれども私たちの希望は、まず場所ではなく、一人のお方です。主との深く親しい交わり、その御前にいることです。それこそが、その場所を決定づけるものです。
- もう一つのたとえです。あなたは夢の旅行を予約しました。飛行機がいつ飛び立つかは分かりませんが、必ず飛び立ちます。そして切符は片道です。「私たちは天国について、あまりにも狭い考えしか持っていないことがよくあります。」
- 信じる者にとって、最良のものはこれからです。Joshua Reiniger 牧師はC. S. ルイスの言葉を引用します。天国は「一人ひとりの魂の秘密の署名」であり、配偶者や親友や仕事に出会う前から抱いていて、臨終の床でもなお抱き続ける慕わしさだというのです。この世のものでは、その慕わしさを満たすことはできません。満たせるのはキリストだけです。
4. 恐れなくてよい。イエスが道だから
- トマスは言います。「主よ、どこへおいでになるのか、わたしどもにはわかりません。どうして、その道がわかるでしょう。」説教者はこれを励みに感じています。理解が遅いのは自分だけではないからです。
- この問いから、福音書の中でも最も美しい言葉の一つが生まれます。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」これはイエスの「わたしは〜である」という言葉の一つ(世の光、羊の門、良い羊飼い)であり、神がモーセに現れて語られた「わたしは、有って有る者」(出エジプト記3:14)を思い起こさせます。
- イエスは道を知っておられるだけでなく、ご自身が道です。真理を教えるだけでなく、ご自身が真理そのものです。永遠へとあふれ出る命です。
- この排他的な主張は、今日では歓迎されませんし、昔もそうでした。1世紀のローマ帝国では、千もの神々を信じることができました。クリスチャンが皇帝を敬いながらも礼拝せず、古い神々の礼拝を拒んだとき、それは多くの人にとって死刑に値することでした。
- すべての宗教が同じなわけでも、同じことを教えているわけでもありません。「イエスの名によって自爆した人の話を、私は聞いたことがありません。」
- 2018年、タイで、少年サッカーチームが浸水した洞窟に1週間以上閉じ込められ、空気のたまった場所で過ごしました。最初の救助隊が到着したとき、「どうして出口は一つしかないのですか。それは少し不寛容ではありませんか」と尋ねた子は一人もいませんでした。
- 「問題は、道が一つしかないことではありません。」問題は、私たちが自分の滅びの状態を理解していないことです。私たちは神のもとへ登って行くこともできず、救いのために何かを差し出すこともできません。
5. イエスを見た者は父を見たのである
- ピリポは言います。「主よ、わたしどもに父を示してください。そうして下されば、わたしどもは満足です。」イエスは答えられます。「ピリポよ、こんなに長く、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。」
- 説教者は、ここから「深い神学」に入ると断り、落胆しないでほしいと呼びかけます。父は子の内におられ、子は父の内におられますが、それでも位格としては区別されます。第三の位格である聖霊もまた区別され、同じく神です。これが神学で三位一体と呼ばれるものです。
- これはイエスと父が同じ人格だという意味ではなく、子が父を完全に現し、同じ神の性質を持っておられるということです。「神がどのようなお方か知りたければ、イエスを見なさい。」
- 信じるだけで十分であり、最初からすべてを理解する必要はありません。けれども、弟子としての歩みは、イエスがどなたかをますます深く知っていく道です。その理解はあなたの信仰生活全体の土台であり、困難な状況の中であなたを支えるものです。
- あなたがイエスのものであるなら、「これで十分だろうか」と悩む必要はもうありません。生きておられる神があなたのそばにおられ、あなたの内にさえ住んでおられます。
6. 恐れなくてよい。イエスは民を独りにされないから
- 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、わたしがしているところのわざをし、またそれよりも大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」
- ラザロのよみがえり、水をぶどう酒に変えられたこと、水の上を歩かれたこと。「皆さんが休暇に何をしているかは知りませんが、私にはできません。」説教者は、神が今日も使徒の働きのように奇跡を行われると信じていますが、そうした現象に注目しすぎると、イエスを正しく理解できなくなると言います。
- 第一に、これらの奇跡は聖霊の働きです。聖霊は、この章の後半でイエスが告げられるもう一人の助け主です。だからこそ、イエスが去って行かれるほうが良いのです。
- 第二に、この旅立ちは、イエスの死と復活と昇天を告げています。イエスは世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1:29)。イエスを信じる者は救われます。イエスがすでにその者の裁きを負われたからです。
- イエスの時代には、その働きは一つの地域に限られ、理解した人もわずかでした。ペンテコステ以来、救いのメッセージは全世界に広がりました。何千人もの人が信仰に入り、霊的に死んでいた者が命に戻っています。これが、より大きなわざです。
- イエスはもう肉体をもってここにはおられませんが、聖霊によって私たちの内に住んでおられます。「イエスは私たちの真ん中におられます。」
7. イエスの名によって祈る
- 「また、わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を受けるためである。」これは、祈りを「効かせる」ために最後に付け足す魔法の言葉ではありません。
- イエスの名によって祈るとは、イエスの人格、御心、使命に沿って願うことであり、イエスの生涯全体がそうであったように、父が栄光を受けることを目的とします。
- 祈りは「イエスよ、どうか私の願いをかなえてください」ではなく、「イエスよ、私の祈りを通して、父の栄光のために働いてください」というものです。説教者は、自分中心ではない祈りを願っています。「主よ、どうすればあなたをあがめることができますか。」
- 繁栄の福音はこれらの言葉をゆがめてきましたが、イエスが祈りにおいて与えてくださる力を決して過小評価してはいけません。祈りは聞かれます。私たちの望むとおりではなくても、御心にかなう形で聞かれます。そして、私たちの願いそのものを変えてくださるよう、願うこともできます。
- 「イエスは出し惜しみをされず、けちなお方でもありません。」神の人たちが御言葉に満たされるとき、彼らは神が答えてくださる素晴らしい祈りを祈り、父が栄光を受けるのです。
要点
- イエスは、揺さぶられた心をご存じです。クリスチャンも恐れと無縁ではありませんが、神を知ることが最良の薬です。
- イエスはご自分の民のために場所を備え、再び迎えに来てくださいます。私たちの希望は、まず場所ではなく、一人のお方です。
- イエスは道を知っておられるだけでなく、ご自身が道です。あなたが救いのために差し出すものは何もありません。イエスがすべてを成し遂げてくださいました。
- イエスを見た者は父を見たのです。イエスをより深く知ることは、困難な日々のためにあなたの信仰を堅くします。
- イエスはあなたを独りにされません。御霊によってあなたの内に住み、父の栄光のためにご自分の名によって祈るよう招いておられます。
個人的な適用
- 今、あなたの心を揺さぶっている未来への恐れは何ですか。健康、仕事、孤独、それとも世界の情勢でしょうか。
- あなたが想像している恐れは、実際に経験していることよりも重くなっていませんか。神について知っていることは、その恐れに何と語るでしょうか。
- 天国への希望を、あなたは何で養っていますか。心地よい場所としてでしょうか、それともイエスご自身がおられることとしてでしょうか。
- イエスがすでにすべてを成し遂げてくださったのに、神の前で「十分な者」になるために、まだ何かを差し出そうとしていませんか。
- 今週のあなたの祈りは、「私の願いをかなえてください」に近いですか、それとも「主よ、どうすればあなたをあがめることができますか」に近いですか。
引用された聖句
- ヨハネの福音書 14:1-14
- ヨハネの福音書 13:21
- ヨハネの福音書 14:27
- 出エジプト記 3:14
- ヨハネの福音書 8:12
- ヨハネの福音書 10:7-11
- ヨハネの福音書 1:29
- ヨハネの福音書 14:15-17
よくある質問
ヨハネ14章1節の「あなたがたは心を騒がせないがよい」とはどういう意味ですか。
Joshua Reiniger 牧師によれば、原文の言葉は、地震のように揺さぶられた心を思わせます。イエスは理論として語っておられるのではなく、ご自身も心を騒がせられました(ヨハネ13:21)。イエスが差し出しておられるのはポジティブ思考ではなく、ご自身に基づく信頼です。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」
なぜイエスは父のもとへ行く唯一の道なのですか。
説教者は、2018年にタイの洞窟に閉じ込められた少年サッカーチームの状況にたとえます。出口が一つしかないことを責めた子は一人もいませんでした。問題は、道が一つしかないことではなく、私たちが自分の滅びの状態を理解していないことです。私たちは救いのために何も差し出すことができず、イエスがすべてを成し遂げてくださいました。
ヨハネ14章13〜14節でいう「イエスの名によって祈る」とはどういう意味ですか。
祈りの終わりに付け足す魔法の言葉ではありません。Joshua Reiniger 牧師にとって、イエスの名によって祈るとは、イエスの人格、御心、使命に沿って、父が栄光を受けるために願うことです。祈りは、こうなります。「イエスよ、私の祈りを通して、父の栄光のために働いてください。」