はじめに
「何らかの形の完璧主義に影響されずにいるのは難しいことです。」ロマンは、Église Comme à la Maison のオキシジェン・ウィークエンドの二回目のメッセージを、完璧主義というテーマでこう切り出しました。私たちはみな、とくに自分にとって大切なことについて、完璧主義的な面を持っています。心の奥底では、私たちの心は完全さに渇き、この世の不完全さに叫びを上げているのです。
前日には、最初の鍵が語られていました。私たちの価値は、何よりも神の愛に基づいており、成果によるのではないということです。「ある」ことが「する」ことに先立ちます。実を結ぶのは木のほうです。
この朝、ロマンは、ダビデの子で、力があり、富み、非常に賢い王であったソロモンの二つの言葉に基づいて語ります。箴言の一節と詩篇127篇です。そこから二つの鍵を引き出します。神を知ること、そして神とともに人生を築くことです。メッセージは、その日バプテスマを受けた姉妹の証しで締めくくられ、語られた内容と重なる歩みが分かち合われました。
メッセージの流れ
1. 完璧主義、完全さへの渇き
- 週末を通して用いられた定義は、完全さへの過度なこだわり、過剰な要求、失敗への恐れ、そして自分の過ちや限界を受け入れることの難しさです。
- 成長し、前進したいと願うのは良いことです。しかし、人はすぐに一種の強迫観念に陥ってしまいます。
- 完璧主義は、高ぶり、疲れ果てること、行動できなくなること、そして自分が思う理想に合わない人への批判につながります。
- 最初の鍵の復習です。人の価値は神の愛に基づいています。「私がどんな人間であるかは、私が何を生み出すかよりもさらに大切です。」
2. 知恵のはじめは、神を知ること
- ソロモンは、世界中から人々が教えを求めて訪れる人物でした。それでも彼はこう記しています。「主を恐れることは知恵のはじめである、聖なる者を知ることは悟りである」(箴言9:10)。
- ロマンは、大賢者の言葉としてこの節はほとんど皮肉に思えると言います。クリスチャンになってから、何度もこの節を思い巡らしました。「本当に驚きました。」
- それは理論上の知識ではなく、個人的で深い知識、つまり関係のことです。
- スポーツでは基本が大切だと言われます。ソロモンにとって、人間の知性の基本は神を知ることです。
- ここで神を恐れるとは、神をありのままに認め、畏敬の念を抱き、敬うことです。
- 私たちの社会では、学位や高い地位は一部の人に限られることが多く、ロマンはそうした人々のために神に感謝しています。しかし神の国では、知性や知恵は知的エリートだけのものではありません。
- ソロモンは「頭を使うのをやめなさい」と言っているのではありません。知恵において成長することを望んでいるのです。オックスフォード大学の数学者ジョン・レノックス教授も、宇宙の探究は私たちの内にへりくだりの心を生み出すはずだと語っています。
3. 求めている完全さを神のうちに見いだす
- どれほど知性があっても、神の無限の知恵の前には必ず限界があります。
- 神のうちに完全さを見いだすことには、深い満足があります。「パズルのピースがはまるような感覚です。自分の中に探していた完全さは、結局、自分の中ではなく神のうちにありました。」
- この完全さの源に近づくなら、自分を神とみなすという罠に陥らずに前進できます。
- 自分に問いかけたい質問があります。「完璧主義にとらわれているとき、私は少し神の代わりをしようとしていないだろうか。」私たちが神になろうとするかぎり、不満は消えません。
- 神を認めることで、私たちは調整され、健全な立ち位置に戻されます。
- 聖書の中で、神は奴隷を使う主人ではなく、良い父として自らを示しておられます。私たちを打つための杖ではなく、助けるための手を差し伸べてくださいます。愛情深い父として、私たちを教え、鍛え、正してくださいます。
- 「間違えることが決してないのは、神だけです。」そのことが、平安を保つ助けになります。
4. 主が家を建てるのでなければ
- 二つ目の聖書の言葉は、ソロモンの歌です。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の寝ずの番はむなしい」(詩篇127:1)。
- ここでも、富と力を持つ王が、人間の一般的な考え方に逆らっています。神を自分のすることの中心に置かないなら、道を踏み外すおそれがあるのです。
- ロマンはこの箇所を自分の人生に置き換えて書き直しました。「私の家族が主に守られていないなら、世話をする者たちの見守りはむなしい。私の体が主に守られていないなら、それを守る者の見守りはむなしい。私の事業が主に導かれていないなら、それを導く者の働きはむなしい。」
- 自分の人生の課題で試してみることを、彼は勧めています。書き出してみるのです。
- 私たちは普通、すべては自分と自分の能力にかかっていると教えられます。聖書は、すべては神から来ると教えています。知的な能力も、芸術的な感性も同じです。私たちの役目は、これらの賜物を磨くことです。
- バプテスマのヨハネはこう言いました。「人は天から授けられなければ、何ひとつ受けることはできない」(ヨハネ3:27)。これは、感謝をもって物事を受け取るよう促します。会場にいた小さな赤ちゃんも、神からの贈り物です。
- 信仰とは、神に対する穏やかな信頼を持つこと、「ただそれだけ」です。
5. 主は愛する者に、眠っている間にも与えてくださる
- 「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はそのいとし子に眠っている時にも、このように与えられるからである」(詩篇127:2)。
- たとえ必死に努力しても、神が先頭におられなければ、私たちは間違った道にとどまります。
- 神は、愛する者の人生に積極的に関わることを望んでおられます。完璧主義の人は、休むことが「生産的ではない」と感じて、眠るのに苦労することがあります。しかし、眠っている間にさえ、神は与えてくださいます。「完璧主義の人にとっては、安らげることです。」
- 私たちが「もっとやらなければ、もっとうまくやらなければ」と言うところで、神はこう言われます。「まず私から始めなさい。私に寄りかかりなさい。」
- それは何もしなくてよいという意味ではありません。ソロモンは、働くこと、努力すること、厳格さについても語っています。しかし、すべては神から始まります。
- ロマンの問いかけです。「私たちは、自分の考えの中に神を招いているでしょうか。」日曜の朝や夜の祈りだけでなく、決断、仕事、お金、人間関係の中にも招くことです。
- 私たちはよく、神に自分の計画に加わってほしいと願います。「神様、私には大きな計画があります。ついてきてください。」聖書はその逆を語ります。神のみこころの中に入り、神に従うよう招かれているのは私たちのほうです。
6. 救い主症候群から抜け出す
- 私たちは、神なしに生きるようには造られていません。「私たちは自分の十本の指で動くことはたくさん学びますが、神とともに動くことは学びません。」
- 多くの責任を負うと、人はすぐに救い主症候群に陥ります。すべては自分にかかっている、すべてが自分の肩にのしかかっているという感覚です。
- 人を自由にするのは、こう言えることです。「主よ、私の事業をあなたにお任せします。教会をお任せします。子どもたちをお任せします。建てるのはあなたであって、私ではありません。担うのはあなたであって、私ではありません。」
- ロマンは数年前、燃え尽きを経験しました。彼を助けたのは、自分は船に一人で乗っているのではないと気づいたことでした。それまでは、まるで一人であるかのように生きていたのです。
- クリスチャンであっても、神を信じながら、ハンドルは握ったままでいることがあります。手放すとは、何もない空間に手を離すことではありません。誰かが自分を気にかけ、愛してくださると知って手放すことです。
- 完璧主義のように、自分が深く揺さぶられることの中に神を招きましょう。脇に座る客としてではなく、建てる方として招くのです。そこにこそ、本当の解放があります。
7. メッセージと重なる証し
- メッセージの後に、その日バプテスマを受けた姉妹の証しがありました。彼女は、生きていると感じたい、愛されたい、人生に意味を与えたいという渇きについて語り、それは自分一人では満たせないものだったと言います。
- 彼女は、芸術的な制作を通して世の中に自分を証明しようとし、そこに自分の価値を置くほどになったこと、そして主を土台としない「家を建てよう」として、疲れ果てるまでになったことを語りました。
- 自分の限界にたどり着いたとき、聖書を買うよう励ましてくれた人と一緒に祈り、イエスに身をゆだねました。彼女はマタイ11:28を引用します。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来るがよい。あなたがたを休ませてあげよう。」続けてマタイ6:33です。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
- 彼女はこう証ししました。「羊飼いがイエスなら、群れの一員であることは何も悪いことではありません。」
- 結びに、ロマンはこのマタイの箇所を週末のテーマにつなげます。イエスのもとに来て、休むこと。そして同時に、イエスが求められることを受け入れること。「天の門を開くのは、あなたの完全さではなく、神の愛です。」
この記事のポイント
- 完璧主義は、完全さへの本物の渇きから生まれますが、高ぶり、疲れ果てること、行動できなくなること、他人への批判につながります。
- 知恵のはじめは、神を個人的に知ることです。この知恵は、エリートだけのものではありません。
- 自分の中に探している完全さは、神のうちに見つかります。神は完全であり、あなたはそうではありません。だからこそ、自分の限界とともに平安に生きられます。
- 主が家を建てるのでなければ、私たちの働きはむなしいものです。努力や厳格さの居場所は残しつつも、すべては神から始まります。
- 神とともに人生を築くことは、救い主症候群からあなたを解放します。あなたは船に一人で乗っているのではありません。
自分への問いかけ
- あなたの人生のどの分野で、完璧主義があなたを疲れ果てさせ、行動できなくさせ、他人への批判に向かわせていますか。
- 自分に完全さを求めるとき、少し神の代わりをしようとしていないでしょうか。
- 詩篇127:1を、あなた自身の課題で書き直してみましょう。「私の…が主に守られていないなら、私の見守りはむなしい。」何が変わるでしょうか。
- 仕事、お金、人間関係といった具体的な決断に神を招いていますか。それとも、神に自分の計画についてきてほしいと願っていますか。
- すべてが自分の肩にかかっているかのように担っている責任はありますか。今日、それを主にゆだねることはできないでしょうか。
引用された聖書箇所
よくある質問
聖書は、完璧主義から抜け出すのにどう役立ちますか。
ロマンにとって、最初の鍵は神を個人的に知ることです。私たちは完全さに渇いていますが、聖書は完全な神を示しています。自分の中に探している完全さを、私は神のうちに見いだします。それは、自分の限界を受け入れる助けになります。神は完全であり、私はそうではないのです。
詩篇127篇の「主が家を建てるのでなければ」とはどういう意味ですか。
ソロモンは、神を自分のすることの中心に置かないなら、その働きはむなしいと述べています。ロマンは、この節を自分の人生に置き換えて書き直すよう勧めています。私の家族、私の体、私の事業が主に守られていないなら、私の見守りはむなしい、というように。すべては神から始まります。
救い主症候群とは何ですか。
すべては自分にかかっていて、自分の肩にのしかかっているという感覚です。責任には終わりがありません。燃え尽きを経験したロマンは、次の祈りに助けられました。「主よ、私の事業と、教会と、子どもたちをあなたにお任せします。建てるのはあなたであって、私ではありません。」