はじめに
宮下雪子師は、日本の米沢興譲教会に通い始めて13年目になります。最初のころ、家族は心配しました。「お母さん、そんなところに行って本当に大丈夫なの?」。教会を知らない人にとって、仕事を辞め、すべてを置いてそこへ行くことは、無謀なことに見えるものです。
ある日、娘さんが初めて教会を訪ねてきました。しばらくして、娘さんはそっとこう言いました。「ここの人たちって、ちょっと変わってるね。」お母さんが「私もその一人でしょ」とため息をつくと、娘さんはこう答えました。「お母さんが変わってることは、最初から知ってたよ。」田中牧師にごあいさつをしたとき、娘さんは母のお世話をしてくださっていることにお礼を述べました。牧師は笑ってこう言いました。「お母さん、大変でしょう?」娘さんはうなずきました。「ご心配なく。私たちがちゃんと見ていますから。」
日本語で「人の世話をする、面倒を見る」という意味で使う言葉は、コリント人への第一の手紙9章23節の「共にあずかる」と同じ言葉です。2026年9月30日の祈祷会で、説教者はこの言葉を全体の糸としてたどります。すでに救われているパウロが、こう書いています。「福音のために、わたしはどんなことでもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」これはどういう意味なのでしょうか。
メッセージの流れ
1. 福音とは、イエス・キリストご自身
- 「福音にあずかる」という表現には、少し不思議な響きがあります。私たちはすぐに、救われること、赦されること、天国に行くことを思い浮かべます。それは確かに本当です。けれどもパウロはすでに救われているのに、なお福音にあずかるためにすべてをする、と言っています。
- 福音を持っていることと、福音にあずかることは同じでしょうか。宮下雪子師にとって、福音とはイエス・キリストご自身です。
- ですから福音にあずかるとは、キリストを信じるだけのことではありません。キリストの自由、愛、生き方を自分のものにすることです。日々の生活の中でイエスさまに働いていただき、私たちの生き方を通して、この世界でイエスさまが具体的に見えるようになることです。
- メッセージは三つの点に沿って進みます。キリストの自由にあずかること、キリストの愛にあずかること、キリストの生き方にあずかることです。
2. キリストの自由とは、謙遜
- パウロは言います。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷となった」(19節)。自由なのに、すべての人の奴隷? ふつう自由とは、思いどおりに生きることです。ところがパウロは、自由だからこそ仕えることができるのだと言います。
- 説教者は会衆に、胸に手を当てて目を閉じ、まず自分の自由、次にキリストの自由を思い巡らすよう招きます。彼女自身は、自分の自由がぼんやりしているのに気づきました。掘り下げていくと、そこには不自由さがありました。一方、キリストの自由は透明で、どこまでも広がっていく空間のように感じられたそうです。
- なぜパウロは自由になったのでしょうか。ダマスコへの道で、熱心なこの人はクリスチャンを牢に入れるために出かけていました。それが自分の使命だと信じていました。その彼が、一瞬のうちに光の中でイエスさまに出会ったのです。私たちも一人ひとり、神さまに出会ったとき、人にはうまく説明できない、自分と神さましか知らない出会いを経験しています。
- それ以来、パウロはイエスさまに仕える、謙遜でひたむきなしもべに変えられました。キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、ほかのすべてを「糞土のように」思っています(ピリピ人への手紙3章8節)。
- 本当の自由の秘密はここにあります。イエスさまが私たちのために謙遜になってくださったので、私たちもその自由にあずかるのです。
3. 退けられるのではなく、受け入れられた日
- イエスさまの謙遜にあずかるとはどういうことかを伝えるために、宮下雪子師は、これまで何度も語ってきた出来事を話します。田中牧師の奥さまの首を絞めた日のことです。「初めて来られた方は、牧師夫人にそんなことをする人がいるなんて、と思われるでしょう。その人が、今ここにいます。」
- 生い立ちの中でたくさんの否定的なものを背負い、彼女の中にはいつも怒りが煮えたぎっていて、それを誰かにぶつけていました。心はそこまで病んでいたのです。
- 我に返った彼女は、自分を責めました。「私は何ということをしてしまったのだろう。取り返しがつかない。」牧師夫人は手紙を書きました。「あなたはそうしたくてしたのではありません。自分を責めないでください。心配しているのは私のほうです。いつか、ゆっくりお話ししましょう。」
- その面会までには4年かかりました。その日、教会は緊張に包まれていました。スタッフは、部屋のドアを開けておき、いつでも助けに入れるようにしておこうと提案しました。牧師夫人は断りました。「いいえ、ドアは閉めて、一対一で会います。たとえ首を絞められても、悔いなく死にます。」
- ふだんはその日は不在の田中牧師も、何かあっても説教者がこれ以上傷つかないよう、別の部屋で待機していました。また、9年間そこで訓練を受け、当時彼女が通っていた横浜で奉仕している牧師にも、電話がかけられました。「幼いころから傷を負っている人です。どうか大切にしてあげてください。」
- 「この経験を通して、私は、何の落ち度もないのに私のためにへりくだり、並外れた苦しみを引き受けてくださった牧師たちの中に、イエスさまに出会いました。そして、私は癒されました。」
- これが謙遜です。イエスさまは自分をゼロにして、相手を100とされます。相手の立場に完全に立たれるのです。それがイエスさまの自由であり、私たち一人ひとりがそれにあずかっています。
4. キリストの愛とは、十字架
- 20節から22節で、パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、律法のない者には律法のない者のように、弱い者には弱い者のようになりました。「私にはできないことです。」なぜパウロはそこまでできるのでしょうか。それは、キリストがまずそうしてくださったからです。
- 神さまは「あなたが私のところまで来なさい」とは言われませんでした。神さまのほうから私たちの世界に来てくださいました。説教者は以前、ほかの宗教に入っていました。神さまに近づこうと頑張りに頑張って、疲れ果てていました。そんなとき、田中牧師のテープに出会いました。「この先生の信じている神さまは、何か違う。」キリストが自分のところまで降りてきてくださる。この神さまを信じたい、と思ったのです。
- けれども、クリスチャンになってからも、彼女の怒りと生きづらさは変わりませんでした。怒りが最高潮に達したある日、一つのイメージが心に浮かびました。彼女は深い井戸の底、泥水の中に落ちて、暗闇で助けを叫んでいます。見上げると、光が見えました。イエスさまです。縄を投げてくださるのだと思いました。ところがイエスさまは、泥水の中に降りてこられたのです。
- 「この井戸に一緒に入ったら、私を助けられないじゃないですか。どうするんですか。」イエスさまは答えられました。「あなたと一緒に痛い。だから大丈夫。私があなたを救う。」
- イエスさまは、苦しむ人、罪人、泣く人と、いつも共におられます。そして最後には十字架につけられました。十字架とは、神さまが人間の最も深い苦しみにまで降りてこられたことです。「おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ人への手紙2章7-8節)。
5. ダミアン神父と愛の力
- 2000年、三宅島の噴火で、島全体が避難を余儀なくされました。宮下雪子師は5年間、東京で避難生活を送りました。そこで彼女は、田中牧師が北浦和で説教していることを知りました。彼女は牧師に会ってクリスチャンになったのではなく、テープを通してでした。初めて牧師の説教を直接聞いたとき、緊張し、やがて心を動かされ、それから毎週欠かさず通いました。今、牧師は日曜の午前は米沢で、午後は東京の市ヶ谷で説教しています。
- 北浦和の会場のそばには近代美術館があり、顔が少しくぼんだようなダミアン神父のブロンズ像があります。気になって、彼女は調べてみました。
- ダミアン神父は、ハワイのモロカイ島に隔離されたハンセン病の人々のもとへ、宣教師として自ら志願して行きました。彼は人々を看護し、家々や教会、子どもたちのための学校を建てました。子どもたち。つまり、そこでは結婚して家族を持つことができたということです。
- 日本では、かつて、ハンセン病にかかった人は戸籍から消され、人目につかないところに隠されました。結婚はできても、子どもを持つことは許されませんでした。まるで生きていないかのように扱われたのです。人間としての尊厳が奪われていました。
- ダミアン神父はハンセン病の人々と共に暮らし、自らもハンセン病にかかり、島で亡くなりました。神さまは彼を通して、この人々に希望と尊厳を与えられました。彼の愛が、人々に新しい命を与えたのです。
- 私たちもまた、私たちのところまで降りてきてくださった神さまに出会い、十字架の愛によって新しい命を受けました。この愛を受け、動かされずにはいられないほど心を打たれること。それが愛の原動力です。「しかし、まだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」(ローマ人への手紙5章8節)。
- なぜ、人は興譲教会に来ると変わるのでしょうか。そこで本物の愛に出会うからです。説教者は、田中牧師が話した一つの物語を紹介します。どこにも居場所がなく、教会にさえ居場所がなかった青年がいました。心は孤独でいっぱいで、誰にでも噛みついていました。ある晩、彼は牧師夫人のところへ行きました。「僕はゴミです。僕みたいなゴミには、生きる理由なんてありません。」彼女は何度も何度も言いました。「そんなことはありません。神さまはあなたを愛しておられます。」
- その青年はその後、隣の家の壁にスプレーで落書きをし、警察が出てくる騒ぎになりました。田中牧師は、彼を責めるかわりに、やったのかと尋ねました。「酔っていて、よく覚えていません。」すると牧師は言いました。「またやりたくなったら、私にスプレーしなさい。」これが十字架の愛です。「あなたの孤独も、怒りも、苦しみも、全部私にぶつけなさい。」この青年は、牧師を通して、イエスさまの本物の愛に出会いました。
- 愛するとは、相手を自分のところへ引き寄せることではありません。相手のところまで降りていき、そうせずにはいられないから、その傍らにとどまることです。パウロはこの愛によって生きていたので、自分の文化や立場にしがみつかず、人を理解しようとしました。福音にあずかることで、私たちもまた、人の痛みのそばに立つ者へと変えられていきます。
6. キリストの生き方とは、仕えること
- パウロは書いています。「なんとかして幾人かを救うためである」(22節)、そして「共に福音にあずかるためである」(23節)。彼が願っていたのは、ただ一つ、人々がキリストに出会うことでした。これこそ、イエスさまの生き方そのものです。
- 「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコによる福音書10章45節)。キリストは仕えることをやめられませんでした。最後の夜に弟子たちの足を洗われたことが、その象徴です。
- 宮下雪子師は老人ホームで働いています。彼女もお年寄りの足を洗いますが、その思いはまったく違います。「この人の水虫がうつりませんように、と思いながら洗っています。」けれどもイエスさまは王であられたのに、救うためにしもべのかたちをとられたのです。
- 彼女は毎朝、仕事に出かける前に、お年寄りと同僚に仕えることができるよう祈っています。それでも、現場に行くと、しもべとしての言葉や態度は、なかなか出てきません。
7. 「根性悪」:仕えることは、認めることから始まる
- ある日、彼女は車いすの男性をベッドに移すのを手伝っていました。男性は彼女を見て、ぽつりと言いました。「根性悪。」彼女はこの場面を看護学校で話し、学生ならどう答えるかを尋ねました。ある学生は「ありがとう」と答えました。驚いた彼女は、その学生が「根性ある」と聞き取っていたのだと気づきました。男性は確かに「根性が悪い」と言ったのです。
- 彼女自身は、手伝いながら、頭の中で返事を探していました。「私は説教を聞き、毎日黙想し、仕えることができるように祈っているのに。」そして口から出たのは、同じ言葉の投げ返しでした。「根性悪!」おじいさんは答えました。「俺、根性悪いとこあるなあ。」仕えるはずが、仕えられたのは彼女のほうでした。「これが現実です。私は全然仕えることができません。」
- 朝、彼女は祈りました。「私は同じ調子で言い返してしまいました。何と言えばよかったのでしょうか。」祈りの中で、神さまは一つのことに気づかせてくださいました。そう、自分にはそういうところがある。人の前で頭を下げることができないのです。
- 根性悪というのは、言葉そのものではない、と彼女は説明します。何でも自分のものさしで測り、決して人に譲らない、自由でない心のことです。そんな私のために、まったく罪のないキリストがへりくだり、並外れた苦しみを引き受けてくださいました。
- 十字架の上で、赦しを求めることを知らない者に代わって、イエスさまは祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)。彼女はこれを、こう言い換えています。「この罪を彼らに負わせないでください。私が負います。」イエスさまご自身が、彼女のために赦しを求めてくださったのです。
- これが心に染み込んだとき、何かが変わりました。自由のなかった心が、自由になったのです。彼女は心の準備をしました。次は、こう答えよう。「そう、私、根性悪なところあるよ。でも、こんな根性悪な者に介護させてもらって、ありがたいばっかり。」その瞬間が待ち遠しくなりました。おじいさんは、ただこう言っただけでした。「私、そんなこと言った?」
- 毎日、人々によって形づくられ、少しずつキリストに似た者にされて、彼女の中には感謝があふれてきます。老人ホームから自転車で帰る道すがら、彼女は心の中でつぶやきます。「今日もありがとうございました。」
- キリストと結ばれた新しい命が私たちの中に形づくられ、私たちがますますキリストに似た者に変えられていくとき、私たちは福音を知っているだけではありません。福音にあずかっているのです。
押さえておきたいポイント
- 福音とは、イエス・キリストご自身です。福音にあずかるとは、キリストの自由、愛、生き方が、日々の生活の中で私たちのものとなっていくことです。
- キリストの自由は謙遜です。自分をゼロにして、相手を100とすることです。
- 十字架の愛は、相手を自分に引き寄せません。泥の井戸の中にまで降りていき、その傍らにとどまります。
- キリストは仕えるために来られました。私たちは、何でも自分のものさしで測ってしまう自分に気づくことで、仕えることを学びます。
- 私たちを動かすのは、十字架で受けた愛です。そうせずにはいられないのです。
あなたへの問いかけ
- 胸に手を当てて、自分の自由とキリストの自由を比べてみてください。自分の自由の中に、ぼんやりしたところや不自由なところはありませんか。
- だれに対して、自分を「ゼロ」にして相手を「100」とすることが難しいでしょうか。
- イエスさまは、どの泥の井戸にすでにあなたと一緒に降りてきてくださいましたか。
- あなたの周りで、あなたが引き寄せるのではなく、そのところまで降りていくことを必要としている人はだれですか。
- 最後に心ないことを言われたとき、言い返しましたか。次は、何を認めて、何と言えるでしょうか。
引用した聖句
- コリント人への第一の手紙 9章19-23節
- ピリピ人への手紙 3章8節
- ピリピ人への手紙 2章6-8節
- ローマ人への手紙 5章8節
- マルコによる福音書 10章45節
- ヨハネによる福音書 13章1-15節
- ルカによる福音書 23章34節
よくある質問
コリント人への第一の手紙9章23節の「福音にあずかる」とはどういう意味ですか。
宮下雪子師にとって、福音とはイエス・キリストご自身です。福音にあずかるとは、救われて赦されることにとどまりません。すでに救われているパウロが、なおそのことを語っているからです。キリストの自由、愛、生き方を自分のものとして毎日生き、この世界で具体的に見えるようになることです。
パウロはどうして自由でありながら、すべての人の奴隷になれるのですか。
キリストの自由とは、思いどおりに生きることではありません。謙遜です。イエスさまは自分をゼロにして、相手を100とされます。イエスさまが私たちのためにへりくだってくださったので、私たちはその自由にあずかります。ダマスコへの道でイエスさまに出会ったパウロが、すべての人のしもべとなれたのは、この自由のゆえです。
なぜキリストの愛は十字架と結びついているのですか。
神さまは「私のところまで来なさい」とは言われず、私たちの世界へ、人間の最も深い苦しみである十字架にまで降りてこられました。説教者によれば、愛するとは、相手を自分に引き寄せることではなく、相手のところまで降りていき、その傍らにとどまることです。イエスさまが私たちにしてくださったように。