はじめに
私たちを神の愛から引き離すものは何もありません。ローマ人への手紙8章の終わりでは、思わず拍手したくなります。ところが9章の最初の数節で、パウロは大きな悲しみと、心の絶え間ない痛みを語ります。日本の米沢興譲教会の牧師、丸山芳浩先生は、ローマ人への手紙9章の連続講解の中で、「神の選びの計画」と題したメッセージを語りました。
出発点の問いは、単純で痛みを伴うものです。イスラエルは神に選ばれた民なのに、ユダヤ人の大多数はイエスを信じていません。神の言は無効になったのでしょうか。パウロの答えは「いいえ」です。この現実の背後には、人のわざによらない神の選びがあります。
牧師は教理だけで終わりません。ほとんど毎晩お酒を飲んでいた大学生の自分を、神がどのように選ばれたかを語ります。そして最後に、あなたにも関わる問いで締めくくります。選ばれた者として、どう生きるのか。
メッセージの流れ
1. パウロの悲しみと、彼が予想する疑問
- ローマ人への手紙8章38-39節は、喜びのうちに終わります。高さも深さも、そのほかのどんな被造物も、キリスト・イエスにおいて現された神の愛から、私たちを引き離すことはできません。「アーメン」と、思わず拍手したくなります。
- 9章の初めで、パウロは大きな悲しみと絶え間ない痛みを語ります(ローマ人への手紙9章1-2節)。私たちの感情もすぐに変わります。一つの出来事で、喜びが「もうだめだ」に変わってしまいます。
- パウロは感情の豊かな人でしたが、その悲しみには理由があります。彼は一つの現実から目をそらせません。異邦人は大勢救われているのに、礼拝や律法やさまざまな特権を受けていたユダヤ人の大多数は、福音に背を向けたままなのです。
- たしかに一日に三千人が救われたこともあり(使徒行伝2章41節)、ペテロの説教のあとにも救われた人々がいました。しかし、パウロがどこへ行っても、ユダヤ人の古い指導層に行く手を阻まれます。
- 牧師は一つのたとえを挙げます。子どもが高校受験を控えている親です。部屋にエアコンを入れ、音楽を聴いてリラックスできるようにとiPhoneを買い、さらに空気清浄機まで備えます。それでも成績は下がり続けます。しまいには「あれは全部むだだった」と言いたくなります。パウロがイスラエルについて聞こえてくると感じた問いが、これです。
- ローマ人への手紙9章は、問いと答えの連続として読めます。パウロは反論を先回りして、一つずつ答えていきます。この構造がわかれば、この章はずっとわかりやすくなる、と牧師は言います。
- 第一の疑問は6節にあります。神の言は無効になったのか。力を失ったのか。
- 第二の疑問は14節にあります。神に不義があるのか。つまり、神の選び方は間違っているのではないか、ということです。
- 第三の疑問は、この章の少し先に出てきます。だれも神の意思に逆らえないのに、なぜ神はなお人を責められるのか。牧師はこれを、漫才の一場面にたとえます。座っている人を一人ずつ指して、「救われる人、救われる人、人飛ばして救われる」とやるのです。飛ばされた人は思います。「じゃ私救われていないの」。
- この日曜日のメッセージは、最初の問い、つまり6節の問いにとどまります。牧師は、そこに私たち自身の救いにつながる神の恵みの手がかりを見いだしたいと考えています。
2. 民としてのイスラエルと、霊によるイスラエル
- 聖書で「肉」とは、食べる肉のことではありません。聖なるものに対して、この世に属するものを指します。
- 「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく」、またアブラハムの子孫がみな彼の子であるわけでもありません(ローマ人への手紙9章6-7節)。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、民としてのイスラエルを形づくります。しかし、すべてのユダヤ人が信仰をもっていたわけではありません。
- 牧師は自分の教会に結びつけて語ります。第一礼拝には、クリスチャンが多くいます。第二礼拝で田中先生が説教するときには、いろいろな人が来ます。長年のクリスチャン、歩み始めたばかりの「赤ちゃんクリスチャン」、他の宗教の信者、会社の研修で来た人。牧師自身も、あるとき信者ではない立場で、興味本位で来ました。聞いた話を次の学生コンパで話せば、女の子にうけるだろうと思っていたのです。
- イスラエルの歴史でも同じです。モーセとともにエジプトを出たとき、途中で倒れた者がいました。王たちの時代には、多くの人がバアルやほかの偶像に向かいました。
- どの時代にも、少数の真の信仰者である「残り」の者がいました。いちばんわかりやすい例が、バビロン捕囚です。七十年、一、二世代にわたる年月でした。神が帰還を許されたとき、帰ったのは少数だけで、ほかの人々はそこで生活を築いていました。
- 霊的なイスラエルとそうでない人を分けるものは、信じたこと、そして信仰によって行動したことです。
3. 肉の子と約束の子
- 神はアブラハムに子孫を約束されましたが、子どもが与えられないまま年月が過ぎました。アブラハムとサラは、そこで非常に人間的に考えました。アブラハムの血を引く子であれば十分だろう、と。アブラハムは、エジプト人の女奴隷ハガルとの間にイシマエルをもうけました。彼が肉の子です。
- 神は、奇跡を行われました。アブラハムが百歳、サラが九十歳のときに、イサクが生まれたのです。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」(ローマ人への手紙9章9節)。
- イシマエルとイサクのうち、神はイサクを選ばれました。イサクは正妻の子だから当然だと思うかもしれません。しかし牧師は強調します。聖書は、それが理由ではないと言っている。神が選ばれるのです。
4. ヤコブとエサウ:善も悪もしない先に選ばれた
- イサクはリベカと結婚し、リベカは双子を産みます。エサウが兄、ヤコブが弟です。ふつうは長男が選ばれます。しかし神は、生まれる前にヤコブを選ばれました。「二つの国民があなたの胎内にあり、[…]兄は弟に仕えるであろう」(創世記25章23節)。
- エサウは、行いが悪かったから退けられたのではありません。牧師はよく知られた話を思い出させます。狩りから空腹で帰ったエサウは、弟が作ったレンズ豆の煮物と引き換えに、長子の権利を渡してしまいます(創世記25章29-34節)。神はエサウが軽率なことを知っていて、慎重な弟のほうを選んだのだろう、と考えたくなります。「そうではないの」と牧師は言います。
- ヤコブのほうがすぐれていたわけでもありません。彼はずるく、神の前でいつも正しく行動したとは言えない人でした。
- では、なぜヤコブなのか。「しょうがないの。神が選ばれたんだから」。そこには、私たちには測れない理由があります。善を行うから選ばれるのでも、悪を行うから退けられるのでもありません。頭がいいから選ばれるのでもありません。
- 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ人への手紙9章13節)は、神がエサウを嫌っていたという意味ではありません。これはユダヤ人の表現で、非常に文学的で、意図的に誇張したものです。エサウは脇に置かれた、という意味です。
- 神は「わざによらず、召したかたによって」選ばれます(ローマ人への手紙9章11節)。神はイスラエルを諸国民の中から選び、イシマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを選ばれました。彼らが立派に行動したからではなく、神の主権によってです。
5. 神は酔っ払いの学生を選ばれた
- 「なんで私今ここで喋ってんだろう」。牧師は自分のことを取るに足らない器だと言い、それを毎日実感していると語ります。
- 山形大学の工学部の学生だった彼は、教会とまったく関係のない生活をしていました。理科と数学と実験にまみれていたのです。ほとんど毎晩、友人たちと安いお酒を飲んでいました。家庭教師のアルバイトで、ある子どもを教えてもいました。
- ある晩、翌日が家庭教師の日という前の夜、酔った話は一つの問いに行き着きます。人生に宗教は必要か。みんなが「必要だ」と答えました。一人の友人が、仏教にすると言い出します。理由は、秋田県にある自分の住所に「梵天」という、インドの仏教と関係のある言葉が入っているから、というだけのことでした。のちの牧師は答えます。「お前が仏教だったら俺キリスト教」。
- 翌日、彼が教えていた子は、興譲教会の教会学校に通っていました。その子が、古い礼拝堂での最後の礼拝のことを話します。田中先生のお父さんが建てた礼拝堂で、新しい会堂が建つ前の最後の礼拝です。来た人には、礼拝堂の床柱で作った十字架がもらえるというのです。「十字架もらいに来ますか」。
- 前の晩のお酒がまだ少し残っていた彼は、自分の言葉を思い出して答えます。「じゃあもらいに行くよ」。子どもは驚きました。「神様はその深夜の酔っ払いを選んだんだ」。
- その日、田中先生の説教が彼の心に触れます。彼は、真理は自分で選ぶものだと思っていました。しかし、その向こうに世界があることを知ります。彼は教会に通い続け、数年後に洗礼を受け、やがて献身します。
- のちに彼は田中先生に感謝を伝えます。「第3ポイントのところで、神様を信じるようになりました」。田中先生はぽかんとしていました。自分が語った説教を忘れていたのです。けれども、その説教で救われた人は、一言も忘れません。
- 「神様は私たち一人一人の行いに関係なく選ばれるのよ。酔っ払いの学生も神様は選ばれるのよね」。
6. 陶器師と粘土:神の主権
- 「イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある」(エレミヤ書18章6節)。
- 陶器師はろくろを回します。器の形ができてくると、つぶしてもう一度やり直し、これでよいというものができて、はじめて窯に入れます。神は陶器師であり、私たちは粘土です。一人一人がどんな器になるかを決めるのは、神です。
- なぜ私が選ばれて、あの人は選ばれなかったのかと考え始めると、わからなくなります。それが神の主権です。「なぜ」は、次回、11月のメッセージのテーマです。今日のところは、一つのことが確かです。条件を満たしたから、努力を積み上げたから選ばれるのではない、ということです。
7. 選ばれた者として生きる:三つの姿勢
- 牧師はまず率直に語ります。「私見たら分かるでしょう。選ばれるものなんて何も持っていませんでした」。献身して最初の日曜日、彼はまだ長髪でした。興譲教会では、だれも髪を切れとは言いませんでした。ありのままで受け入れられたのです。
- 神の導きを受ける。神の恵みと祝福に、いつも心を向けることです。将来が不安なとき、たとえば認知症になったらどうしようと思うとき、人は積み上げの人間的な計画を立てます。しかし神の恵みは、いつも私たちについてまわります。私たちは、うまくいかなかったことばかり見がちです。見る訓練をしていくと、あの導きにはこういう意味があったのだと、だんだん見えてきます。十のうち一つも見えなかったのが、やっと一つ見えるようになるのです。
- 責任をもって応答する。神の導きがあるからといって、選ぶことをやめてよいわけではありません。今日のお昼に何を食べるかというところから、選び取らなければなりません。そのとき、神は私に何を期待しておられるのだろうかと、いつも考えるのです。ときには自分の思いで選んで、うまくいかなかったと感じることもあります。ときには神様はこうだろうと思って選んで、うまくいくこともあります。神の御心に従うことは、楽な道を行くという意味ではありません。行き止まりに出会ったら、戻ることも、右に行くことも、スタートラインに戻ってやり直すこともできます。意地を張れば道を外れますが、導きに沿って行けば、少しずつ変えられていきます。
- 使命感をもつ。何のために生かされているのかを問うことです。「誰かのために生きようとすると命は最後まで燃えていきますよ」。苦難も耐えやすくなります。うまくいっているときも思い上がらず、うまくいかないときも、神様のご計画があるのだと思って、手放すことができます。ぎゅっと握りしめていると、振り回されます。
- 「選ばれる資格なんかないのに選ばれて生かされている」。恵みと祝福は私たちについてまわります。それに少しでも応答していくと、次の一歩が見えてきます。牧師は教会に、この一週間、神の導きにしっかり目を見開いて過ごすようにと勧めます。
要点
- 多くの人が信じないからといって、神の言が無効になったわけではありません。イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではないのです。
- 神は、イシマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを、生まれる前に、わざによらず選ばれました。
- 神は陶器師であり、私たちは粘土です。なぜあの人ではなくこの人なのかを探ることは、私たちを超えています。それが神の主権です。
- 神は、選ばれるものを何も持たない人を選ばれます。木の十字架をもらいに来た、酔っ払いの学生のように。
- 選ばれたことを知ると、神の導きを受け、責任をもって選択し、使命のために生きるようになります。
個人への適用
- 神に受け入れられていると感じるために、まだ自分の努力や長所をあてにしていませんか。
- 過ぎた一週間を振り返るとき、うまくいかなかったことばかりが目に入りますか。それとも、神の恵みのしるしを一つ見つけられますか。
- 今、どんな決断をしなければなりませんか。神が代わりに選んでくださるのを待つのではなく、神は私に何を期待しておられるのかと問いながら考えてみましょう。
- 今日、あなたはだれのために生きていますか。自分以外のだれかのために生きるなら、何が変わるでしょうか。
- あなたが強く握りしめすぎて、振り回されているものは何ですか。それを神の手にゆだねることはできませんか。
引用された聖句
- ローマ人への手紙9章6-13節
- ローマ人への手紙8章38-39節
- ローマ人への手紙9章1-2節
- ローマ人への手紙9章14節
- ローマ人への手紙9章19節
- 使徒行伝2章41節
- 創世記25章23節
- 創世記25章29-34節
- エレミヤ書18章6節
よくある質問
パウロが「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではない」と言うのは、どういう意味ですか。
丸山芳浩先生は、民としてのイスラエル、つまりアブラハム、イサク、ヤコブの子孫と、霊的なイスラエル、つまり信じて信仰によって行動した人々とを区別しています。どの時代にも、少数の真の信仰者である残りの者がいました。ですから、多くのユダヤ人が信じていないからといって、神の言が無効になったわけではありません。
なぜ神は「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と言われるのですか。
説教者によれば、これはエサウを嫌悪したという意味ではありません。ユダヤ人の表現で、非常に文学的で誇張されたものであり、エサウが脇に置かれたことを意味します。神は、ヤコブが生まれる前、善も悪もしない先に、わざによらず彼を選ばれました。
神に選ばれたと知ったとき、どう生きればよいですか。
丸山芳浩先生は三つの姿勢を示しています。神の恵みと祝福に心を向けて導きを受けること、神の前で自分の選択をして責任をもって応答すること、そして、何のために生かされているのかを問いながら使命感をもって生きることです。